山尾庸三、長州5傑(長州ファイブ)の一人です。
桂小五郎、伊藤博文などと共に幕末から明治維新を生きた人物ですが、倒幕活動では名前があがりません。

 

明治になって日本が工業化を迫られると大いに活躍し、日本の近代化に大きく貢献しました。

 

その生涯をたどると、目を見張るように目標を達成していき、その次々に想いを実現していく生き方に惚れ込んでしまうほどの魅力を感じます。

 

今回は山尾庸三の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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「生きたる器械」山尾庸三とは

山尾庸三を知ったきっかけは映画「長州ファイブ」という方も多いと思います。
私もまさにそうで、松田龍平さんが演じています。

 

山尾は1837年に長州藩に生まれ、15歳の頃に江戸に行きます。
そこで生涯の恩人となる、桂小五郎に出会いました。
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桂も山尾を慕い、亡くなるまで山尾を気遣ったと言いますので、2人の信頼関係が強固であったことがわかります。

 

山尾は勉強熱心で、好奇心旺盛であり、幕府が行ったロシアの海域調査に乗船するなどして海外への関心を高めていきました。

 

そしてついにイギリス留学を実現します。
伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助とともにイギリスに渡ります。

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留学は5年ほどに渡り、英語の習得はもちろん、土木工学や造船技術を学びました。

 

また、聾唖である人たちが手話を通じて対話し、仕事に就いていることに感銘を受け、手話の学習や盲学校の見学なども行いました。

 

桂の呼びかけにより明治元年に帰国し、明治政府で働きます。
工部卿、法務局初代長官、宮中顧問官など、要職を歴任しました。

山尾庸三出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

目標を立て、達成する生き方

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山尾は多くの重職に就いていましたが、1つの功績に工業学校の設立があります。
この学校は東京大学工学部の前身で、自身が留学して学んだように、山尾は教育することで工業の発展に貢献する人材が生まれると信じて、明治4年に工業学校の設立を強く提案し、その5年後に設立されました。

 

また、盲学校、聾学校の設立の建白書を提出し、10年もかからない間に実際に学校が設立されました。

 

山尾は生涯に渡って障害者教育や障害者の方が社会で生きていくための礎を創りました。

 

山尾は外国で学びたいと考えて実際に密航までして留学し、そこで学んだことや感銘を受けたことを実現したいと目標を立て、次々に達成していきます。

 

イギリスではたった一人歯を食いしばったことが容易に想像できます。
帰国してからも、先導してくれるような人は誰もいません。
そんな中で志を立て、それに向かってひた走る、困難を乗り越えていくのが山尾の生涯でした。

 

山尾を良く知る人物が表現した言葉が「質実剛健」です。
まさに山尾を表したような言葉であり、また目標達成する人物を表現している言葉として受け止めたいと感じます。

 

最後に

イギリスで土木や造船技術を学び、当時の日本では有数の知識人であった山尾ですが、利益を上げるための事業を行うのではなく、学校を創って社会を創ろう、国を創ろうとした姿勢がひしひしと伝わってくる生き方です。

 

山尾の志と成し遂げた行動力を想像すると、背筋が伸びるようです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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