遠藤謹助、長州5傑(長州ファイブ)の一人に名を連ねる偉大な男です。

 

遠藤謹助は「貨幣の父」と称されるように、造幣局長を務め、近代国家の設立に必要な「お金」を造ることに生涯を捧げ、明治維新の立役者となりました。

 

その人生をたどると、品質にこだわり抜く職人気質な背中と、開けた公平な精神を感じることができます。

 

今回は遠藤謹助の生き方から学んでいきたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さい。

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長州5傑(長州ファイブ)の一人遠藤謹助

遠藤謹助は1836年に長州藩に生まれます。
遠藤が27歳の頃に、イギリス留学が実現します。

 

伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三らと共に、5人でイギリスに渡ります。

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もちろん英語も話せない状態での留学でしたので、必死に英語の習得をしながら、イギリスの銀行で貨幣の勉強をしました。

遠藤謹助出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

世界一の貨幣を創る

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当時の日本は藩ごとに貨幣があり、その種類や数は相当数あり、近代国として歩んでいくにはこの貨幣の複雑さは大きな障害になり得ました。

 

しかし、遠藤がイギリスで近代貨幣を学び、日本の造幣技術の向上を追及し続けた成果によって、見事な造幣所、貨幣を構築することに成功しました。

 

日本の貨幣は偽札を作りにくく、精密な出来栄えであり、そのレベルは世界一とも言われています。
外国から貨幣製造の依頼を受けるほどの技術を有しています。

 

遠藤はイギリスから招聘した外国人の貨幣指導者と衝突したことがあり、一度貨幣局を辞めています。

 

それは遠藤の貨幣への想いや意見が強かったためです。
その後遠藤は復帰して貨幣局長に就任しますが、その後も厳しい姿勢で質の高い貨幣を追い求め続けました。

 

また、大阪の桜の名所である桜の通り抜けは、遠藤の心意気によるものでした。
当時造幣局の職員しか見ることができませんでしたが、他の皆さんにも見てもらった方が良いと遠藤が解放をしたことによって一般公開が実現しました。

 

最後に

短期間に品質の高い貨幣の製造を、日本人だけで可能にしたその姿勢と努力に感銘を受けます。

 

遠藤だけではありませんが、長州5傑は一人一人が使命感を強く持ち、見事に日本の近代化の基礎を構築しました。

 

その偉大な功績に心から尊敬と感謝の念を感じます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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