幕末の長州藩と言えば明治維新の立役者となる人材が多く輩出されましたが、殿様の名前や功績を語られることは少ないように感じます。
しかし、長州藩の幕末をたどると、藩主毛利敬親がいなければ、あの偉業はなし得なかったことがわかります。
藩士の活躍に見過ごしがちですが、長州藩主毛利敬親の賢さやその情勢をみるバランス感覚は類を見ません。
今回はそんな毛利敬親の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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第13代長州藩主は「そうせい」が口癖
毛利敬親はどんな藩主だったのか?
藩主になったのは17歳の時です。
財政改革を行うなど、積極的な政治を行います。
これは敬親の生涯を通しての特徴ですが、一度任せると途中で口出しすることはせず、一切を任せるスタンスの殿様でした。
また、家臣に提案を受けたときはいつも「そうせい」と承認を出す藩主で、良く言えば家臣を信じる寛大な藩主です。悪く言えば自分の意見がない任せきりの藩主となるのでしょうか。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
当時財政問題に切り込み、同時に藩校などを建てたというのは、自分の任務を理解し、藩の将来見据えていたという証ではないかと私は考えます。
毛利敬親は松下村塾の門下生?
敬親は吉田松陰の思想を大いに認めており、松下村塾の講義を聞いたことがあるなど、藩主としては柔軟な思考がありました。
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同時期の土佐藩が藩士を弾圧するなどして、若い志士を多く亡くすことになりますが、長州藩はこの敬親がこのような人物であったからこそ松下村塾ができ、高杉晋作や後の初代総理大臣伊藤博文らが活躍できたのだと感じます。
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毛利敬親の賢さ
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歴史上の人物にはよくあることですが、この毛利敬親も評価が分かれやすい人物です。
私が敬親が賢く、非常に有能な藩主であったと感じる点を書かせていただきます。
例えば公武合体を主導することを計画した長井雅楽を起用したことです。
あの時点で、薩長同盟や最新式の武器を長州が手に入れることができると予測することは困難です。
その後の長州征伐を見れば明らかですが、これまでの事件や藩士の性格などを考えると、公武合体を推し進める方が藩にとって安全であると考えることは賢明です。
実際は長井雅楽の計画は潰れ、攘夷路線にひた走ることになりますが、敬親は事実上それを止めることはしていません。
任せ切っていたからだ、何も考えていなかったからだと思ってしまいがちですが、私はそうは思いません。
これこそが敬親が情勢を見る目があったと言えることだと強く感じます。
もしそれを反対していたらどうなっていたか?
藩内の内乱はさらに大きくなっており、多くの有能な人材を失うことはもちろん、もしかしたら藩も消滅していたかもしれません。
毛利敬親は幕末という動乱の中で、自身が及ぼすことができる範囲がどれほどかということを的確に、そして謙虚に理解しており、その中で家臣の志を重んじながら、長州藩という国を支えました。
そもそも運だけでこの動乱を生き抜き、ここまでの偉業を成し遂げる藩のトップに立つことはできないと考えるのが自然です。
最後に
後ろにいたのが敬親だからこそ、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎も思いきり駆け抜けることができました。
紛れもなく毛利敬親は明治維新の偉大な立役者です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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