このページは、坂本龍馬の誕生から暗殺される最後までの生涯、龍馬の魅力、龍馬を感じることができる足跡など、坂本龍馬の魅力をすべてご紹介させていただいております。
坂本龍馬に初めて興味を持った方から、すでに知っているけどもっと魅力を知りたい方まで、多くの方に坂本龍馬を味わえる内容となっています。どうぞご覧下さい。
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坂本龍馬。日本の歴史上これほど人気がある人物は他にいません。
カリスマと言えば織田信長、真田幸村がかっこいい、やはり徳川家康、、、
同時代に生きた稀代のリーダー西郷隆盛、たくさんの偉人がいて、それぞれ人気があり、今でも多くの小説やドラマになって私たちを魅了します。
しかし、「坂本龍馬」の右に出る者はいません。
それほど坂本龍馬は人気があり、人を魅了します。
実際に歴史上の人物や偉人の中で誰が好きかというアンケートが複数ありますが、一番好きと回答する人が多いのが坂本龍馬です。
器や度量のレベルが違うといいますか、言葉で言い表せないほどの魅力があります。とにかく「カッコいい!!」です。
私は坂本龍馬のことを考えたり、読んだり、書いたりすると、自然と自分が「熱狂」しているのを感じます。
「熱狂」を調べると、
血をわきたたせ、狂わんばかりに夢中になること。
とあります。
まさに坂本龍馬の生き方にぴったりな言葉です。
坂本龍馬は、熱狂するように生き抜き、亡くなって150年経つ今でも私たち多くの日本人を熱狂し続けています。
その一生は32年に満たない年月です。
短い一生を熱狂しながら生きたのが坂本龍馬です。
私も熱狂する人生を過ごしたいです。
何かに血をたぎらせ、夢中で、一生懸命に生きたいです。
そして、坂本龍馬のように、とまでは決して言えませんが、
「国や社会のために」、「故郷のために」、「家族のために」、「大事な人のために」、「自分の目標のために」、「誰かのために」
少しでも役に立てる生き方をしたい。
このブログが誰か一人でも構わないので、何かを感じ、何かを変え、お役に立てるものになればこれ以上の幸福はありません。
前置きが長くなってしまい申し訳ございません。
すでに熱狂してしまっておりますが、、、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。
長いページとなりますので、全部お読みになる時間がない場合は目次から選んでお読み下さい。なお、満年齢での記載としています。
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坂本龍馬の生涯と功績
土佐藩の下級武士として誕生
本名は龍馬ではない?
1836年1月3日、旧暦天保6年11月15日に誕生しました。
土佐藩の城下町である本町1丁目に生まれました。現在の住所は上町1丁目です。
父八平、母は幸といい、兄一人、姉が三人いる家族でした。龍馬は次男で末っ子ということになります。
兄は権平、姉は上から千鶴、栄、乙女です。権平は龍馬の21歳上、千鶴は19歳上です。三女の乙女が有名ですね。3歳年上の乙女は龍馬に大きな影響を及ぼした人物です。
本名は直陰(なおかげ)、改名して直柔(なおなり)といいます。私たちが呼ぶ龍馬という名前は通称です。当時は本名と通称があるのが普通でした。
龍馬は産まれた時に背中に毛が生えていたそうです。
背中の毛を見て駿馬のような人生を送るようにとの願いを込めて龍馬、また母が龍の夢を見たなど、名づけについては諸説あります。
坂本龍馬が生まれた土佐の桂浜
坂本家は裕福な家柄
武士としては下級武士ですが、坂本家は裕福な家でした。
坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)といって、質屋や呉服屋などをしている土佐では有名な豪商でした。
分家とはいえ、分与された資産が豊富にあったため、坂本家はかなり裕福な家だったそうです。
女性に育てられた龍馬
龍馬の実の母である幸は、龍馬が10歳の頃に亡くなっています。
その後は後妻に入った義母となる伊与に育てられます。
父と兄以外は女性であり、坂本家は女性が多い家族でした。
龍馬は女性にモテる生涯でした。一説によると、どことなく手伝ってあげないと自分では何もできないような、女性としては自分が必要なのではないかと思わせる面があったようですが、それはこの家族構成にあったことが伝わってきます。
幼少期の頃には薄っすらと夢が見えていた?
「坂本のお仁王さま」である乙女から教育を受ける
10歳になると龍馬は近くの学校に通いますが、ほどなくして辞めてしまいます。小説などではあまりに頭が悪いので先生に退学させられたといった話が出ますが、その事実は確認できていません。
とにかく何らかの理由で学校に通わなくなった龍馬は、三女の乙女から教育を受けることになります。乙女は学問も武道もできた才女でした。剣術はもちろん弓術、馬術、水泳、相撲まで強かったと言われています。三味線など楽器も得意でした。
非常に大柄で、「坂本のお仁王さま」というあだ名、異名?があったようですので、人となりが想像できます。体格がよく、かつ強い女性であったことがわかります。
乙女は龍馬のことを大変可愛がり、多くのことを龍馬に教えました。
そして龍馬にとっても唯一無二の存在が乙女であり、その関係は生涯途絶えることはありませんでした。龍馬が脱藩しても頻繁に乙女宛に手紙を書き送っており、ふたりがどれだけお互いにとって大事な存在であったかがわかります。
その手紙の存在は歴史的にも果たす役割が大きく、龍馬の生涯をこんなに辿れているのは手紙が多く残っているからです。
脱藩は命がけです。土佐の田舎から弟の龍馬のことを気にかける乙女。可愛くて可愛くて、心配で心配で仕方がなかったのではないでしょうか。龍馬もその乙女の気持ちも知っていたはずです。だからこその手紙だったのでしょう。
そんなふたりの兄弟愛を考えると、乙女が龍馬の死を聞いたときのことを考えると、、、
涙が溢れます。
申し訳ございません、早いですね^^;
つい気持ちが入ってしまいます。
龍馬の姉、坂本乙女 引用:wikipedia
義母の伊与が龍馬に与えた影響
あまり知られていないかもしれませんが、義母の伊与が龍馬に与えた影響は小さくありません。
伊与はしつけにしっかりした人物で、龍馬に対しても実の子供のように接し、叱ることも度々あったようです。「男は強く優しく」という方針があり、龍馬はたくさんお愛情を受け、また龍馬も慕いました。
また、伊与は二回目の結婚で、前の夫を亡くし、坂本家に嫁いできました。
前の夫の家にも龍馬は遊びに行くことがあったようで、その時に見た世界地図や外国の品物を見たり聞いたりしたことは龍馬に影響を与えました。
日本を超えた世界という視点はこの頃から芽生え始めていたのかもしれません。
龍馬の強さが土佐に響く
龍馬が12歳の頃、土佐にある日根野道場に入門して小栗流を学ぶようになります。
懸命に剣術修行する龍馬は、5年ほど経つと小栗流の目録を得ます。
言うまでもありませんが、この剣も龍馬を語る上で欠かせないものになります。
江戸への剣術修行
北辰一刀流を学ぶ
17歳の時、さらに強くなりたい龍馬は江戸に剣術修行に行きます。同じ土佐の8歳先輩の溝渕広之丞(みぞぶち ひろのじょう)と共に土佐を出発します。
この時、父の八平が龍馬に修行中の心得を送っており、龍馬はそれを大事にしました。内容は次のようなものです。
・忠義を忘れず、修行を第一に励むこと
・金銭の無駄遣いをしないこと
・色恋にうつつを抜かさず、大事なことを忘れないようにすること
龍馬は江戸の三大道場と言われる名門である、北辰一刀流の千葉道場に入門します。こちらも諸説ありますが、通説としては千葉定吉の桶町千葉道場で学んだとされます。千葉定吉は北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟に当たります。
黒船が龍馬に与えた影響
龍馬が江戸に着いたのは1853年の4月、その直後の6月にペリー率いる黒船が来航します。自費で修業に行っているとはいえ、緊急事態です。龍馬も品川の土佐藩邸行きを命ぜられ、警備の指示を受けます。
この時の龍馬はまだ周囲の武士たちと同じように、攘夷の思想があったことが父の八平に送った手紙でわかっています。
ただ、その後の龍馬の動きを見れば、この時に龍馬が感じた黒船の威力?魅力?に衝撃を受けたことが想像できます。
佐久間象山に出会う
同じ年の12月、思想家であり兵学者でもあった佐久間象山の私塾、五月堂に入門しました。
当時佐久間象山は日本でも指折りの知識人です。龍馬の興味や関心は溢れだしたに違いありません。
しかし、この頃佐久間象山は吉田松陰の密航に関与したことを疑われて投獄されました。
龍馬が象山から学んだ期間は約4ヶ月と短い期間でした。
関連記事:佐久間象山という幕末の天才-暗殺されたの?名言や子孫は?
一回目の江戸修行の終わり、土佐へ帰国
1854年6月、龍馬は約15か月間の修行を経て土佐に帰国します。
土佐での暮らし、龍馬アメリカを知る
土佐に戻った龍馬は、以前にいた日根野道場に通い、師範を務めました。
また、画家である河田小龍に出会い、外国の話をたくさん聞くことになります。
河田小龍は土佐出身でアメリカに11年住んでいたことのある、中浜万次郎(通称ジョン万次郎)から外国の話を多く聞き、そのことを書籍にまとめた人物です。
中浜万次郎は土佐の漁師でしたが、ある日船が沈没して漂流して無人島につき、なんとか生き延びていたところを、たまたま立ち寄ったアメリカ船によってハワイに連れて行かれた人物です。連れて行かれたと言っても、鎖国だった日本に行くことはできなかったので、助けられたといった方が正しいです。
河田からアメリカの政治や暮らし、蒸気船で貿易や商売をすることを聞いた龍馬は、日本との差に驚き、海外への関心や開国する必要性のようなものを持ったのもこの時です。
ジョン万次郎 出典:wikipedia.org
父八平の死
1855年12月、父の八平が亡くなり、坂本家は兄の権平が相続しました。
八平は59歳で亡くなりました。
龍馬の体格は八平に似たと言われています。剣や弓の腕前は相当で、書道や和歌などにも優れていた人物でした。
二度目の江戸修行
1856年7月に龍馬は再び江戸に出発します。龍馬が20歳の頃です。
築地の土佐藩邸を宿舎として、龍馬は剣術修行に精を出します。
武市半平太との出会い
この時龍馬に大きな影響を与える人物である、武市半平太と出会います。
出会ったと言っても、龍馬と武市は親戚の間柄であり、当然土佐でも交友があったはずです。
しかし龍馬と武市は同じ宿舎で生活しますので、都会で一緒に生活するというのは地元で遊んでいた頃の関係とはまた違うものがあるはずです。故郷である土佐の話、剣術の話、大都会江戸の時勢の話など、20歳の龍馬と27歳の武市には盛り上がる話題に尽きなかったのではないでしょうか。若い2人ですが、女性の話で盛り上がっていることは想像できません^^;
武市半平太は武道も学問も非常に優秀な人物でした。
剣については三大道場の1つである鏡心明智流を学び、その腕前は桃井道場の塾頭を務めるほどでした。
関連記事:土佐勤王党武市半平太の強烈なリーダーシップと驚きの切腹法
高知にある武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像
北辰一刀流を極める
1858年1月、龍馬は北辰一刀流の目録を得て、9月に土佐に戻ります。龍馬22歳の頃です。
この目録についても免許皆伝あったという声もありますが、残っている事実としては薙刀の目録です。
他流試合の記録や道場の塾頭をやっていたという事実を考えると、この時代を代表する腕前があったことは確かです。
親戚の山本琢磨を助ける
この二回目の江戸留学の時のエピソードとして有名なのが、龍馬の親戚にあたる山本琢磨を助けたことです。
山本琢磨は武市と同門の桃井道場に所属して修行の身でした。
ある日時計を盗んだことから、切腹の直前まで追い込まれます。
この時代の武士というのは、このような不正には厳しく、この事実を知られた山本は切腹を決意します。
今のように警察に捕まったとかそういうものではありません。
ただ不正は許せないというのが当たり前でした。当時の武士が外国人にも恐れられた背景には、このような自分への厳しさが根本にあったように感じます。
それを聞いた龍馬は、山本を逃がします。
確かに不正はしたかしれないが、それよりも命が大事であり、決して一度の失敗で自ら命を絶つことはない。
切腹してケジメをとるよりも、反省してまた励むことの方が尊い。それが龍馬の考え方でした。
山本はその後懸命に生き、日本初のクリスチャンになるなど、功績を残すことになります。
安政の大獄と尊王攘夷
坂本龍馬のここまでの生涯をたどると、剣を極めた男、海外に関心を持ち出した若者、といった印象が強いのではないでしょうか。
22年の生涯を数分で読める長さに凝縮することはできませんので、お伝えできていない分、現代の私たちが知り得ない龍馬も多分にあるはずですが、残っている史実をたどるとこうなります。
しかしこの先は少し変わってきます。
龍馬が変わっていくというのもありますが、時代が混沌としてきます。まずは簡単にどのような時代かを見ていきます。
龍馬が千葉道場での目録を得て、土佐に戻ったのが1858年9月です。
まさに世の中が大きく動いていました。
黒船の来航を発端にして、アメリカからの開国の要求が強くなります。
国内は「尊王攘夷」という思想が大きくなっていき、幕府の力に陰りが見えてきます。
1958年には井伊直弼が大老に就任して日米間で条約が結ばれると、反対する攘夷派への弾圧、安政の大獄が起きます。1860年には井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起きることになります。
関連記事:井伊直弼とは?【安政の大獄の真相に迫る】子孫は彦根で愛される市長
その時の土佐藩の動向
土佐藩の動向については、藩主の山内容堂が吉田東洋を参政にして、積極的な政治を行っていました。将軍継嗣問題では容堂は薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭などと共に、一橋派に名を連ねていました。
関連記事:島津斉彬という名君を見よ!西郷隆盛、弟久光との関係を紹介
関連記事:徳川斉昭(徳川慶喜の父)は子供が37人!!偕楽園と弘道館を造った名君
そのため井伊直弼が大老になると、敗れた一橋派であった容堂は、1859年に隠居命令を受けることになります。
しかし、隠居生活を行っているとはいえ、藩の実権は吉田東洋にあり、それは容堂が握っていることに変わりありませんでした。
山内容堂(出典:wikipedia)
坂本龍馬と武市半平太
その頃、龍馬の盟友である武市半平太は動き出していました。
この混沌としている時代です。誰が味方で、誰が敵か、その見極めは非常に大事です。武市もまずはその辺の動向を探っていた時期でした。
土佐藩の上士と下士
土佐の武士を語る上で欠かせないのが上士と下士の関係です。
土佐藩を山内家が支配するようになっていたのは徳川幕府になってからで、その前の戦国時代は長宗我部が大名でした。
徳川幕府が始まった時に、家康の意向によって山内家は土佐藩の大名として誕生しました。山内家が関ヶ原の戦いで徳川側に味方した見返りです。
この山内家と血筋や関係筋が上士と呼ばれ、土佐の上級武士になります。一方、そうではない武士は下士と呼ばれ、武士の中でも明らかな差別がありました。
この土佐藩内の差別は強烈で、他藩と比較しても非常に特徴のあるものでした。
そしてこの差別が幕末の土佐藩に暗い影を落とすことになります。
当然龍馬は下士であり、影響を正面から受けることになります。坂本家は下士の中では上の位で郷士でした。それでも下士は下士です。
もし龍馬が上士であったならば歴史通りにはなっていないはずです。脱藩することもなかったかもしれません。
下士は政治に参加することはできないのです。
いくら優秀でも、下士に生まれてきた時点で出世は諦めなければなりませんし、一生上士からの差別を受け続けます。下士は雨の日でも傘をさせないというから驚きます。
ちなみに武市半平太は下士の中では最上級の白札という身分でしたので、多くの部分は上士と同じように扱われます。
上士と下士の対立が強まる
1861年に下士が上士を斬るという事件が起こります。
酒に酔った上士が、歩いている際に下士とぶつかった。下士はすぐに謝罪したが、上士の気がおさまらず、お互い斬りあいとなる。この戦いは上士に軍配が上がり、下士は殺害されます。
しかしこれだけでは事件は終わらず、殺害された下士の兄がすぐに駆けつけて、上士を斬ってしまいます。
事件を聞いた上士、下士はそれぞれ当時者の家に集まり、上士は下士を、下士は上士を憎しみ合い、一触即発の状態となります。この時、龍馬も下士のところに駆けつけたと言われています。
この事件は殺害した下士が切腹することで収束しますが、この際に受けた処分があまりに上士と下士では不平等であり、しこりを残す結果となりました。
そしてこのしこりが土佐勤王党の結成のきっかけともなり、藩内が血なまぐさい状態になっていきます。
土佐勤王党の結成
その頃武市半平太は江戸で薩摩や長州、水戸といった尊王攘夷の志を持った志士らと交友を深め、各藩の情勢や考えを聞いて意見交換をしていました。そして、それぞれの藩に戻って、朝廷の力を強化させて、幕府に負けない力をつけることを誓い合っていました。
その誓いどおり、武市は土佐に戻って藩論を尊王攘夷にまとめることに奔走することになります。そのための組織が土佐勤王党です。
土佐に戻ってきた武市は早速龍馬に協力を求め、龍馬も賛同します。武市は一番初めに声をかけたのが龍馬であるということですので、武市の龍馬への信頼や期待の大きさが伝わってきます。
龍馬、長州藩に行く
龍馬は武市の指示により、長州藩に行くことになります。目的は武市の密書を久坂玄瑞に渡すことでした。
龍馬は生涯を通して共通していますが、実際に自分の足で現場まで行き、自分の目で見て知識や情勢を吸収しようとしました。
この時も、当時尊王攘夷の急先鋒であった長州藩、その中でも第一の人物と言われていた久坂玄瑞に実際に会いたいという気持ちが強かったのではないでしょうか。
長州藩以外にも丸亀藩や宇和島藩などにも立ち寄り、剣の試合をしながらその見聞を広めました。
関連記事:久坂玄瑞はどんなに凄い人?高杉晋作との友情に迫る!!
土佐勤王党の勢力拡大
藩内での武市と龍馬の人望は厚く、また武市のことを神様のように慕う者も少なくありませんでした。
剣の腕も江戸の三大道場で極めるほどでしたし、学問も優秀で交友関係が広い。誠実な性格で自分に厳しく、信じた道を曲げることはない。まさに男が憧れる存在でした。
後に龍馬の同士となる中岡慎太郎や、後に人斬りで有名になる岡田以蔵など、土佐の下士を中心として200名もの勢力になります。
その目的は藩を尊王攘夷にまとめることでした。
しかし、参政であった吉田東洋は公武合体論であり、藩としてもそれにならっていました。
いくら200名もの勢力があったとはいえ、下士の集まりです。
影響を与えることができても、藩論をくつがえすほどの力も材料もありません。
そこで計画されるのが吉田東洋の暗殺でした。
武市半平太との別れ
龍馬が土佐勤王党に所属していた期間は長くありませんでした。
土佐勤王党が結成されたのが1861年8月、龍馬が脱藩したのが1862年3月ですので、半年ほどの間でした。
土佐勤王党から離れる一番の理由は武市との考え方の違いだったと言われています。
武市は暗殺をしてでも目的を果たそうとしますが、龍馬はそうは考えませんでした。
また、2人の性格や武士としての忠義のようなものにも関係してきますが、武市はどうにか相手の考えを変えようとしますが、龍馬はそうしようとはしませんでした。良い意味で相手を尊重する考え方、悪く言うと相手に期待しませんでした。
この場合相手は藩であり、殿様です。郷士であり、上士に差別されてきた龍馬は、悪く言うと主君への忠義が薄かったのではないでしょうか。
さらに龍馬は尊王攘夷という思想とは明らかに違う思想を持ち始めていました。
柔軟な思考の龍馬には、何が何でも尊王攘夷という狭い思考は肌に合いませんでした。
武市はあくまで藩を動かそうと奔走しますが、龍馬はついには脱藩を決意します。
龍馬にとっての尊王攘夷
親友武市半平太は尊王攘夷に命をかけます。
武市だけではありません。当時多くの土佐藩士、水戸や薩摩、長州を中心とした「志士」が命を落としました。
軍隊に入って命令で動くのと、自ら決めて動くのでは違いますが、ある意味第二次世界大戦の時の特攻隊のような面がこの時期の志士にもあるのではないかと感じます。
成功するかどうかという面よりも、とにかく一歩でも前進すること、自分の命をかけてでもその想いや信念を果たすことの方に重きをおいていたのではないか。仮に失敗する確率の方が高くても、行動することの方が大事だったのではないかと感じるのです。
龍馬にはこのような思想はありませんでした。自分一人の命をかけても世の中は変わらないということ、命はあくまで何かを成功させるために、事を成すためにあるということを信条としていました。そのため、理想や思想よりも、行動に重きをおいていたのです。
そんな龍馬が尊王攘夷という思想に走らなかったのは当然な気がします。
しかし、土佐勤王党もそうですが、龍馬にとってこれまでの行動が無駄だったかというとそうではありません。
この時の尊王攘夷の志士としての行動がこの先活きてくることになります。
一番はこの頃の人間関係ではないでしょうか。
土佐の仲間はもちろん、長州藩で知り合った志士、江戸の剣術修行で出会った人脈など、そういった人間関係によって龍馬はこの先の人生を生き抜いていくことになります。
龍馬、脱藩する
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1862年3月、龍馬は脱藩します。龍馬が26歳の頃です。
脱藩、簡単に言えば主君との忠義を切り、藩士・武士ではなくなることを意味します。重罪です。
本人が藩に戻れなくなるのはもちろん、その家族も処分されることが通例です。
龍馬が最も大事で大好きな乙女姉さんにも迷惑がかかることになります。
当然龍馬も決死の覚悟でした。悩み抜いたうえでの決意だったことが容易に想像できます。
龍馬が脱藩を決意した時、家族はその異変に気づき、脱藩をしようとしていることを悟りました。あの手この手で脱藩を止めようとしたようですが、龍馬の脱藩を止めることはできませんでした。
小説竜馬がゆくでは、脱藩の際には姉の栄が龍馬に「陸奥守吉行」を贈ったと書かれており、そのことが理由で自害したと書かれていますが、それは事実ではないことが確認されています。
なお、陸奥守吉行については後に兄の権平より龍馬に贈られたという説が通説とされています。
尊王攘夷派の活動が活発化する
龍馬は沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)と共に脱藩します。
沢村はすでに脱藩していたが、武市に会うために一度土佐に密かに戻っていた頃でしたので、龍馬は沢村の手を借りて脱藩しました。沢村は後々まで龍馬と行動を共にし、海援隊でも一緒に活動します。
土佐を出た2人が最初に向かったのが長州藩でした。
当面の目標は尊王攘夷派に合流し、この頃注目されていた薩摩藩の島津久光の一行と共に活動することにありました。
しかし、薩摩の反論も土佐と同様に公武合体論であり、久光の上洛の目的は尊王攘夷ではなく、公武合体論を進展させ、自藩の力を強めるところにありました。尊王攘夷派の志士たちはてっきり久光は尊王攘夷で立ち上がったのかと勘違いしました。その勘違いのために起こってしまったのが寺田屋事件です。(龍馬が後に襲撃される事件とは異なります)
寺田屋事件は、もともとは味方同士であった薩摩藩士同士の斬りあいです。
このように、尊王攘夷の志士たちの行動が活発、過激になっていくのがこの頃です。
幕末の歴史がつまった寺田屋
吉田東洋の暗殺の犯人と疑われる
この頃、龍馬にあらぬ疑いがかけられていました。
参政吉田東洋の暗殺容疑です。そうです、武市率いる土佐勤王党がついに暗殺したのがこの頃でした。
龍馬が脱藩した日と暗殺された日が近いというのと、吉田東洋も剣の腕がある人物でしたので、その東洋が斬られるにはそれなりの腕が必要であるという見方があり、龍馬の腕が疑われる要因になりました。
疑いは晴れますが、暗殺が嫌で土佐勤王党から離れたのに、やってもいない暗殺を疑われるというのは龍馬の心情からすると気持ちの良いものではないはずです。
坂本龍馬の最大の恩師、勝海舟に出会う
脱藩して長州藩に向かった龍馬ですが、そこから先の行動がはっきりしていません。
通説としては薩摩藩に向かったと言われています。その後大坂、江戸と向かったことは確かで、1862年の8月には江戸に着き、千葉道場を宿にして生活しています。
志士との交流
脱藩した浪人は藩邸や藩士とは当然交流できません。少なくとも公にはですが。
この頃の龍馬は浪人という立場に少しずつ慣れてきていたのではないでしょうか。もしかしたら慣れるのに必死だったのかもしれません。私たちがイメージしている龍馬は生活に必死になるということはなさそうですが、実際はわかりません。
この頃は各藩から脱藩してきた志だけを持った志士、尊王攘夷の思想を持つ長州藩士らと交流しました。この時高杉晋作と初めて出会っています。
龍馬のターニングポイント、松平春嶽と勝海舟
脱藩した年の1862年12月、龍馬の一生を左右する大きな出来事が起こります。
松平春嶽、そして勝海舟との出会いです。
当時幕府の政事総裁職を務めていた、越前福井藩の松平春嶽に龍馬は会います。
龍馬と松平春嶽とどのようにして会ったのかは諸説ありますが、千葉道場の師範、千葉貞吉が福井藩の剣の指南役を務めており、その紹介で会ったというのが有力です。
そこで松平春嶽は、勝海舟を紹介したようです。松平春嶽の記録に記載があります。
竜馬がゆくなどの小説では、龍馬が勝海舟を斬りにいったが、そこで勝に海軍や開国の話を聞いているうちに考え方が変わり、勝の弟子になったという話もあります。それも勝の記録に書いてはいるのですが、勝が話を大きくしており事実ではないという見方が多いです。
後に亀山社中でも一緒に行動する近藤長次郎と、土佐勤王党で活躍し、後に切腹を命ぜられる間崎哲馬、それに龍馬の3人で松平春嶽に会いにいきます。そこでどのような話があったのでしょうか。
この時に春嶽が勝海舟を紹介したこと、後に龍馬が塾長になる神戸の海軍操練所に支援することを考えると、春嶽は並ではない魅力を龍馬に感じたことは間違いないはずです。
言うまでもありませんが、このタイミングは龍馬にとって大きなターニングポイントです。
今でいえば総理大臣の立場である松平春嶽、軍艦奉行という軍の要職に就く勝に会っています。
松平春嶽 出典:wikipedia
これまで龍馬は土佐では藩主を見たことすら会いません。現代で言えば県知事に会ったことがないようなものでしょうか。
龍馬の立場では本来会えない人と出会ったということがよくわかります。
龍馬の身分などに変化があったわけではありませんが、龍馬が生きるステージは大きく変化したことは間違いありません。
また、春嶽から勝の他にもう一人紹介されていて、それが横井小楠です。
当時の知識人としては第一の人物で、福井藩の顧問をしていました。後に龍馬は小楠から今後の日本が進むべき道を教えられ、大きな影響を受けます。
関連記事:横井小楠の思想が歴史を創った~坂本龍馬との関係から暗殺まで~
龍馬の夢
勝海舟は実際に船長としてアメリカに渡ったことがありました。当時船の技術に関して日本随一でした。
そんな勝から聞く話は龍馬にとって有意義な話だったに違いありません。
もともとジョン万次郎の話などを通じて、海外への視野や関心があった龍馬ですので、まさに「熱狂」していたのではないでしょうか。
船で海運業をする、商売で利潤を得ることで国力がつく。海軍を強化して国を守る。
勝の存在によって、龍馬が薄っすらと頭の中にあったイメージがはっきりとして、自分が進む道、夢が明確になります。
また、勝は14代将軍徳川家茂からの信頼も厚かったため、勝の力は大きなものでした。勝の力によって龍馬の夢が現実になっていきます。
また、この頃もう1つ龍馬に変化が起きます。
勝が土佐藩主山内容堂に働きかけを行ってくれたおかげで、龍馬の脱藩が許されることになりました。
そうは言っても、後に帰国命令に従わなかったことで、再度脱藩扱いになるのですが。
勝海舟 出典:wikipedia
神戸海軍操練所の設立
海外情勢に明るい勝は、日本の海軍設立が急務であることを認識しており、将軍である家茂にその学校を設立する許可を得ました。海軍を創るにしても、まずは船の操縦ができなくては話になりません。
また、都に近い神戸や大坂は軍備の強化が必要な状況でした。
そうして設立されたのが「神戸海軍操練所」です。龍馬は操練所の塾長に就きます。
なお、この操練所が正式に設立する前に、勝の私塾として活動は開始されました。
幕府から3,000両の資金が提供されますが、まだまだ足りませんでした。
そこで資金援助を引き受けてくれるのが、松平春嶽です。なんと5,000両という大金を貸してくれました。松平春嶽は龍馬にとって大恩人と言えます。
1864年5月、ようやく神戸操練所が開かれました。
後に亀山社中(海援隊)のメンバーとなる面々、薩摩や土佐、福井など複数の藩士も入学しました。
この時期の龍馬は、日々大好きな船のことを学ぶことができ、毎日心を躍らせている姿が想像できます。
妻おりょう(楢崎龍)との出会い
神戸操練所が設立された頃、もう1つ龍馬に大きな出来事が起こります。
後に妻となるおりょうとの出会いです。
困窮していたおりょうですが、龍馬は京都にいる時の定宿であった寺田屋、その女将であるお登勢におりょうを預けます。おりょうは寺田屋で働きながら生活することになります。
おりょう 出典:wikipedia
龍馬の逆境
土佐勤王党が崩壊
1863年の春、龍馬が神戸で海軍塾の設立に向けて奔走していた頃、尊王攘夷の志士への弾圧が強まります。地元土佐でも大きな変化が起こります。土佐勤王党の崩壊です。
藩の舵をとる中心メンバーではない武市ですが、これまで緻密な計画と行動力で、猛烈な勢いで力をつけていました。土佐はもちろん、他藩にまで武市の存在は響き渡り、武市としては目的の達成に着実に近づいていました。
暗殺をしてまで藩の考えを尊王攘夷にまとめようとする武市ですが、藩の実権を握る山内容堂は公武合体論の姿勢を曲げません。
暗殺した吉田東洋は、容堂が一番に可愛がり、信頼していた人物です。容堂は、その東洋を暗殺した犯人の黒幕が武市であることを当然察知しています。
容堂としてはこのまま放っておくわけにはいきません。
ついに土佐勤王党のメンバーが次々に投獄され、そして処分されていきます。
1865年6月には岡田以蔵が打ち首に、7月には武市半平太が切腹して亡くなります。
龍馬が嘆く様子が乙女への手紙に残っています。
確かに考え方の相違で決別しましたが、龍馬にとっては地元の仲間という意識が強かったはずです。龍馬の悲しさ、悔しさが伝わってきます。
この手紙の中に、あの有名な言葉である「日本を洗濯する」といった内容が記載されています。その頃の龍馬には日本をどうにか良い国にするという意志があったことがわかります。
池田屋事件、神戸操練所の閉鎖
ちょうど同じ頃、京都でも多くの尊王攘夷の志士が命を落としました。
1864年6月には池田屋事件、7月には禁門の変が起こり、尊王攘夷の急先鋒であった長州藩が強烈にやられます。
新選組の台頭などもあり、情勢としてはすっかり幕府が力を取り戻しました。
過激な尊王攘夷派に関して、龍馬も動いていなかったわけではありません。
この過激な者たちの力を借りて、いずれ必要になるだろう蝦夷地の開拓を計画していました。実際に幕府から資金援助してもらう承諾を得ていたというのですから、龍馬の実行力には驚きます。
龍馬としては、無駄な死をさせたくない、今は力をつけるための行動が最優先であることを認識し、必死に動いていました。しかし、龍馬の心配は最悪なかたちで訪れました。
この事件は龍馬にとっても大きく影響しました。
海軍操練所の塾生の数名が、池田屋事件、禁門の変に参加しており、幕府から閉鎖命令が出されたのです。
幕府が運営する塾に、幕府に攻撃しようとする人物がいるのですから、閉鎖されるのもわかります。龍馬の大恩人であり、海軍操練所の責任者であった勝も失脚することになります。
亀山社中の結成
龍馬はもちろん、神戸操練所の多くは脱藩浪人でした。操練所がなくなると行き場がありません。
勝はこの脱藩浪人をどう対処するかを思案し、薩摩藩に龍馬らを面倒見てもらうよう依頼しました。家老の小松帯刀は快諾し、薩摩に受け入れます。
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1865年3月に操練所は閉鎖しましたが、翌々月には薩摩藩の出資によって「亀山社中」が結成されました。日本で初めての商社と言われています。龍馬が29歳の頃です。
時には藩同士の交渉をし、時には商売し、時には船の操縦をし、時には海軍にもなるという、その時々で求められていることを行う組織であったと言えます。こうして龍馬は、一時はお先真っ暗な状態でしたが、なんとか立て直すことができました。
薩摩が受け入れた理由には、軍艦の操縦技術が欲しいという正当な理由もありました。
元は素人の集まりだった龍馬らでしたが、勝の海軍塾で学んだ技術は確実に活かされることになります。
薩長同盟の実現
龍馬の名前を一番聞き、教科書でも登場するのがこの薩長同盟です。龍馬が歴史を動かした代表的な功績が薩長同盟です。
薩長同盟は龍馬の案だった、薩摩に依頼されて動いたなど、こちらについても諸説あります。いずれにしても龍馬の動き、龍馬を仲介役として同盟が結ばれたことは間違いありません。
仲が悪い薩長
この同盟が有名なことの理由に、薩長両藩の仲悪さ、手を結ぶわけがないという背景があり、それを龍馬の仲介によって手を結ばせたことが大きいです。
この両藩に決定的な溝ができたのは禁門の変の時でした。
過激な長州藩を打ち払うために、幕府軍は圧倒的な兵力を用意します。その際に中心的な活躍をしたのが薩摩藩でした。その時の薩摩軍のトップが西郷隆盛です。
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長州藩士は薩摩を「薩賊」と呼び、非常に強い恨みを持っていました。
それが仲良く手を握りましょうと言っても到底難しく、両藩は感情面で深い距離がありました。
龍馬流交渉術
そこで龍馬は、お互いが助かることを行うことで、手を結ばせようとしました。
長州は新兵器の入手に困っていました。いつ第二次長州征伐が行われるかわからないという状況で、また幕府は諸外国に対して長州への武器の販売を禁止していました。
一方、薩摩は米です。薩摩藩は不作が続き、食糧に困っていました。
長州が使う武器を薩摩藩の名義で買い、実務は亀山社中が引き受けることにしました。薩摩が困っている米にしても、亀山社中の操縦する船によって長州から薩摩に送り届ける。
龍馬はこの2つの計画を立てて実行していきます。
亀山社中としても初めての大仕事でした。長州からの米に関しては後々、長州も困っているときに受け取れないと薩摩が受け取ることを断っています。
亀山社中の近藤長次郎が活躍し、見事武器を買い付けることに成功しまし。蒸気船と最新式の銃が長州藩に渡されました。
この薩長同盟に中心的に動いたのが龍馬率いる亀山社中と土佐藩を脱藩した龍馬の同志である中岡慎太郎でした。
中岡慎太郎 出典:wikipedia
薩長同盟、龍馬は重要人物に
1866年1月21日、小松帯刀の京都邸で密約は交わされました。
薩長盟約と言われることもある。
この盟約が結ばれるまでには二度ほど交渉が失敗に終わっています。
一度は下関で長州の代表であった桂小五郎が西郷隆盛を待っていましたが、西郷は訪れませんでした。急きょ京に向かなくてはなりませんでした。
京での交渉も簡単にはいきませんでした。
1月8日にも薩長両藩は会って交渉のテーブルにつきましたが、双方自ら頭を下げることができずに、実現しませんでした。
最終的には龍馬が京に到着してから確認したところ、同盟が結ばれていないことに驚き、龍馬の立会いのもと、ついに同盟が結ばれました。
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薩長お互いがどこが悪いということではないように感じます。
亀山社中や龍馬の存在が珍しく、この当時藩の中の自分、藩をどうするかということを考えるのが当たり前であり、直接関係していない龍馬がこのように動くこと自体珍しい存在でした。
どこにも所属していない、自分のメリットや利益を考えない龍馬の行動が相手の胸を打ったのではないでしょうか。
この薩長同盟は、直接的に倒幕を目指したものではありません。
この時点では、とにかく薩摩が長州を支援することが主な内容でした。他には当時政治の中心であった「橋会桑」、一橋慶喜、会津藩、桑名藩に対して、両藩が対抗することを誓い合ったものでした。
ただこの盟約によって薩長が結びつき、後に倒幕につながっていくことは間違いありません。龍馬は、この会合で話された内容を桂小五郎がメモした書面にサインしています。龍馬が30歳の頃です。
寺田屋事件(寺田屋遭難)
薩長同盟が結ばれた直後の1月23日、大役を務め上げた龍馬の命が狙われます。
龍馬は、伏見の定宿寺田屋に泊まっていました。
長州に龍馬の護衛を指示された三吉慎蔵と龍馬は、薩長同盟の祝いで酒を飲んでいました。
三吉慎蔵 出典:wikipedia
深夜2時頃、伏見奉行が龍馬を取り囲みました。
妻おりょうが先に気づき、2階にいる龍馬に知らせました。龍馬は高杉晋作から受け取った拳銃で、三吉慎蔵は得意の槍で応戦します。
しかし人数が多いのと、龍馬は手を怪我してしまいます。
何とか逃げ切った龍馬と三吉は材木置き場に隠れます。龍馬は動けないほどの怪我で、その間三吉が薩摩に救出を求めて何とか命を取り留めました。
伏見奉行は龍馬を引き渡すように薩摩に要求しますが、薩摩はそれを退けています。
龍馬は幕府に命を狙われる存在になっていました。
具体的に何をしているかまではわかっていなかったようですが、明らかに幕府の危険人物とされていました。指名手配犯のようなものです。
鹿児島に新婚旅行
薩摩藩は龍馬に医者の手配など、療養の対応をしますが、いくら薩摩藩邸内とはいえこれだけ明確に狙われていては危険です。
西郷隆盛の提案で龍馬は鹿児島に行くことになりました。おりょうも一緒にです。
霧島山や温泉などに浸かりながら、83日間鹿児島に滞在したといいます。
以前は日本で初めての新婚旅行と言われることもありましたが、事実はそうではないというのが通説となっています。
龍馬にとって、これほどのんびりと過ごした日々はないのではないでしょうか。
結婚したとはいっても、龍馬には家があるわけではありません。各地を転々とする人生ですので、おりょうにとっても至福の時間であったことは想像できます。
亀山社中から海援隊に
亀山社中は薩摩藩からの支援だけではなく、個人からも支援を受けています。それが長崎の小曽根氏という商人であり、その小曽根氏が長崎の亀山に事務所を用意してくれたために「亀山社中」としました。
実際に見るとそう大きな建物ではありません。
高台になっている場所で、そこからは長崎の港が眺められ、海を眺めながら大志を抱く龍馬が想像できます。
船が沈没
西郷の計らいのおかげで傷が癒えた龍馬は、亀山社中の活動に戻ります。ここでも龍馬に災難が襲います。
薩摩から借りていた船、ワイル・ウエフ号が沈没して、メンバー12名を失います。自分が結成した亀山社中とその活動、それによって海の上で死なせてしまったことへの悲しみは計り知れません。
しかし龍馬は立ち止まりませんでした。
長州に行った龍馬は、この時に起こっていた第二次長州征伐に参戦します。高杉晋作が指揮する小倉藩攻めに参加して貢献します。
龍馬らが用意した最新式の武器の成果もあり、兵力では圧倒的に劣る長州藩が幕府を討ちます。
薩長同盟によって薩摩藩が幕府側につくことを拒否したことで、他藩が積極的ではなくなったことは幕府軍の士気を下げる結果になりました。
この戦いの影響は大きく、長州が再び力を得て、幕府がさらに衰退していくことを決定的にしました。1866年6月のことです。
坂本龍馬と高杉晋作
高杉晋作はこの時にすでに結核にかかっており、症状はでていたようです。
戦争が終わると療養しましたが、治ることはなく、1年も経たずに27歳で亡くなります。
高杉晋作、坂本龍馬ともにカリスマ性があり、英雄として取り上げられることが多い2人ですが、接点はあるようですが、具体的なやり取りが残っていません。多くのドラマでは装飾している点が多々あります。
もっともっと2人の関係や逸話を知りたいと思ってしまうのは私だけではないはずです。
寺田屋事件の時に龍馬の命を助けた拳銃ですが、高杉から贈られた拳銃だったという説もあります。高杉が上海に行ったときに手に入れた銃で、長州のために武器を手に入れ、薩長同盟のために奔走する龍馬に対する高杉からの贈り物だったという話です。
今回の第二次長州征伐は、龍馬から高杉への恩返しだったのかもしれません。
2人の会話はわかりませんが、龍馬も長州藩のリーダーであった高杉の病状を理解していたはずです。病気でも戦う高杉に対して龍馬は応えたのではないか、勝手ですがそんな風に想像してしまいます。
龍馬も高杉の死から半年ほどで暗殺されることになります。
幕末の動乱をおさめるために生き抜き、その決定的な準備が終わった時に2人はそれぞれ散ったように感じてしまいます。
高杉晋作 出典:wikipedia
海援隊となる
一時は船がなくなった亀山社中ですが、ここでも薩摩が支援してくれました。1866年10月です。
想像するに、龍馬が一番楽しかったのはこの頃ではないかと感じます。
龍馬がやりたいことはやはり商売にありました。海に出て、船を使った海運業。龍馬の夢はここにあります。
大政奉還後に、自らは政治から離れ、海援隊として世界を股にかけたいということを示しています。
現代には龍馬らが活躍した亀山社中も海援隊も、名前としては知っていますが、実際に商売で活躍した時期は短いものでした。
そんな龍馬に注目する人物がいました。
土佐藩の参政、後藤象二郎です。
後藤象二郎 出典:wikipedia
後藤はこの後龍馬と共に、大政奉還に向けて奔走します。
後藤は山内容堂の信頼が厚く、軍備の強化や積極的に政治改革を行っていました。後藤は幕府の力が衰えてきた時勢を敏感に察知しており、このままでは土佐の立場が良くないことを感じていました。
この頃龍馬の名前は世間に響き渡っており、急速に勢いがあった薩長に近い龍馬を頼るようなかたちで後藤は接近してきたと言われています。
1867年1月に2人の会談は行われました。清風亭会談と言われています。
この時に龍馬らの脱藩は許され、土佐藩の組織となります。「海援隊」と名付けられました。
龍馬らとしても薩摩藩にばかり頼ってきましたが、出身の藩である土佐からの援助も受けられます。後藤としても龍馬との関係ができ、情報の収集や武器の購入などが進むので、双方のメリットが合致しました。海援隊は約50人という組織になります。
この時龍馬の盟友中岡慎太郎は陸援隊を結成しています。
坂本龍馬と岩崎弥太郎
龍馬が亡くなり海援隊が解散された後、商社として大きく発展させたのが三菱グループを創設した岩崎弥太郎です。龍馬よりも1つ年上です。
大河ドラマ「龍馬伝」では岩崎弥太郎が龍馬の生涯を語るというかたちで全体が進んでいきます。
ドラマでは子供の頃から接点があったように描かれていますが、2人が会った記録として残っているのはこの海援隊が結成された時です。藩から支援する立場として経理や事務などを行って海援隊を支えています。
どういった関係であったかまでははっきりとわかっていませんが、岩崎弥太郎の日記には龍馬が弥太郎に酒を渡した、一緒に飲んだことが書かれています。
弥太郎は身分としては一番低い地下浪人(足軽や庄屋などよりも低い)から藩の役人になり、後藤象二郎に目をかけられて出世していきます。
龍馬、弥太郎、どちらがどう凄いとは比べることはできませんが、想像するに周囲とは明らかに違う考え方や人格であった2人であったのではないでしょうか。そんな2人ですから、2人にしか見えない視野、ビジョン、また2人にしかわからない悩みなどもあったはずです。
タイムスリップして2人の会話の録音をしたい!そんなつまらないことを考えてしまうほど2人が交わした会話を知りたいです。大きすぎる志と器、坂本龍馬と岩崎弥太郎の2人が同じ土佐に生まれ、同じ時間を過ごしていたというのは熱狂してしまいます。
いろは丸沈没事件
軌道に乗ってきたかと思いきや、また龍馬に大ピンチが訪れます。
龍馬らは、海運業をさらに積極的に行っていくために、大洲藩から運行する際に料金を支払うかたちで船を借りていました。それがいろは丸です。
海援隊は長崎から大坂に向かって出航しましたが、途中で紀州藩の明光丸と衝突して船が沈没してしまいます。乗組員は明光丸に移って命は助かっています。
土佐側は後藤象二郎と龍馬を中心に紀州と争います。紀州はそこまで大きな責任を感じていませんでしたが、龍馬らは事故の原因は紀州にあることを主張します。龍馬は船の基本である航海日誌をおさえ原因を追究します。また、事故が起きた場合には法律に則り対応することを訴え、見事賠償金を勝ち取ります。
荷物の賠償も主張したため、その賠償額はもともとの船の金額の優に倍以上であり、今の金額にして約30億円前後という大金でした。
ここでも龍馬は窮地に陥るほどの状況に追い込まれますが、機転と実行力で何とか巻き返しました。
最後の大仕事、大政奉還
龍馬は休む間もなく次の仕事にうつります。大政奉還です。
船中八策
1867年6月9日、龍馬は後藤象二郎と共に長崎から京を目指しました。
四侯会議(徳川慶喜、島津久光、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂)を行っており、参政である後藤は呼ばれていました。
この船の上で龍馬が書いたと言われているのが「船中八策」です。
船中八策は龍馬が書いたものではないという意見もありますが、暗殺される前に類似する文章を龍馬の筆跡で書いた書面が残っており、龍馬がまとめた案であることは確かであるとの見方です。
現代の言葉に直すと次のとおりです。
大政奉還
上下両院の設置による議会政治
有能な人材の政治への登用
不平等条約の改定
憲法制定
海軍力の増強
御親兵の設置
金銀の交換レートの変更
引用:wikipedia
龍馬がどうこうではなく、この時代背景や人物を何となくイメージできる人であれば、この内容がどれだけ革新的かがわかるのではないでしょうか。
幕府を倒す!その後の将軍は俺だ!
異国人は斬って斬って追い払え!
怪しい動きをしている奴は叩き斬れ!
世間はこのような時代です。
そんな中、政治はもちろん、外国との国交や具体的な軍地に憲法、貨幣にまで心配して、これをやらなければならないと訴えることができるというのは凄まじいものを感じるのは私だけでしょうか。
もちろん龍馬の頭だけでまとめられたものではありません。
勝海舟や横井小楠など、複数の知識人の意見や考え方を取り入れているとされています。
この内容は明治政府で新国家を築く際の基本的な方針となっています。
薩長と土佐の思惑の違い
後藤と龍馬は大政奉還のために必死で奔走していますが、この時期の薩摩藩、長州藩は明らかに違う考え方を持って行動をしています。
簡単に言えば薩長は武力で討幕する考えが強かったのです。
薩長だけではありません。土佐の中岡慎太郎や板垣退助なども討幕の考えでした。
実際、龍馬と後藤が京都に向かっている最中に、中岡慎太郎の仲介で、土佐の板垣退助、薩摩の西郷隆盛らが、「薩土討幕の密約」を結びます。これは藩として結んだものではなく、土佐の軍のトップであった板垣退助らが個人的に結んだものです。
関連記事:板垣退助の自由党の偉大さ!名言や年表から生涯と自由民権運動に迫る
龍馬と後藤が京に着いてその話を聞くと、急いで再び会合の場を設けます。
それは龍馬らが主張する大政奉還を中心とした平和的な倒幕を目指すことを、薩土で約束する内容でした。「薩土盟約」と呼ばれます。
ただし、やはりこの時の薩長と龍馬の間では考え方が大きく相違しており、この薩土盟約は実行されませんでした。一方、板垣退助が結んだ密約は、大政奉還の後ですが、戊辰戦争の際に実行されることになります。
おりょうとの別れ
この間、龍馬がいない長崎では事件が起きていました。
イギリスのイカロス号の船員が殺され、その犯人に海援隊員が疑われるのです。
龍馬は後藤と共に再度長崎に戻ります。結論的には海援隊員は犯人ではなく、その疑いも晴れることになりますが、事件の処理に2ヶ月以上時間がかかりました。
平和的な倒幕を望む龍馬でしたが、一方では武力の準備も進められていました。
最新式の銃を大量に購入し、それを長州と土佐に運びます。
龍馬は銃を運びつつ、下関でおりょうを三吉慎蔵に預けています。
もちろん龍馬もおりょうも考えていませんでしたが、結果的にはこれが最後の別れになりました。
龍馬とおりょうが出会ったのは1864年ですので、2人の関係は3年ほどです。実際に一緒に歩き回るようになったのは薩長同盟の後ですので、2年間もありません。それもほとんど龍馬は出歩いているわけですし、最後の方に関しては長崎や下関、京を行ったり来たりですので、実質一緒にいた時間はかなり短いものだったはずです。
おりょうはこの後壮絶な生涯を生き、64歳で亡くなります。
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家族との再会
下関から京に戻ろうとする龍馬でしたが、その途中に土佐に立ち寄っています。船の目的は拳銃を輸送にありましたが、龍馬は1867年9月23日に家族と再会しています。
1862年の3月に脱藩しましたので、約5年半ぶりに家族と会ったことになります。
家族に迷惑をかけることも覚悟して脱藩した龍馬、それでも弟を心配しながら応援していた家族。
手紙で頻繁に近況を伝えていた龍馬ですが、それ以外にも良い話も悪い話も、家族にはたくさん耳に入っていたのではないでしょうか。
龍馬の活躍を褒め称えたのでしょうか。
子供はまだいないのか、家はどうするんだ、ちゃんと食べているのか、病気はしていないのか、都はどんな様子だ、剣の修行はしているのか、、、
話は尽きないことが想像できます。
ただ一方で、長い時間一緒に過ごすことはできない、またすぐ離れ離れになること、龍馬が今大仕事をしていること、それは危険を伴うこと、自分たちの生活にも影響してくること、家族は知っていたはずです。
龍馬にとって一番大切な存在である乙女姉さん。
もしかしたら、龍馬が必死で新しい国を創るために奔走している先には、乙女姉さんにもっと広い世界を見せたいという願いもあったのではないか、そう感じます。
その時の家族の気持ち、乙女姉さんや龍馬の心情を考えると涙が溢れます。
この再開から約1ヶ月半後、龍馬は暗殺されることになります。
大政奉還、成る
大政奉還に向けた動きは最終局面を迎えていました。
山内容堂も大政奉還に承認し、10月3日、後藤象二郎らは幕府の老中である板倉勝静に大政奉還の建白書を提出します。
10月9日、龍馬は京に着きます。
龍馬は幕府の若年寄に就いていた永井尚志を訪れ、大政奉還が成立するように説得しました。
10月13日、二条城に各藩40藩の重役が集められ、大政奉還が宣言されます。
後藤象二郎、そして坂本龍馬の想いが成就した瞬間でした。
大政奉還は10月14日に明治天皇に伝わりますが、同日討幕の密勅が出されました。
薩長が動いていた討幕についてもちょうどその時実現しており、ギリギリのタイミングで大政奉還が成立されたことになります。
坂本龍馬の最期
その後龍馬は、これからの新国家、新体制についてまとめる作業に取り掛かります。
越前福井藩に足を運び、松平春嶽、三岡八郎(後の由利公正)と今後のことを話しました。
いくら大政奉還が成立したとは言っても、ここで足踏みしていると混乱して内乱が起こる、龍馬はそう強く感じていたことがわかります。
このあたりの動きをみると、一分一秒も無駄にはできないという迫力を感じます。いなくなる前に、自分がやらなければならないことはすべてやっておこう、そんな気さえしてきます。
龍馬暗殺
11月15日、坂本龍馬はついにその生涯を終えます。
中岡慎太郎と近江屋にいたところを襲撃され、ほぼ即死の状態で亡くなります。
風邪を引いていた、刀を近くに置いていなかったことなどもあり、一太刀で額を斬られ、どうすることもできませんでした。
この暗殺はご存じのとおり諸説あり、いまだに犯人が特定されていません。
そうは言っても、京都見廻り組が犯人ということでほぼ間違いないと言われています。実行したのは京都見廻り組、指示をしたのが京都守護職にあった、会津藩主松平容保京です。藩主が直接指示したかどうかはわかりませんが、このあたりが通説になっています。
他にも新選組や薩摩藩、紀州藩が犯人であるという説、またまたグラバー商会や勝海舟説まで、不思議に思ってしまうほど色々なことが言われているのが龍馬の暗殺事件です。
龍馬は誕生日と命日が同じと言われることもあります。
正確には天保11月15日生まれ、慶応3年11月15日が命日です。
西暦にすると1836年1月3日生まれ、1867年12月10日命日となります。
坂本龍馬の墓
龍馬の墓は、京都霊山護国神社にあります。
京都霊山護国神社は、明治天皇の命で、幕末に亡くなった志士を祀るために造られました。
龍馬の他にも、桂小五郎や高杉晋作、同郷の吉村虎太郎など、多くの志士が眠っています。
東京の靖国神社や高知の護国神社にも祀られていますが、遺骨は京都にあります。
龍馬が眠る京都霊山護国神社 出典:wikipedia
坂本龍馬の子孫
龍馬とおりょうとの間に子供はいませんでしたので、龍馬の子供から続く子孫という意味では存在しません。
ただ、坂本家という意味での子孫は続いており、龍馬の血は生き続けています。
龍馬の一番上の姉である千鶴の子供が海援隊で共に行動した高松太郎です。
その高松が改名して坂本直(さかもとなお)と名乗ります。龍馬の甥に当たります。
その直の弟に直寛(さかもとなおひろ)がいます。
直寛が龍馬の兄である権平の養子になって坂本家を相続しています。
その後も家督は相続されており、子孫はそれぞれ活躍されています。
坂本龍馬の名言
坂本龍馬が実際に語った名言をたくさんご紹介したいところですが、少々調べたくらいではその判別がつかないほど、小説やドラマで語られた言葉が龍馬の言葉として語られていることが多いです。
今回はこれは龍馬の言葉のようだといった名言を3つご紹介いたします。
今後さらに調査して、見つかった時点で更新させていただきます。
また、竜馬がゆくを主に、小説やドラマ内で語られた言葉については多くのサイトで紹介されています。
「世の中のひとはなにをぞ言わば言え 我が為すること我れのみぞ知る」
龍馬が16歳の時の言葉だそうです。16歳というとまだ江戸修行前、土佐で懸命に剣の修行に励んでいた頃です。周囲、他人に何を言われてもいい、自分が成すべきことを知り、それに向かうことが大事である、と解釈できます。
龍馬らしい言葉であり、現代に生きる私たちにとってもそのまま当てはまります。
私も自分の道を見失わずに突き進みたいです。
「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり」
こちらは志を持たずに毎日を送ることに対する愚かさを言っています。わかりやすく、志を持つことの重要性がわかります。
「義理などは夢にも思うことなかれ 身をしばらるるものなり」
義理を大事にすることは自分を縛り付けることになる、義理などは夢にも思わず、自分がやりたいこと、成すべきことをやれと解釈できます。
義理を守ることは大事であると教えられてきた人も少なくないはずです。私もそうです。人との関係、約束、恩を忘れずに生きる。もちろん大事でしょうが、時には縛られていることもあるのも確かです。
何より大事なのは自分の成すべきことであることを言っているんだと思います。私もそうありたいです。
坂本龍馬の評価、偉大さ
坂本龍馬の生涯をご紹介させていただきましたが、いたるところで「諸説あります」との表現をさせていただきました。
確かに150年前のことですので、はっきりとした記録が残っていない、誰かの口で伝わったことであれば、大したことのない話が大きくなったり、多少変わってしまうこともあるというのもわかります。
ただ、一番の要因は何かというと、坂本龍馬の人気と注目度の高さです。
亡くなって150年経ってもこの説が正しい、いや実は新しい根拠が見つかった、そう言われ続けるのは、みんなが龍馬のことに関心があるからという理由以上の理由が見つかりません。
それぞれの立場、好み、都合などによって、こちらの方が龍馬らしい、信じたくない、もうひと騒動起こそう、、、そのようなことの繰り返しの末、どんどん真実から遠ざかっているようにも感じます。
このページは「坂本龍馬のすべて」を目指していますので、できるだけ正しく書きたいと心がけているつもりです。
生涯に書いてこなかった有名な出来事などを記しておきます。また、今後も更新していきたいと考えております。
坂本龍馬はフリーメーソンだった?
有名な話ですので聞いたことがある方も多いかと思いますが、亀山社中が結成された際、龍馬らは長州藩のために武器の調達を試みます。
その時仕入れ先となったのがグラバー商会です。
グラバーはフリーメーソンであり、龍馬の力を借りて日本を操るために武器を売ったというのです。操る目的は武器の販売で膨大な利益を得るためにあったというのです。
その根拠というのが、グラバー商会の入り口にフリーメーソンのマークがあったから、それと一介の浪人がこんなに力があるはずがない、幕府を倒してしまうほどの武器を用意できるはずがないというものです。
真実はわかりませんが、いずれにしてもグラバー商会の入り口にあったマークはグラバーの物ではないことがわかり、今では可能性は低いと言われています。
そもそもまったく根拠になっていない事実とも言えないことを発端に、「坂本龍馬=フリーメーソン」とすると、みんなが注目するのではないかというものを強く感じるのは私だけでしょうか。
男の子がつい思ってしまう冒険が好き、海賊がかっこいい、秘密結社存在して欲しい、、、そんな潜在意識もあり盛り上がってしまうのかもしれませんが。
教科書から坂本龍馬が消える?
高校の教科書から坂本龍馬の名前が消えるかもしれないということが議論されています。
龍馬の他にも、武田信玄や上杉謙信、吉田松陰などが対象です。
理由は教科書に載っている単語が増え続けており、その精査をするということです。そこで、歴史的影響が低いということから、龍馬の名前もあがっているというのです。
私は龍馬ファンですので、消えないで欲しいと思うのが当然です。主観が入るので、どの史実や人物と比較してどちらが重要かということは言いません。
ただ、何度も言いますが、教科書から消えるとなると大騒ぎされるのが龍馬なのです。
歴史的にどこまで龍馬が活躍したか、影響があったかということも重要ですが、現代において影響され続けているのが龍馬ではないかと感じます。
もしかしたら、教科書から消えたくらいでは龍馬の人気が衰えることも、知名度が落ちることもないかもしれませんね。
同時代に生きた偉人からの評価
生きた坂本龍馬がどれほど語っても本当の龍馬は見えてきません。
龍馬と同じ世代に生きた人物が、実際に龍馬をどう評価していたのかを何人かご紹介していきます。
西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」
大久保利通
「この度、坂本龍馬に内々逢い候ところ、同人は真の大丈夫と存じ」
「龍馬は土佐随一の英雄、いはば大西郷の抜け目なき男なり」
「(土佐に非凡の人なきやの問いに)アル、アル、大アリである。坂本龍馬という男がある」
木戸孝允
「大兄は御心の公明と御量の寛大とに御任せなられ候てとかく御用捨これなき方に御座候」
伊藤博文
「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」
三吉慎蔵
「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」
板垣退助
「板垣の今日あるは偏に坂本先生、中岡先生の御陰様で御座います」
上記引用:wikipedia
坂本龍馬の魅力の正体
坂本龍馬の生涯、周囲の評価などについてご紹介してきましたが、なぜここまで坂本龍馬は人気があるのか、惹かれるのかについてまとめてみました。
一言でと言われれば私はこう表現します。
「坂本龍馬は夢の男だから」
何と言っても坂本龍馬はカッコいいのです、理想・憧れなんです。
だからみんな坂本龍馬が大好きで、自分も龍馬のように生きたい、そう思うのです。
それは無理だと言われるかもしれません。実際無理です。。。^^;
それでも憧れる、それが坂本龍馬だと感じます。
具体的な魅力を7つに絞らせていただきました。
大志を感じる
龍馬はいつも大志を感じさせてくれます。
大きな志を持つことの大事さを教えてくれます。もっと言うと大きな夢を持っていいんだということを伝えてくれます。
広い視野、高い視点で世の中を見て、物事に取り組んでいた龍馬。そしてぶれずに実行する龍馬の背中からは大志を感じて、魅了されます。
器の大きさ
西郷隆盛が語っているように、というよりそれ以上の真実がないのかもしれませんが、龍馬には度量の大きさ、度胸の良さ、器の大きさを感じます。
何があってもぶれない強さと度胸、そして多くを受け入れる優しさとも言える器。
男も女も惚れてしまうだろうというのがこの点です。純粋にカッコいいと感じますし、こうありたいと思って憧れるのは自然なことです。
強い
坂本龍馬の1つの顔が剣士であることは言うまでもありません。
12歳の時に始めて22歳の時に北辰一刀流の目録を受けています。
そこから志士活動、脱藩して海軍や商社をやりますが、実は剣の修行を行っている期間が一番長いのが龍馬の人生です。
龍馬は人生の前半にみっちりと鍛えあげたと言えます。
後半の龍馬は、どうしても剣をないがしろにしている、不要な物として生きているようにうつります。
しかしそれは長い期間修行したという経験がバックボーンにあります。武士の本業、基本とも言える剣、それを極めたのが龍馬です。
魅力という面では、純粋に強い男はカッコいいですよね!
人と違う、ベンチャー精神
現代でもそうですが、人と違う道を進むことは魅力的にうつります。
龍馬はまさに今でいう「ベンチャー精神」を持っていた人物だと思います。
実際に日本で初めて商社を創っています。
人とは違う道を行く、龍馬はこれを一貫していたように感じます。
人間らしい喜怒哀楽
龍馬の生涯をたどると垣間見えるのが人間らしさです。
当たり前に怒ったり悲しんだりしているところが伝わってきます。
普通なことですが、私たちはどうしても「英雄」という見方で入ってしまうので、逆に普通なところが魅力に感じてしまうだけかもしれませんが、喜怒哀楽を感じさせる龍馬が好きです。
明るい性格
これも見る人によってわざわざ挙げるほどか?と思うかもしれませんが、紛れもなく坂本龍馬の魅力だと思うのです。
龍馬は暗さを感じさせません。わかりやすく言うと、深刻さを感じさせません。
暗い気持ちになりたい人はいません、誰しもできれば明るい気持ちでいたいはずです。
度胸といった面にもつながるのかもしれませんが、きっと龍馬と一緒にいると安心できたのではないかと思うです。龍馬の大きな魅力の1つです。
逆境に向かう不屈の精神力
坂本龍馬の生涯をたどると、その逆境の多さに驚きます。私が書いた内容をすべて見ていただいた方は十分わかると思います。
極端に言うと、坂本龍馬に良い時なんてあったのでしょうか。手放しで喜べる時なんて、千葉道場で目録をもらった時くらいのものではないでしょうか。
その後は少し進んで逆境があって後退するといいったことを繰り返します。どんなことがあっても前進しようとする姿は魅力的です。
ある意味大きな功績、歴史的影響よりも魅力なのがそこではないでしょうか。
どんなに活躍した人にも逆境や失敗はたくさんあります。その時にどう行動するかがその人の価値であり、周囲としては魅力や評価なのかもしれません。
坂本龍馬の魂から英気を養う
実際私はこうして坂本龍馬の記事を書いていますので、坂本龍馬によって人生が変わった一人です。
生活や仕事まで変わるというのは少数かもしれませんが、多くの人が坂本龍馬から勇気や元気をもらい、その影響を受けています。
冒頭にも書きましたが、坂本龍馬は「熱狂」させます。
私が初めて坂本龍馬を感じたいと思って京都に行ったのは6年ほど前です。
お墓はもちろん、寺田屋や酢屋、暗殺された近江屋の跡地などをまわり、また鴨川を眺めながら坂本龍馬を感じることは、非常に力が湧いてきます。
坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像
なぜでしょうか?
熱狂するという表現になるとわからない方もいるかもしれません。
しかし坂本龍馬が生きた足跡をたどると、何かを感じ、活力が湧く、そういった方はきっと私だけではないはずです。
その後生まれ故郷である高知県に行き、龍馬が誕生した跡地や、龍馬が大志を抱いたであろう桂浜を眺めました。
また、海援隊の仲間と語り合い、希望に心を躍らせたであろう長崎での足跡もまた違った魅力があります。
他にも東京や神戸、下関など、龍馬の背中、足跡を感じられる場所は複数あります。
私も定期的に足が向いてしまいますが、龍馬の熱を感じながらの旅はおすすめです(^^)
最後に
坂本龍馬にしても、西郷隆盛や大久保利通、少し先輩である佐久間象山や吉田松陰、明治以降の基礎を創った伊藤博文など、幕末から明治にかけて生きた偉人の多くは、静かに亡くなったという人物が少ないです。
龍馬の言葉通り、その人にはそれぞれ成すべきことがあり、それを全うしたことで、歴史的な役目を終えて亡くなったのではないか。そう感じる人は多いのではないでしょうか。
現代の日本に生きる私にとって、ピンとくる生き様、死に様ではありません。
これも龍馬の言うとおり、無用に何かに命をかける必要はないですし、生き急ぐこともまったくないことです。
しかし、やはりどうしても熱狂して生き抜きたいのです。
血を湧き立たせ、何かに夢中になりたい。そして「事を成す」ために生涯を生き、前のめりで死にたい。
私も坂本龍馬の生涯をたどりながら、改めてそう強く感じました。
まずは今日、そして明日を熱狂しながら過ごします。
最後まで読んでいただきまして本当にありがとうございました。
どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。
原田
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