大山巌は幼少の頃西郷隆盛の指導を受け、後に元帥陸軍大将を務めます。
大山巌の人物像でまず感じるのが、その器の大きさです。
率直にその背中に惹かれ、もっともっとこの人のことを知りたい、この人についていきたいと思ってしまいます。
西郷隆盛の意思をもっとも受け継ぎ、西郷がもっとも死なせたくなかった男が大山巌だったのではないか、そう考えてしまいます。
西郷隆盛と大山巌、ふたりの関係、生き様は身震いするほど感動させられます。
今回はそんな言葉にできないほど大きな男、大山巌の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
スポンサーリンク
下記クリックで好きな項目へ移動
大山巌(大山弥助)とは
西郷隆盛の父の弟、それが大山巌の父大山綱昌です。
大山と西郷はいとこ同士ということになります。
幼少の頃は大山弥助と呼びました。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
大山は西郷の15歳年下で、同じ郷中で育ちます。「やすけどん」と呼ばれていました。
小さい頃は西郷の教えを受けました。
ここでリーダーたる姿勢を学び、西郷も弟のように大山巌を可愛がりました。
関連記事:西郷隆盛(吉之助)の生涯!妻や子供、子孫は?偉大な名言と壮絶な最後
大山巌は子供の頃遊んでいた時に竹槍が左眼にあたって怪我をしました。その時の怪我で視力を低下させ、戻ることはなかったそうです。
子供の頃に大けがをしているという点、西郷との共通点でもあります。西郷も子供の頃に怪我をして、剣をふれない腕となりました。武士として致命的な傷を負った西郷でしたが、明治維新の立役者として活躍します。
もしかすると、そのように怪我を負っても前を向いて生きるという姿勢は、西郷隆盛の背中を見て育った影響もあるのかもしれません。
大山巌は連戦を重ねる猛者
大山巌は幕末という動乱を生き抜く中で、多くの戦いに参加したまさに猛者そのものです。
寺田屋事件の際にも参加しており、西郷隆盛の弟従道らと投降して謹慎処分を受けます。西郷従道は大山巌の1つ年下で後に元帥海軍大将となる人物です。当時の薩摩藩や西郷隆盛から影響を受けた人物がいかに活躍するかがわかります。
関連記事:西郷隆盛の弟【西郷従道(信吾)も怪物だった】 子孫は?従道邸が有名
その後薩英戦争に参加し、イギリスの戦力を目の当たりにしてこのままでは列強に勝てないことを肌で感じます。
この経験が活き、大山は砲術を学びます。
この後も禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、会津攻めなど、戦いという場にはほとんど参加しています。
戊辰戦争では大砲の弾がなくなり、刀と銃を持って敵陣に突っ込んだという話も残っています。耳を撃たれたにも関わらず戦い続けたというからその勇猛さを知ることができます。
明治に入ってからは近代式の軍事力を習得するためにヨーロッパに視察にいき、日本陸軍の創設、および強化に大きく貢献していきます。
陸軍大学校開校の開校にも尽力しました。
大山巌は西郷隆盛から意思を受け継ぐ
スポンサーリンク
征韓論で西郷隆盛が鹿児島に戻った頃、大山巌はヨーロッパに視察中でした。
西郷を政府に戻るように説得するために、大山は帰国するよう命ぜられます。その際に大山巌の元に足を運んだのは薩摩藩の吉井幸輔でした。吉井は岩倉具視からの依頼で訪れたといいます。
そのことからも、大山巌がどれだけ政府内で信頼を得ていたか、また西郷隆盛と大山の絆の深さがわかります。
大山は西郷のことを聞いて急ぎ帰国して鹿児島に向かいます。
関連記事:西郷隆盛と大久保利通-鹿児島の両雄!心揺さぶる熱い関係
大山は説得に応じないなら自分も西郷についていくことを伝えたそうです。
大山は西郷に命を預けることを覚悟しました。
大山巌の西郷隆盛への気持ちの深さが伝わってきます。
その大山巌の説得に西郷は烈火のごとく大山を叱ったといいます。
西郷は断固として受け入れず、東京に戻って天皇のため、国家のため働くように説きました。
大山巌がこの時すぐに理解したのかはわかりません。
しかし確実に大山はこの時の西郷の決死の覚悟と、そして自分に対する意思を受け継ぎました。
その後大山としては一番望まないかたちとなり、西南戦争では西郷と戦うことになってしまいます。
そして西郷は戦争に敗れ、最後は自決というかたちでこの世を去ります。
戦争後、大山の姉は西郷と戦争したことを大山に対して強く非難したそうです。
大山の姉だけではありません。鹿児島中、日本中から非難されたのと同じです。
また、西郷の妻の糸子に香典を渡そうとしましたが、糸子は受け取りませんでした。
関連記事:西郷糸子(岩山糸)【英雄西郷隆盛を支えた妻とは】西郷どんは黒木華
大山はそれ以降鹿児島の地を踏むことはありませんでした。
大山巌が一番尊敬し、慕い、拠り所であった西郷隆盛。その西郷と戦わなければならなかったつらさが伝わってきます。
元帥陸軍大将大山巌
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
心底西郷を慕っていた大山巌は、西郷の死後憔悴しきっていました。
その際明治天皇より、大山巌のことを西郷の身代わりのつもりでいると励まされます。
大山巌はこのお言葉に震えたといいます。
大山が西郷の死を乗り越えた瞬間でした。西郷の代わりとなるよう生き抜くことを決意します。
その後陸軍大臣を務め、日清戦争では陸軍大将として活躍します。
日露戦争の時には満州軍総司令官として勝利に大きく貢献しました。
「陸の大山、海の東郷」と呼ばれ、強い日本の根底から支えました。
大山巌は最後まで西郷隆盛を想い続けた
日露戦争の後は総理大臣候補にも名前が上がりますが、大山巌は政治へは関与しませんでした。
栃木の那須を好み、農業をして晩年を過ごします。74歳の生涯でした。
最期、大山巌は「兄さぁ」とうわごとを言ったそうです。
それに対して妻の大山捨末は「やっと西郷さんに会えたのね」と言ったといいます。
最期の最期まで大山巌は西郷隆盛の意思を心にして生きたことがわかります。
大山巌の名言とエピソード
敵国民であろうとも、仁愛をもって接すべし。
大山の国葬には、ロシア軍より花が贈られました。
敵からも敬意を払われる、偉大な日本軍の大将でした。
勝ち戦の間は児玉さんにすべて任せるが、負け戦となったら自分が指揮をとる。
大山巌の器の大きさを感じる言葉です。
そのような姿勢であったからこそ、部下は最大限の力を発揮したんだと思います。
実際大山の人間性が軍を強くし、そして勝利しました。
児玉どん、どげんしたにゃ、今日は早くから大砲の音がやかましかが、なにごとで、ごわすか。
日露戦争の戦地で危機的状況の際、寝ぼけた顔でこのセルフを言いながら殺気立って作戦を立てている部屋に入ってきたと言います。
この言葉で隊の雰囲気が和らぎ、頭も冷静になり難を逃れたと言われています。
決して寝ぼけていたわけではありません。
リーダーとしてどういった行動をとるべきか、何をすれば部下を守れるかを必死で考えて出た言葉です。
奥深く、並のリーダーでは取れない行動です。
上記引用:http://medicines.aquaorbis.net/meigen/nippon/seiji-j/ooyama-iwao
大山巌の銅像とマッカーサー
九段下公園に大山巌の銅像が建っています。
この銅像にもエピソードがあります。
実は連合国軍最高司令官であったマッカーサーは大山巌を尊敬していたそうです。
戦後、軍人の銅像はことごとく壊されましたが、そのマッカーサーが大山の銅像だけは残すように厳命したといいます。
マッカーサーは、自室に大山の肖像画を飾るほど尊敬していたといいます。
敵のロシア軍からも敬意を示される存在
大山巌を尊敬していたのはマッカーサーだけではありません。
敵であったロシアからも敬意を示されています。
大山巌が亡くなった時は国葬が行われましたが、その際大山宅にロシアのヤホントフ少将が訪れ、ロシア軍を代表してと弔辞を述べ、立派な花を供えたということです。
最後に
西郷と大山が別れるときの心境を考えるとたまりません。
大山は西郷の最後の決断の本当の意味が痛いほどわかったんだと思います。
そんな大山だからこそ、西郷は大山にこれからの日本を託した、そう感じます。
そして大山は西郷の意思を受け継ぎ、西郷を信じて生き抜きました。
自分に置き換えると、ここまで大きなことをやれるとはとても思いませんが、自分の意思を信じて生きることはできるはずです。
私もそうありたいと強く決意します。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
関連記事:大河ドラマの見逃し配信や再放送は?過去の大河ドラマを見るのにおすすめの動画サイトは?
スポンサーリンク