長州藩に生まれた山田顕義(やまだあきよし)は幕末から軍事、戦術に秀でており、その才能は高杉晋作や西郷隆盛も認めたほどでした。
明治では軍をけん引するかたわら司法の整備にも奔走し、現代の憲法、司法にも色濃くその影響を残しています。
その姿勢、精神は誰しもが認めるほどであったと言われています。
今回は山田顕義の生き方から学んでいきたいと思います。
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誕生~幕末
1844年、長州藩の上士の家の長男として生まれました。
幼少の頃は遅鈍、白痴などと言われるなど、評判は芳しくなかったようです。
14歳の頃藩校明倫館に入り、翌年には最年少で松下村塾に入門しました。
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その後、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を命じられ、上京することになります。
尊王攘夷派として活動し、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、井上馨、品川弥二郎らと、攘夷の血判書(御楯組血判書)を提出した。
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禁門の変、馬関戦争、戊辰戦争など、数々の戦いに参加し、倒幕の立役者となります。
戊辰戦争では陸軍参謀兼海陸軍参謀として新政府軍の勝利に貢献しました。
その戦術をみた西郷隆盛は軍事に関して奇才、天才と賞賛したと言われています。
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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
明治政府では近代軍備、司法の整備に尽力
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明治に入り、軍人としての活躍をひた走ります。
大村益次郎の継承者として尽力しました。
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明治4年には陸軍少将に任命され、岩倉使節団にも同行しています。
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帰国後江藤新平をリーダーとする佐賀の乱や、西郷隆盛がリーダーとなった西南戦争が起こると鎮圧に動きました。
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その頃山縣有朋と徴兵令に関して対立します。その後刑法編纂委員長となって司法面の整備に奔走することになります。
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明治18年には初代司法大臣に就任しました。伊藤、黒田、山縣、松方内閣と司法大臣を務め、新国家の司法の基礎作りに大きく貢献しました。
また、教育にも力を入れ、明治22年には日本大学(前身日本法律学校)、翌年には國學院大学の創立に尽力します。
明治25年に枢密顧問官に就任します。
その年享年49歳で亡くなりました。死因は脳溢血でした。
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