大久保利通はご存じのとおり『維新三傑』と称される、明治維新の英雄です。
実はその子孫も凄いんです。
このページでは、改めて大久保利通(正助・一蔵)は何をした人物か、私たちに何を残してくれたのか、また家族や子供、その子孫を通してその人なりや生き方について学んでいきます。
・大久保利通がしたこと、その功績について
・大久保利通の子供や子孫にはどのような人物かいるのか
・政治家である麻生太郎氏と大久保利通の関係性
・妻の大久保満寿子とはどんな人物だったのか
・大久保利通の妾おゆうとはどんな人か
大久保利通には八男一女と9人の子どもがいました。
9人のうち8人が男の子というのも凄いです。それぞれが驚くような活躍をしています。
また、同郷の盟友西郷隆盛の弟である従道にも子供が11人いて、それぞれが大活躍されています。
大久保は西郷従道のことを大事にして、大政治家に導きました。
関連記事:西郷隆盛の弟【西郷従道(信吾)も怪物だった】 子孫は?従道邸が有名
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大久保利通(正助・一蔵)の偉大な生涯
盟友西郷隆盛と共に
大久保利通を語る上で欠かせない存在である西郷隆盛。
どんなドラマや物語にも、ほぼ2人セットのようなかたちで登場します。
関連記事:西郷隆盛(吉之助)の生涯!妻や子供、子孫は?偉大な名言と壮絶な最後
大久保と西郷は近所に生まれ、幼少の頃から共に育ちました。年齢は西郷の方が2つ年上です。
当時大藩と呼ばれていた薩摩藩の中で、2人は切磋琢磨しながら育ち、藩内でも確固たる実力者となります。
西郷隆盛にとっても、大久保がいなければ間違いなく歴史通りの活躍はできなかったはずです。
2人のタイプは違いますが、それぞれが欠かせない存在でした。
倒幕という革命が起きた背景には、西郷のリーダーシップと大久保の緻密な戦略と確実な行動計画がありました。
幕末の薩摩藩の影響力は日本一と言い切っていいほどの存在であり、薩長同盟の実現、そこから実質的な徳川幕府の終焉となる戊辰戦争や王政復古の大号令など、大久保利通なくしては果たせなかったはずです。
新政府の実質的なリーダー
大久保利通が最も大きく活躍したのは明治政府が樹立された後の政治活動でした。
当初は盟友である西郷隆盛や木戸孝允などと共に政治を担っていましたが、その仲間たちも様々なかたちで亡くなります。
ただ大久保には明確な意志がありました。
岩倉具視使節団にも同行した大久保は、日本が何をやるべきかという、指針を明確に持っていました。
それは「富国強兵」、「産業発展」、「経済成長」といった、本当の意味での近代日本の樹立でした。
当時首相という役職はありませんでしたが、大久保は実質的な日本のトップに立っていました。
目標に向かって大久保はひた走りました。
大久保はしっかりと計画を練り、そして一歩一歩行動を積み重ねます。
この真っ直ぐさ、厳しさが場合によっては冷たい印象を与え、政府でも衝突したり、孤立する場面もありました。
しかし大久保は一切後ろを振り向かず、国家のために懸命に働きます。
実際に個人名義での借金をしてまで国のためにお金を使っていたというので、厳格な面が伝わってきます。
引用:wikipedia
この自分のためではなく、「国のため」という考え方は、大久保だけが持っていたわけではありません。
征韓論で衝突するかたちとなり、決別することになる西郷も同様に国のためを想って仕事をしていました。
西郷隆盛と坂本龍馬の生涯をたどりながら、その生き方について書いています。
関連記事:西郷隆盛と坂本龍馬の関係や出会いは?不仲だったというのは本当?
壮絶な最期
親友・盟友でもある西郷隆盛が西南戦争で亡くなった翌年、大久保の最期も訪れます。
大久保は刀で16か所も刺されて亡くなります。壮絶な最期でした。
この暗殺について、詳しくまとめていますので参考にして下さい。
関連記事:大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)の全貌!理由や犯人、場所等
大久保が自らの財産と命をかけて断行してきた数々の制度は、紛れもなく今の日本の基礎となりました。
日本が先進国の仲間入りができたのも、大久保利通がいたから、私はそう感じます。
大久保利通の子孫・子供について
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9人の子供と言いましたが、全員が奥さんとの子供ではありません。
妻の満寿子(ますこ)との間に5人、妾のおゆうとの間に4人です。
大久保には妾がいて、おゆうといい、京都で芸姑をしていたころに出会いました。
長男:大久保利和(としなが)
大蔵省に勤め、貴族院議員として活躍します。
鉄道会社の設立や経営にも携わりました。
次男牧野伸顕(のぶあき)
外交官を務めた後、文部大臣、農務省大臣、外務大臣、宮内大臣、内務大臣として活躍します。
パリ講和会議に出席し、次席全権大使も務めました。
総理大臣の候補にも名前があがったことがあるほどの大物政治家です。
三男大久保利武(としたけ)
内務大臣秘書官として、西郷従道の秘書を務めました。
大阪府知事、埼玉、大分、鳥取の県知事と歴任し、貴族院議員として活躍します。
長女芳子
外務大臣の伊集院彦吉に嫁ぐ。
八男大久保利賢(としたか)
横浜正金銀行で頭取を務めます。
高橋是清の娘と結婚します。2人の子である大久保利春は丸紅の重役まで努めますが、ロッキード事件に関わり逮捕されることになります。
大久保利通の次男牧野伸顕
大久保利通は明治初期に岩倉使節団として海外に視察に行きますが、その時長男の利和と牧野伸顕を同行させています。
関連記事:岩倉具視使節団が残した本当の価値と教訓が偉大!目的やメンバーは?
ご覧のとおり、大久保の子供の多くが各方面で活躍しましたが、中でも際立って大きな活躍をみせたのが次男の牧野伸顕です。苗字が違いますが、親戚の家に養子に入ったかたちですので大久保の実の子供です。
外務大臣や文部大臣、宮内大臣などを歴任しました。
政界を引退するときに昭和天皇が涙を流したといいますから、その存在の大きさが伺え知れます。
牧野伸顕は初代内閣総理大臣である伊藤博文にも目をかけられ、影響を受けたと言われています。
やはりそういう面では普通の家柄ではできない経験をしていることになります。
関連記事:【初代内閣総理大臣】伊藤博文とはどんな人か?年表からみる人物像
大久保利通と麻生太郎との関係
次男の牧野伸顕の長女雪子が吉田茂に嫁ぎます。
吉田茂は第二次世界大戦の後、長きにわたり内閣総理大臣を務めた人物です。
その吉田茂の三女和子の息子が麻生太郎になります。
大久保利通からみると麻生太郎は玄孫に当たります。
第92代内閣総理大臣、現在は副総理・財務大臣として安倍内閣を支えていることはご存じのとおりです。
また、麻生太郎の妹信子は、寬仁親王と結婚して皇族となります。
出典:https://upload.wikimedia.org
大久保利通の妻(大久保満寿子)について
妻の満寿子は薩摩藩士早崎七郎右衛門の娘として生まれます。
大久保28歳、満寿子21歳のときに結婚し、四男一女を育てました。
大河ドラマ西郷どんでは女優のミムラさんが演じられていますね!
出典:https://twitter.com/tokyostory/status/980477476592746496
大久保利通が20歳の頃、お家騒動に巻き込まれて蟄居処分となりました。
そのせいもあり、大久保はなかなか結婚できる状態ではなく、この当時としては晩婚と言えます。
結婚した当時、大久保は国父島津久光に認められて側近となり、藩の政治を動かしていくような力を得た頃でした。
後に大久保は日本において絶対的な権力を有する政治家となりますので、満寿子はまさに縁の下の力持ちのような存在として大久保を支えることになります。
満寿子の記録は多く残っていませんが、大久保の両親、妹も3人いましたので、色々気苦労が絶えなかったであろうことが容易に想像できます。
征韓論の議論がなされていた明治6年の政変のころ、満寿子は鹿児島で子育てしていました。
近所であった西郷隆盛や、夫のかつての同志であった人たちが夫に不満を持ち、戦争を起こしていく姿をどう見ていたのでしょうか。
満寿子は西郷の妻、糸とも交流がありました。
関連記事:西郷糸子(岩山糸)【英雄西郷隆盛を支えた妻とは】西郷どんは黒木華
この頃の満寿子は想像を絶するくらいつらい時期だったと想像します。
その後上京して大久保と一緒に暮らしますが、その期間は短く3年ほどでした。
大久保が暗殺されてから体調を崩します。満寿子にとってあまりにショックだったのでしょう。
大久保が暗殺されたのが1878年5月14日で、その7ヶ月後、同年12月7日に満寿子は42歳で亡くなりました。
大久保利通の妾(おゆう)について
おゆうは京都で芸姑をしており、その時に大久保と出会います。おゆうは現存する有名な茶屋である、一力亭の娘と言われています。
西郷どんでは内田有紀さんが演じられますね(^^)
2人が一緒になったのが1866年、慶応2年と言いますので、大政奉還の前年です。
薩長同盟、寺田屋事件の後くらいですので、倒幕活動が活発になり、京都の街自体がかなり混沌としていた頃です。
幕末は京都での活動が多かったですので、大久保の京都での生活を支えた存在と言えます。
当時薩摩藩は長州征伐を中止し、坂本龍馬からの提案で薩長同盟を締結し、虎視眈々と武力を高め、倒幕に向けて準備を進めていました。
関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで
ただ幕府という存在はまだ絶対であり、そんな動乱の中で、薩摩藩の政治の舵を握る大久保は、精力的に活動していながらも、かなり疲労していたはずです。
おゆうは面倒見がよく、大久保のことを訪ねる志士たちの面倒をよくみたようです。
また、戊辰戦争の戦局を握ったと言われる「錦の御旗」ですが、大久保の指示で御旗の生地を買った?作ったのがおゆうだと言われています。
出典:http://uchida-yuki.mato.media/instagram_search?page=1
最後に
総理大臣や皇族が子孫というのはさすが大英雄大久保利通です。
いたって普通の家庭に育った私には想像できませんが、大久保のような偉人の子どもに生まれ、大きな背中を見せられて育つというのは自分も国のため、社会のために頑張ろうという気持ちが強くなるのでしょうか。
立派な人物だからこその環境や人脈もあるかと思います。
しかしそれだけではなく、それぞれの志によって大成するんだと考えます。
その志をどう芽生えさせるか、太く植え付けるかというのが、大事な教育なのかもしれません。
大久保利通のことを書く時、無意識に力が入ってしまいます。自分の中で熱を感じます。
それは大久保利通という人物が、あまりに厳しく、清く、実直だったからではないか、あまりに偉大であるからではないか、そう感じます。
その志や精神をほんの少しでも真似してみよう、一歩でも近づきたい、そう決意します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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NHK大河のせごどんを見て。
西郷さんは懐が深く高潔な人物でした。人気も高い。
盟友西郷を政界から追い出した形の大久保は、不平士族からも、一般国民からも人気は少ない。テレビを見る視聴者からも人気がない。権力を握り、不平士族など歯牙にもかけず、冷徹に自らが決断した政策を断行する。
しかし、大久保が、私財を投げ売って、多額の借金までして国の政策実現のために使っていた姿や事実を知った時に、本当に頭が下がりました。
西郷さんも大久保さんも、日本の国造りのために、自らの人生を捧げ切って生きていたのは同じと言う事です。
どちらも凄いし、近現代の日本の国家の基礎を築いた偉人です。
大河ドラマのせごどんやその他の資料を、この頃少しですが垣間見る事が出来た事で、本当に良い勉強になりました。