板垣退助、その生涯をたどると、この人こそが真のリーダーなのではないか、この人がトップだったらあのような悲惨な戦争は起こらなかったのではないか、そのようなことすら思わせる「正しさ」、「まともさ」を感じさせます。

 

今のように国民の手によって行われる選挙、政治が実現できたのは、間違いなく板垣退助の存在があってのものです。本当に偉大な功績です。

 

「自由」という信念を貫き通した板垣退助

 

今回は板垣退助の生き方から学んでいきたいと思います。どうぞ最後までお付き合い下さいませ。

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乾退助の誕生~明治維新

1837年、土佐藩の上士の家柄に生まれます。生まれたときの苗字は乾でした。お父さんは馬廻格を務めるエリート武士で、300石もある名家でした。

 

前後の年齢としては、坂本龍馬が1836年、後藤象二郎が1838年、中岡慎太郎が1838年、大隈重信が1838年、伊藤博文が1841年生まれとなります。

 

先祖が戦国武将の武田信玄の重臣であった板垣信方でした。そのこともあり、後に苗字を乾から板垣に変えます。

 

後藤象二郎とは幼馴染で、一緒に悪さをして遊んだ仲です。
文字通りの腕白、悪餓鬼そのものであったというエピソードがいくつも残っています。

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謹慎から藩の顔役に

その腕白ぶりから、1856年、板垣退助が19歳の頃に謹慎を受け、蟄居を命ぜられます。家禄も減らされるほどの処分でした。

 

しかし、この謹慎が板垣退助にとって大きな転機となります。板垣は名門中の名門に生まれました。話す相手もそれなりの身分のある人物だけでした。この謹慎のおかげで、板垣はこれまで話したことがなかったような庶民と言われるような身分の人たちと話すようになります。板垣退助の視野が大きくなり、結果的にはこの時の経験が後の自由民権運動に活かされることとなりました。

 

1861年、謹慎も解かれ、江戸留守居役兼軍備御用に就きます。
板垣は山内容堂のお供をしたり、薩摩藩の大久保利通と会うなど、土佐藩の顔役の一人となっていきます。

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1865年、板垣退助は山内容堂に洋式騎兵術を身に着けるよう命ぜられます。
板垣はオランダ式騎兵術を学び、この習得が戊辰戦争での活躍につながりました。

 

薩土密約の締結

土佐藩は公武合体論を藩論とし、上士はほぼすべてそれにならうかたちでした。しかし板垣退助は武力倒幕の考えを確固として持ち合わせていました。

 

1つは板垣は中岡慎太郎と非常に仲の良い関係でした。
以前に武市半平太の命で中岡慎太郎が板垣退助を暗殺しようと試みたときからの付き合いです。

 

中岡慎太郎は坂本龍馬とまったく同じ意見ではなく、武力倒幕の考えを持っていました。その影響があったのかもしれませんが、板垣が武力倒幕論であったことは後に大きく影響してきます。

 

そんな板垣ですが、ついに行動にうつします。
当時討幕の急先鋒で、実質日本一の影響力を持っていた薩摩藩と近づくことになります。

 

薩摩藩と交友のあった中岡の仲介により、1867年5月21日、薩土密約が結ばれるのです。
薩摩側には西郷隆盛、小松帯刀、土佐側は板垣退助や谷干城が同席しました。

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薩土密約の内容としては単純明快なものです。
対幕府の戦が起きたら、土佐藩の意見がどうあれ、必ず軍を率いて薩摩藩と一緒に戦うという誓いでした。

 

戊辰戦争では獅子奮迅の活躍をする

幕末の板垣退助出典:wikipedia

板垣はこの約束通り、戊辰戦争では薩摩藩と合流して大いに戦いました。板垣は土佐藩兵を率いて総督して活躍します。

 

ある時板垣は甲府城の攻略を命ぜられます。その際岩倉具視より、板垣性に変えるように言われます。武田信玄の重臣、板垣氏の子孫であることを示した方が戦いを有利に進められるためです。

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その後も近藤勇が率いる新選組の降伏、東北でも会津藩、仙台藩などの攻略など、板垣退助は軍人としての高い能力を発揮しました。

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板垣退助はその活躍が認められ、賞典禄として1,000石を与えられています。
藩主や公家を除けば、西郷隆盛の2,000石、大久保利通や木戸孝允広沢真臣の1,800石、大村益次郎の1,500石に次いでの評価です。

 

また、会津藩をはじめ、敗者になってしまった相手の名誉を守ることも大事にしました。そんな板垣の姿勢や行動に対して多くの人たちが感謝したといいます。板垣が人の気持ちを大切にすることがわかるエピソードです。

 

明治に入ると新政府の首脳となる

明治2年(1869年)、板垣退助は西郷隆盛、木戸孝允、大隈重信と一緒に参与となります。明治3年には高知藩の大参事(現代でいう副知事)に就きます。

征韓論・明治6年の政変

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順調に政治家として進む板垣退助ですが、事件とも言うべき出来事が明治6年に起こります。

 

それは朝鮮との外交問題です。
日本政府が出した手紙に対して、朝鮮は一切返信をしてこず、両国の溝が深まりました。当時朝鮮は鎖国しており、国と国の常識的なやり取りなどを理解しておらず、また政権が変わったことによって日本の書式が変わったことなども返信がなかった理由の1つとも言われています。

 

板垣退助らは武力を持って国交を迫るべきだという主張をしました。西郷隆盛は武力ではなく、まず使者を送って話し合いをするべきだという主張でした。いずれにしても朝鮮との国交を回復させるために行動すべきという考え方に対して、岩倉使節団から帰国した岩倉具視や大久保利通はその意見を強引にくつがえしました

 

そんな横暴には納得できないとして、西郷隆盛をはじめ、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らは辞職します。それは多くの人たちも同じ気持ちであり、なんと600名もの人が政府を辞めることにつながりました。明治6年の政変と呼ばれます。板垣退助が37歳の時でした。

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若いころの板垣退助
出典:wikipedia

自由民権運動

政府を去った板垣退助ですが、歩みを止めることはありませんでした。今の政府がやっていることは、五箇条のご誓文に記載のある「万機公論に決すべし」という方針に反しているということから、板垣は自由民権運動を起こします。

 

明治7年(1874年)、愛国公党を設立し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎らと民撰議院設立建白書を政府に提出しました。国民が選んだ政治家による議会を開設するべきという主張です。

 

その要望は却下されますが、板垣退助は立志社を設立して自由民権運動を加速させます。明治8年には日本で初めての政治団体である愛国社を設立します。

 

明治14年(1881年)、10年後に国会開設されることが決定されます。それを機に板垣は自由党を起こし、自ら党首に就きます。45歳の時でした。

 

暗殺と「板垣死すとも自由は死せず」の真相

板垣は全国を回り、その党の訴えを拡大させていきます。そんな中、岐阜県で演説している際に起きたのが板垣退助の暗殺未遂事件です。岐阜事件とも呼ばれます。

 

犯人は愛知県の小学校教員であった相原尚けいという人物でした。板垣が示す革命的な思想に反対を示すための犯行でした。

 

撃たれた直後、板垣退助は「吾死スルトモ自由ハ死セン」と口にしたと言われています。

 

そしてその言葉が、私たちが良く知る「板垣死すとも自由は死せず」という言葉になって伝わっています。

 

個人的には前者の方が響き的に好きですね(^^)

 

板垣が言ったように、その後も自由民権運動は加速していきました。ただ激しさも伴うようになっていき、殺傷事件なども起きるようになってしまいました。

 

その過激さを危惧し、明治17年(1884年)に自由党は一旦解散されることとなります。

 

板垣退助は衆議院議員にはならなかった

板垣は華族制度には反対であり、自身も華族になることを望んでいませんでした。華族という身分を設けること自体が板垣が示す自由民権運動とは相反するものでありました。

 

当初は断っていた板垣ですが、再三の申し出に断ることもできず、伯爵に就きます。
華族は衆議院議員になることはできなかったので、板垣はそのことからも国会議員という立場にはならなかったことになります。

 

再び自由党結成、内務大臣に就任

板垣退助
出典:wikipedia

明治23年(1890年)、板垣退助の信念と行動が実を結び、ついに第一回衆議院議員選挙が行われます

 

翌年には板垣は再び自由党を設立します。

 

明治29年(1896年)、第二次伊藤博文内閣では内務大臣として入閣します。板垣退助60歳の頃です。

 

続いて明治31年(1898年)、大隈重信と一緒に憲政党を結成し、日本初の政党内閣である、第一次大隈重信内閣に内務大臣として入閣します。この内閣は隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれました。

 

明治33年(1900年)、板垣退助は政界を引退しました。

 

最後まで自由や平等を追求する

板垣は政界から離れても自由や平等を追求することを続けました。その中でも際立つのは、華族の世襲を禁止するように働きかけたことです。

 

華族には自分の代だけではなく、子孫に継ぐことができる制度もありました。板垣はそれを反対していたのです。

 

実際、板垣退助は大正8年(1919年)に満82歳で亡くなりますが、嫡男は華族を世襲しませんでした。

 

華族でない人が華族という身分を反対する、批判するのは非常にわかります。しかし、実際にその身分にいる人が反対する、ましては自分の子供に引き継がないなどはなかなかできないことです。

 

板垣退助と西郷隆盛の関係

板垣退助と西郷隆盛の関係についてふれたいと思います。

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まず、幕末に締結した薩土密約で2人は顔を合わせ、手を握っています。密約ということからも伝わってきますが、これは藩として正式なものではなく、板垣退助が個人で結んだ約束です。

 

そのような約束を西郷は信じ、そして板垣は実際約束を果たしました。
この一件だけでも、かなり強い信頼関係がふたりにはあったのではないかと感じます。

 

岩倉具視使節団が外遊している間、留守政府を守った中心人物が西郷隆盛と板垣退助でした。この時、これまで決定できていなかった制度が次々に構築され、発令されました。

関連記事:岩倉具視使節団が残した本当の価値と教訓が偉大!目的やメンバーは?

 

岩倉具視らと出発前に約束したのは、重要なことは勝手に決定せずに相談することという約束だったようですが、西郷と板垣らは次々と構築していきます。そんな悠長なことを言っていられないほどスピード感をもって進めなければならなかった時期なのかもしれません。

 

いずれにしてもお互いが認め合い、信頼していた関係であったことがわかります。実際そう確信できる言葉も残っています。

 

板垣退助と坂本龍馬の関係

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実は板垣退助と坂本龍馬は親戚関係にあります。

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ただ、土佐藩は身分に厳しく、上士である板垣、下士である龍馬が顔を合わせて話す機会はなかったようです。

 

また、龍馬は早い段階で剣術修行や脱藩などして、青年期に土佐にいる期間は短いものでした。

 

龍馬が暗殺された時も、親友であった中岡慎太郎の死を惜しみましたが、龍馬に対する想いや言葉を発した記録は残っていません。

 

唯一接点と言えるようなものが、1864年に山内容堂に勝海舟が坂本龍馬の脱藩を許すように説得した会食がありましたが、その際勝海舟を招いたのは板垣退助だったようです。それが龍馬を助けたいという目的からの行動だったかは定かではありません。

 

ただ、板垣が龍馬を知らない、関心がなかったというのは考えにくいです。
板垣の盟友である後藤象二郎と龍馬は共に大政奉還を成し遂げた仲ですし、中岡慎太郎とは2人とも深い仲です。

 

間違いなく近い関係であったことは確かです。実際に接していたとすればどのような関係だったのでしょうか。2人とも自由と平等という思想が強い人物です。勝手ながらに気が合ったのではないか、そう感じてしまいます。

 

知られざる板垣退助の名言

私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ。

 

この言葉は、暗殺未遂事件の犯人である相原が、出所後に板垣の元に謝罪に行った際に、板垣が相原に言った言葉です。また、相原の行動も国を想ってのことであろう、その行動も自由であるという主旨のことを口にしたこともあったようです。

 

どこまでも「自由」であった板垣退助。板垣退助の思想の神髄のようなものが伝わるエピソードです。

 

板垣退助は100円札や銅像になる

1952年に板垣退助の100円札が発行されました。今は100円は硬貨ですが、当時は紙幣でした。

 

また、国会議事堂には板垣退助の銅像が設置されています。国会議事堂に設置されている銅像は3つだけです。

 

伊藤博文、大隈重信、それに板垣退助の3人です。
今の政治や国会に大きな貢献をしたという主旨で3人が選ばれ、銅像が飾られています。改めて板垣退助の偉大がわかります。

板垣退助の100円札
出典:wikipedia

板垣退助の子孫

板垣退助には正妻の他に、なんと4人の妻がいました。凄い!

子供は10人いました。

 

長男の鉾太郎(ほこたろう)は高知に私立学校である泰平学校を設立するなど、教育者として活躍しました。

 

他にも板垣退助の子孫は軍人や政治家などで活躍します。

 

最後に

この時代に生きた多くの人物の生涯を調べて書いてきましたが、板垣退助は何かこの時代の人物らしくない空気や思想を持ち合わせているように感じてなりません。

 

やはりそれは「自由」や「平等」というものを追求し、自ら体現してきたからではないかと思います。だからこそ自由民権運動は多くの国民が共感して、板垣の背中を押すかたちになったのではないでしょうか。

 

西郷隆盛から感じてくる人格、坂本龍馬から感じてくる視点や思想、それらのどちらも持ち合わせていたのが板垣退助だったのではないか、そんな風にも感じます。

 

板垣退助の信念は日本中を巻き込む大運動になり、百数十年たった今では日本という国の基礎となって息づいています。

 

その大きすぎる功績に感服します。
私も自分の信念を信じて生きたい、改めて学ばせていただきました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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