幕末から明治という動乱の時代を、自分の才覚で総理大臣まで登りつめた伊藤博文
その生涯はまさに出世街道そのものです。
しかし、その生まれは武士ですらないという低い身分でした。

 

その凄まじい出世を果たした伊藤博文には、誰もが納得するような能力、人格とも言える点がいくつも見つかります
最後にまとめてもいますのでぜひご覧ください。

 

初代内閣総理大臣の伊藤博文、その生き方からは現代の私たちが生き抜くためのヒントがたくさん示されています。
今回は伊藤博文の生涯を年表にさせていただき、学んでいきたいと思います。

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伊藤博文(俊輔)の誕生~幕末

1841年、長州藩の農民に生まれました。利助(りすけ)と名付けられました。

1854年、足軽の養子になることで自身も足軽になり、伊藤性となります。

松下村塾で吉田松陰から学ぶ

1857年、伊藤が15歳の頃に松下村塾に入門します。
身分が低いため立ち聞きしていたようです。
松陰からは政治に向いている性格であることを評価されていました。
松陰より、伊藤俊輔の名前を授かります。

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1859年、江戸勤務となり、桂小五郎や井上馨らと交友を深めることになります。
この年安政の大獄により、師である吉田松陰が亡くなります。伊藤は吉田松陰の遺体の処理なども行いました。

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幕末の伊藤博文出典:wikipedia

伊藤博文はその頃から尊王攘夷派として過激な活動を行うようになります。
高杉晋作の弟分のような立ち位置で行動し、イギリス公使館の焼き討ちにも参加しました。

関連記事:高杉晋作の死因、子孫など幕末のカリスマの生涯を徹底紹介

 

しかし、尊王攘夷派として立ち振る舞ってはいましたが、この頃から海外への関心や憧れを持っていました。
この気持ちによって留学の道が切り開くことになります。

武士に昇格、イギリス留学へ

イギリス留学の時の伊藤博文と長州ファイブ出典:wikipedia
(右上が伊藤博文)

1863年、長州藩士の身分に引き上げられます。
その年井上馨、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助らとイギリスに留学しました。5人はそれぞれが後に近代日本の国造りのために欠かせない活躍をすることになります。
長州五傑と呼ばれます。

関連記事:【長州五傑(長州ファイブ)】誇り高い大和男子の凄まじさから感じるモノとは

 

また、私生活では一度目の結婚をしました。この結婚は3年と短く終わります。
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翌年、イギリスをはじめとする4ヶ国が下関を砲撃した知らせを聞いて、伊藤は井上馨と共に帰国します。

伊藤博文の英語力と交渉力が長州藩を救う

短い期間とはいえ、外国の力をこの目で見た伊藤は反戦を訴えます。
伊藤は留学を通して開国派となりました。
とても当時の日本の国力では外国に勝てないということを肌で感じ、攘夷という考え方がいかに誤っていたかを痛感したのです。

 

伊藤は必死に藩に戦争を止めるよう進言したが、聞き入れられなかった。
結果的にはイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国の連合軍から砲撃を受けた長州藩は、当然惨敗した。

 

伊藤は短期間の留学であったにも関わらず、会話ができる英語を習得しており、その英語力は大いに重宝された。
この戦争中、そして戦争後の和平交渉など、イギリスとの対話で伊藤が活躍する場面が多かったのだ。

 

1865年、この頃長州藩は下関戦争や長州征伐などの影響を受け、危機に直面していました。瀕死の状態と言っても過言ではないほどの状態です。
藩は力を得るために武器の調達が急務でした。

 

伊藤はその武器調達の担当を命ぜられ、坂本龍馬の仲介によりグラバー商会から船と銃を調達することに成功します。
この武器のおかげで、第二次長州征伐は幕府軍から勝利することに成功します。いくら武器を手に入れたとはいえ、兵力は圧倒的に幕府が上回っていました。

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この勝利は長州が幕府の攻撃を退けたというだけではなく、幕府の衰退を象徴するような戦いとなり、この後倒幕への流れが急速に加速することになります。

伊藤の先輩である桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛との間で結ばれた薩長同盟が実現したのもこの頃です。
関連記事:西郷隆盛(吉之助)と木戸孝允(桂小五郎)ふたりの関係と苦悩に迫る

 

1866年には梅子と結婚しました。
梅子との間には2人の子供を授かります。

 

伊藤は非常に女性好きであったと有名です。
熱があっても戦争中でも女遊びを行い、まさにいつでもどこでもというほどでした。なんと明治天皇からもお叱りを受けるほどだったそうです。

詳しくまとめていますのでぜひご覧ください。
関連記事:英雄色を好む?伊藤博文の女好きはここまで凄い!エピソードをずらり

 

明治に入り政治家の道に

初代兵庫県知事に就任

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1867年(明治元年)に大政奉還がなされ、明治政府が樹立します。
伊藤は兵庫県知事に就任しました。

 

その後東京に戻り、鉄道開通や貨幣法の制定など、新国家設立のために尽力します。
1970年には金融機関の調査のためにアメリカに渡っています。
この時にも活きたのは留学で身に着けた視野の広さと英語力でした。外国事務掛にも就きました。

岩倉具視使節団で欧米を視察

岩倉使節団の時の伊藤博文出典:wikipedia
(右で立っているのが伊藤博文)

1871年、岩倉具視使節団の副使として各国を視察します。
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あまり触れられていないですが、翌年大久保利通と伊藤は一度帰国して再度渡米しています。
理由はアメリカで条約交渉を行おうとしますが、日本のトップである天皇の委任状がないとして、アメリカは一切交渉に応じようとしませんでした。そのため、一度大久保と伊藤は帰国しなければなりませんでした。

大久保利通からバトンを受け取る

この時期から約6年後、大久保利通は暗殺され、その役目や立ち場は伊藤博文に引き継がれることとなります

私が見た限りではどこにも掲載されていませんが、この使節団の外遊中、2人で一度帰国しなければならなかった道中など、大久保は伊藤にその意志や志を伝えたのではないか、大久保は元来寡黙な人物ですので多くは語らなかったのかもしれませんが、伊藤は何か大事なことを感じ、そして受け取ったのではないか、勝手ではありますがそんなふうに想像してしまいます。

関連記事:大久保利通の偉大さ!子孫まで凄い!麻生太郎も?妻はどんな人?

 

1873年工部卿、1878年に内務卿を務めます。
それまで事実上の日本のトップであった大久保が亡くなり、政府内では伊藤博文が確固たる地位になっていきます。

 

1882年に憲法調査のために、香港、シンガポール、ローマ、ドイツなどに出張します。
ベルリン大学でプロイセン憲法を学びました。

 

初代内閣総理大臣に就任

1885年、初代内閣総理大臣に就任します。

伊藤博文出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

その後も伊藤は要職を歴任します。
1888年枢密院議長、1890年貴族院議員議長を務めました。

 

1892年には第二次伊藤博文内閣を組閣し、第5代内閣総理大臣となります。

 

その後も1898年第三次伊藤内閣、第7代内閣総理大臣に就任し、
1889年にはついに大日本帝国憲法を制定しました。

 

1900年第四次伊藤内閣、第10代内閣総理大臣、1905年には初代韓国統監に就任しました。

日清戦争と日露戦争

この要職を歴任する中、1894年には日清戦争、1904年には日露戦争が勃発した。
日清戦争の際は第2次伊藤内閣の時であった。1年も経たずに終戦、勝利させることに成功しました。

 

また、日露戦争では反戦を主張しつつ、時の大統領、ルーズベルト大統領への講和交渉の依頼をすることに力を注ぎました。相手は大国のロシアです。戦争が長期間になることで不利になること、そして長期化すること自体を避けるためのものでありました。
結果としては伊藤の動きによってポーツマス条約の締結を実現させることにつながりました。

最期は中国で暗殺される

1909年、伊藤は中国のハルビンで暗殺されました。69歳でした。

この暗殺事件には解明されていない点もあり、その真相は謎のままです。
詳しくまとめていますので参考にして下さい。
関連記事:伊藤博文の暗殺事件の真相に迫る!!理由は韓国併合?犯人は安重根?

 

明治天皇からも絶大な信頼を得ていた伊藤博文

伊藤は明治天皇からの信頼が厚い人物でした。これほどの要職を歴任しているのですから、そのこと自体が信頼されていたことを示す証しです。

 

日論戦争の時には、明治天皇から伊藤は東京から離れてはならないことを伝えたと言います。
明治天皇は他にも様々な重要場面で伊藤に相談していたそうです。

 

伊藤博文は1,000円札にもなった

伊藤博文の1000円札出典:wikipedia

伊藤博文は1,000円札にもなっています。
昭和38年11月1日から昭和61年1月4日までの期間発行されていました。

その時は国民が常に目にしていたので、今よりも知名度があったはずです。

 

最後に伊藤博文の人物像を整理

伊藤博文の生涯、功績を年表にして追ってきましたが、最後にその能力や人物像を整理したいと思います。

先進的で柔軟、かつ公器な考え方

新国家の設立のためには、国外からの知識を吸収していく必要がありました。
伊藤は新国家にとって、何が大事か、必要かを把握できる能力を持っていました。

 

だからこそ当時としてはいち早く英語の学習に着手し、何度も海外留学や海外出張を重ねました。
また、鉄道の整備に代表されるように、この事業が成功することで得をするということを明確につかんでいたように感じます。

 

誰が得をするか?
それは国民がです。鉄道ができれば国民が便利になり、産業の発展に大きく貢献するだろう、そのことを認識できる能力が伊藤にはありました。応援されないわけがありません。

 

このように、先進的な視点を持ちながら、多くの人のためになることを常に選択してきたからこそ、多くの人に応援されてトップを極めたのではないでしょうか。

 

人を見る目の高さと人間力

伊藤博文の人生をたどると感じるのが、必ず周囲に影響力の強い人物がいます。
もともと士分になることができたのも、木戸孝允(桂小五郎)の存在がありました。木戸孝允の秘書役のような立場になることで伊藤は活躍していきます。

 

志士活動が始まると次は高杉晋作が兄貴分になります。
明治に入ると木戸の推薦もあって政府の中枢に立つようになり、岩倉使節団などを通して政界トップの岩倉具視や大久保利通から支援されるようになります。

 

実際、実務面についても大久保から教えられ、岩倉具視の推薦もあって内務卿を引継ぎます。
これだけ実力を持った人物に可愛がられるというのも凄いです。

 

伊藤博文は非常に愛嬌があった人物であると言われています。
女遊びが好きで、かつ次々に出世する伊藤ですが、その愛嬌もあったからか、人に恨まれるようなことも少なかったように感じます。通常これだけ出世すると恨みや妬みを買って蹴落とされるのが常です。

 

伊藤博文は、とにかく人を大事にして、上手に人と付き合う能力と心がけがあったのではないでしょうか。

 

圧倒的な行動力

そして何より圧倒的な行動力を持っていました。
攘夷活動をしていた時の過激な面もそうですが、留学の話を聞くとすぐに飛び乗り、政治家としても次々に政策を実行していきます。

 

この実行力がなければここまでの成功はなかったのではないでしょうか。

 

伊藤博文は紛れもなく近代日本の基礎を構築した最大の功労者です。
心から敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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