「新選組局長近藤勇」
名前を口にしただけで背筋が伸びるような気がしてしまう気迫、厳格さがあります。
近藤勇はもともと武士ですらありませんでした。
そんな男が刀一本で幕臣にまでのぼりつめます。
近藤勇に憧れた者が次々に入隊し、一大勢力として拡大するのが新選組です。
刀の時代も終わりかける頃、近藤は壮絶な最期を迎えます。
なんと信じられないことですが、首の行方がいまだはっきりわかっていないのです。
今回は幕末の豪傑近藤勇の最後とその生き様に迫りたいと思います。
お付き合い下さいませ。
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新選組の最後
京都守護職であった会津藩松平容保が、京都の治安を守るために結成したのが壬生浪士組(後の新選組)です。
新選組と聞くだけで、「誠」の旗を見ただけで震え上がるほどの圧倒的な強さがありました。
そんな新選組も、大政奉還後は力を失っていきます。
鳥羽伏見の戦いが起こりますが、近藤勇は新選組を脱退した者に発砲され、大けがをして戦線を離脱します。
近藤勇は幕府の命により、甲府に向かいます。
新選組を甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を改めて、甲府城に出陣します。
200名ほどで甲府城に到着しますが、新政府軍の圧倒的な力に対して数時間で完敗します。
流山で出頭した近藤勇
甲州で敗れた近藤勇は、その後流山に向かいます。
その頃はすでに隊の威厳や規律を失っており、メンバーの脱退が続出します。
それでも近藤は改名して戦います。
敗れてもまた改名して兵を募集して立ち上がりました。
副長の土方歳三と共に、最後の最後まで戦います。
しかし、近藤もついに捕えられることになります。
坂本龍馬暗殺が近藤勇に与えた影響
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近藤勇は改名した名前で出頭します。
あくまで近藤はあきらめず、また戦うことの希望を失っていませんでした。
しかし、新政府の隊に新選組を脱退した者がおり、近藤であることが判明します。
また、土佐藩の谷干城(たにたてき)が坂本龍馬暗殺の犯人は新選組であると思い込んでおり、斬首を強く求めました。
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最後は板橋の刑場で斬首となりました。35歳の生涯でした。
近藤勇の首は板橋でさらされ、京都の三条河原でも再びさらし首となります。
近藤勇の首の行方
今では考えられませんが、その晒されていた近藤勇の首の行方がわかっていません。
いくつか説があります。
・東本願寺の住職が引き取り、東大谷に葬られている。
・新選組の齋藤一が首を持ち去り、京都宝蔵寺の住職に供養を依頼。その後愛知県岡崎の法蔵寺に葬られている。
・土方歳三が首を持ち去り、会津の天寧寺に葬られている。
最後に
二度も首をさらされるということ自体、近藤勇の存在がそれだけ大きかったことを物語っています。
近藤は大政奉還がなされた時点で、近い将来隊が消滅することをおそらく想像していたはずです。
しかしそれでも、何度も何度も再度兵を集めて戦う姿勢は、まさに「誠」の忠義でした。
最後まで土方と共に戦っていたというふたりの固い絆にも深いものを感じます。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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