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幕末の暴走男?破天荒?奇抜?風雲児?革命児?カリスマ?
様々な異名で呼ばれるのが高杉晋作ですね。

 

熱烈なファンも多く、本当に魅了される生き様です。
数々の伝説のようなエピソードを残し、27歳の若さで亡くなりました。

 

高杉晋作について評する言葉として、後の初代内閣総理大臣の伊藤博文が語った言葉が有名です。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

 

今回は高杉晋作の魅力や生き様をご紹介させていただきます。

 

 

高杉晋作の生涯と奇兵隊

1839年長州藩に生まれます。

 

幼馴染の久坂玄瑞(くさかげんずい)と共に、松下村塾に入門し、勉学に励みます。
久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、そして高杉晋作で松下村塾四天王と呼ばれておりました。

 

江戸や東北に遊学して剣術、見聞を磨きます。
その後藩命により上海に渡りました。アヘン戦争後のその頃の中国は西欧諸国に支配されており、長州、そして日本の将来に強い危機感を感じます。

 

海外の情勢にも明るくなった高杉は馬関戦争の交渉を任されました。
その際彦島の租借を迫られましたが、断固として譲らず何とか免れました。

 

そのような交渉ができたのも、高い交渉力はもちろん、海外を肌で感じ、領土を租借される恐ろしさを認識していたからです。
もしこの時高杉がいなかったら、列強の侵略は長州はもちろん日本全体に及んでいたかもしれませんでした。

 

強烈な攘夷思考になっていた高杉は、その後品川の英国公使館を焼き払うなど、過激な行動を続けます。

 

高杉は何度も脱藩しており、また藩の承認なく軍艦を買うなど、まさに破天荒なエピソードがたくさんあります。


一歩間違えると大問題に発展するような行動をとっていましたが、要所々々で大事な仕事を任されます。

それはまさに高杉晋作の実力なのだと思います。藩や周囲からすると、海外情勢にも詳しく、見聞や知識が豊富で、時にリーダーとしての行動を断行する高杉を認め、頼っていたということが伝わってきます。

 

下関戦争の後、毛利敬親(もうりたかちか)より藩の軍の強化を命じられます。
ここで有名な奇兵隊が誕生します。

1863年、武士だけではなく、身分を問わず農民などの民衆が参加できる「奇兵隊」と名付けられた軍隊を高杉は提案し、総督に就きます。

 

軍事訓練だけではなく、読み書きなどの教育も行う軍隊でした。
近代兵器を装備し、広く兵を集めるアイデアは画期的なものでした。
その後高杉は教法寺事件を責任を負い総督から外れます。

 

倒幕に大きな影響を与えたとされる第二次長州征伐では、幕府軍10万人以上に対して長州軍4000人と圧倒的に不利な状況の中で、奇兵隊が大きく貢献し、長州軍が勝利しています。
奇兵隊は最大で600名以上に拡大しました。

 

戊辰戦争で活躍した奇兵隊ですが、維新後は解散することとなります。解散命令に反発し、100名以上が処分されるなど、最後はきれいな幕引きではありませんでした。

 

 

高杉晋作の妻や子孫について

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高杉は1860年、22歳のときに結婚します。
お相手は山口町奉行を務めていた井上平右衛門(いのうえへいえもん)の娘、雅(まさ)です。まさは結婚時16歳でした。防長一の美人と言われた方です。

 

1864年、梅之進(うめのしん)(のちに東一)が誕生します。
外交官として務めるなど、のちに大きく活躍します。

 

また、たかすぎには「おうの」という芸者の愛人がいました。
裕福な家庭のお嬢様であったまさとは反対に、おのうは貧しく育ったようです。

 

妻であるまさとは長い期間一緒に生活していなかったようですが、離れていても手紙は送るなど、まさを大事にしていた一面もありました。

 

 

高杉晋作の刀

高杉晋作は藩校明倫館で柳生新陰流を学び、免許皆伝を受けています。桂小五郎も学んだとされる内藤作兵衛から指導を受けております。剣術にも長けていたんですね。

 

高杉の刀にはエピソードが残っております。
高杉は体格は小柄でしたが、長刀を好み、安芸国佐伯荘藤原貞安を愛用していました。

 

土佐藩の田中光顕(たなかみつあき)と中岡慎太郎が長州に訪れたときに、高杉はこの刀をひと目みて気に入り、田中にお願いを重ねて譲ってもらったそうです。

長さが2尺7寸と長くて立派な刀でした。
手にしてからもずっとこの刀を気に入り大事に使い続けたそうです。

 

また、粟田口という刀を持っていたとも言われています。

 

 

高杉晋作の死因と最期

第二次長州征伐で大仕事をした高杉ですが、この時にはすでに結核を発症していました。
高杉は幼少のころから気管支が弱かったと言われています。

 

そんな体でも前線に立っていましたが、藩から療養の命が出されました。
結核は当時不治の病でしたので、治る見込みはありませんでしたが、療養を続けました。

 

1867年、大政奉還の半年ほど前に肺結核で亡くなりました。満27歳でした。

 

 

高杉晋作の名言、辞世の句

高杉は多くの名言、歌を残しました。いくつかご紹介させていただきます。

 

「百万の大群、恐るるに足らず 恐るるべきは、我ら、弱き民一人一人の心なり」
引用:http://meigen777.net/person-takasugi.html

奇兵隊に向かって言った言葉です。
数では分が悪い戦いの前、恐れるべきは相手ではなく、1人1人の弱い心にある、自分に打ち勝とう!と鼓舞しました。

 

 

「真の楽しみは苦しみの中にこそある」
引用:https://grapefruitmoon.info/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C.html

いつも大胆に、奇策を考え、実行する高杉でしたが、その裏には自分を追い込み、苦しむほど考え抜いていた姿が思い浮かびます。

 

 

「先が短いなら短いなりに、僕は面白う生きたい。派手な打ち上げ花火を打ち上げて、消えていく。それが高杉晋作の生き方ですけえ」
引用:http://www.meigen-taizen.com/category1/takasugi-shinsaku.html

龍馬伝の龍馬とのやり取りが思い浮かびます(^^)高杉らしい言葉ですね!

 

 

「人は人吾は吾なり山の奥に 棲みてこそ知れ世の浮沈」
引用:http://meigen777.net/person-takasugi.html

人は人、自分は自分であり、物事から離れて客観的に見ることで、正しくとらえられるという意味でしょうか。
一見破天荒な行動をしているように見えても、冷静に物事を見ていたことがわかりますね。

 

 

「おもしろきこともなき世をおもしろく」
引用:https://www.motivation-up.com/word/025.html

病床で詠んだ辞世の句です。一番有名ですね。
どこか冷めていて、でも仲間や藩や国のために邁進し、自分の生き様・死に様を貫いた男、それが高杉晋作だったように思います。

 

 

まとめ

27歳という若さで、大目標であった大政奉還、新しい時代を迎える前に病気で亡くなったのですから、悲しい気持ちになるようなものですが、高杉晋作の死はそのような気持ちにさせない気がします。

自分で考えて、自分で決断し、自分で行動する。
命を、魂を燃やして生きた高杉晋作、かっこよすぎますね(^^)

読んでいただきありがとうございました!(^^)

 

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