河田小龍(かわだしょうりょう・しょうりゅう)。
幕末土佐藩一の知識を有した思想家であり、画家です。坂本龍馬に多大な影響を与えた男として有名です。

 

今回は河田小龍の生涯をたどりながら、その生き方を学んでいきたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さい。

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河田小龍は才能に満ちた人物

河田小龍は1824年に土佐藩士軽格の家柄に生まれました。
龍馬が1836年生まれですから、8歳年上です。

 

幼い頃から絵を学び、青年期には儒学を学ぶなど、好奇心と意欲が高い青年でした。

 

河田の画家としての才能は土佐藩の重鎮、吉田東洋にも認められるほどで、1844年には吉田とともに京に上ります。河田が20歳の頃ですね。

 

京の狩野派に入門します。
9代目狩野永岳に師事し、二条城の絵の修復に加わるなどして絵の技術を磨いていきます。

 

河田小龍とジョン万次郎との出会い

河田小龍と聞くと、坂本龍馬との関係について知りたい方が多いのではないでしょうか。

 

坂本龍馬の生涯についてはこちらで詳しくまとめていますのでぜひご覧ください。
関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで

 

どういった関係だったのか、そもそも河田はなぜ外国のことに精通していたのかなどですね。

 

それは河田と中浜万次郎(ジョン万次郎)との出会いがすべてでした。
河田がジョン万次郎の取り調べを担当したことがきっかけでした。

 

ジョン万次郎は土佐藩の漁師で、14歳の頃に漁に出て、遭難の末アメリカの捕鯨船に救われ、そのままアメリカに渡ります。
その後10年ほどアメリカで過ごして帰国した人物です。

 

当時の日本としてはあまりにもめずらしい経歴をもった人物でした。
藩としては当然危険人物である疑いをかけ、取り調べを始めたのです。

 

しかしジョン万次郎は日本語をほとんど忘れてしまっていたのです。
藩の役人はどうしようもなく、そこで蘭学を習得していた河田小龍に声がかかったのです。

 

他の人よりはコミュニケーションはとれると言っても、河田も英語が話せたわけではありません。かなり根詰めたやり取りが必要です。

 

そこで河田は藩に許可をとり、ジョン万次郎を自宅に連れて帰り、まず日本語を教えたのです。
その時に河田は英語を習得しました。

 

色々な話をしていくにつれて2人は親しくなり、深い仲となりました。
当時鎖国だった日本しかしらない河田小龍からすると、ジョン万次郎から聞く話は驚くものばかりでした。

 

のちに、アメリカでは選挙によって大統領を決めるという話を龍馬が聞いて衝撃を受けたというのは有名な話です。

 

河田はこのジョン万次郎の知識や経験をこのままにしておくのはもったいないと考え、万次郎から聞いた話をまとめて藩に提出しました。
これが「漂巽紀略」です。

 

漂巽紀略は藩内にとどまらず、幕府でも評判となります。
このことがきっかけで万次郎は幕府の直参として取り立てられることになるのです。

 

ジョン万次郎がした経験、そして見聞をまとめて世に出した河田小龍の功績は計り知れません

 

河田小龍と坂本龍馬との出会い

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河田と龍馬をつなぐ人物がジョン万次郎以外にもう1人います。

 

河田がもともと付き合いのあった、医者岡上樹庵の奥さんが龍馬の姉乙女だったのです。
新甫(しんすけ)と呼んだ方がわかりやすいですね。

 

土佐において、河田小龍ほどの教養をもった知識人はいませんでした。
河田は私塾として「墨雲洞」を開きます。
海援隊のメンバーでもあった近藤長次郎や長岡謙吉も河田の塾に通っていました。

 

龍馬はこの土佐藩一の知識人である河田より外国の情勢を耳にし、さらにジョン万次郎を紹介されたことは、龍馬の展望やその後の行動に大きな影響を及ぼしました。

 

河田は明治維新後も長く生きます。
急速に近代化する中で、水路やトンネル、市街図などの記録画を多く書き残しました。
明治31年(1898年)、75歳で亡くなりました。

 

高い好奇心と意欲を持ち努力する。
そして純粋に社会へ貢献できることを実行する、河田小龍はそんな生き方だったように感じます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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