維新の十傑に数えられる大村益次郎。

 

大村益次郎は天才と評されることが多いです。
的確に軍を指揮して勝利をおさめ、戊辰戦争の頃には西南戦争が起きることも予想していたといいます。

 

正確に現状を把握しつつ、人格や人間模様までも見抜いていたことがわかります。

 

今回は大村益次郎の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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大村益次郎(村田蔵六)とは

大村益次郎は長州の医者の家に生まれました。
蘭学、医学を学び、大村も医者として活躍します。

 

緒方洪庵が開く大坂の適塾で塾頭を務めます。
福沢諭吉、橋本佐内らと共に学びました。その中で塾頭を務めるということですので、どれほど優秀か想像できます。

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海外の知識を必要とされる時勢であり、蘭学を学んでいた大村は重宝されるようになります。

 

その後大村益次郎は宇和島藩に招かれ、蘭学、兵学などの講義をするようになります。
また、伊達宗城より蒸気船の造船を命じられ、勉強して造ってしまいます。
知識の吸収力と行動力の凄さが伝わってきます。

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その頃から大村益次郎の名前は有名になっていき、藩の中はもちろん、幕府にも講義するまでになっていました。
そんな折、木戸孝允と出会い、長州藩士となり藩に戻ります。

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頭のおでこが特徴の大村益次郎

大村益次郎
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


これは写真ではなく、大村益次郎を知る人の発言をもとに作成された肖像画です。

 

高杉晋作は火吹きだるまとあだ名したそうですので、遠からずということがわかります。

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軍師として頭角をあらわす

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大村益次郎は医者としてよりも兵学の面で活躍していくことになります。
活躍の場が広がるにつれて身分も上がっていきました。

 

高杉晋作に依頼を受け、奇兵隊の教育を行います
また、軍略を練ったり、軍費の統括なども一手に引き受けました。

 

大村の作戦は机上の空論ではなく、実践での人間の心理などまで考え抜いたものであり、非常に正確なものでした。

 

武器や攻撃の体制などはもちろん、兵糧にまで気を配り、完璧な軍略であったといいます。

 

天才的な軍略で日本陸軍の基礎となる

第2次長州征伐は高杉晋作の活躍が目立ちますが、その頃大村益次郎は群を率いて石州口に攻め入り、浜田城、石見銀山を落としました。

 

新政府が樹立すると、軍の指揮を任されます。
各藩の軍を統括し、日本陸軍の創始者と言われる活躍をしました。

 

戊辰戦争の上野戦争では彰義隊を1日で壊滅に追い込みます。
戊辰戦争の数々の戦いも大村益次郎が予想したとおりとなり、まさに天才的な働きを見せます。

 

しかし、そんな大村の活躍は長くは続きませんでした。
元長州藩士に斬られ、重症を負います。
その時は何とか一命を取り留めますが、傷に菌が入り込み、45歳で亡くなります。

 

大村益次郎は頭が良く、発言も鋭いことから、薩摩の海江田信義をはじめとして、敵が少なくありませんでした。

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大村益次郎の名言

常識を発達させよ。見聞を広くしなければならぬ。小さな考えでは世に立てぬ。

引用:http://www.kokin.rr-livelife.net/koten/koten_jp/koten_jp_130.html

 

大村益次郎はこの言葉を胸に努力を続け、大成したことがわかります。
常識を発達という点、大村の鋭さや思考の飛躍を感じます。

 

靖国神社に立つ大村益次郎の銅像

靖国神社に建つ大村益次郎の銅像

大村益次郎は多くの戦争で指揮し、勝利してきました。
つまり戦争で亡くなった人たちを多く見てきました。

 

大村はそんな人たちを弔う場所を造りたいということで、靖国神社の前進東京招魂社の建設に奔走しました。

 

日本陸軍の先駆けとなった大村益次郎。山形有朋がその敬意を称して、靖国神社に大村の銅像を建てます。
日本で初めての西洋式の銅像です。

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九段下の大村益次郎の銅像の視線と、上野にある西郷隆盛の銅像の視線が合うように造られたと言われることがあります。
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大村益次郎の子孫

大村益次郎は長州の農家の娘である琴子と結婚しました。

ふたりの子は記録になく、養子をとりました。
後に益次郎の功績により、孫にあたる大村寛人が子爵を授爵して華族に連ねます。

 

最後に

当時いち早く内乱を終わらせ、国家としての立て直しが急務でした。
そんな中、上野戦争を始め、内乱を素早く終結させた大村益次郎の功績は大きいと感じます。

 

大村はもともとは医者でありながら、軍略の習得を行い秀でた活躍をしたことになります。
大村は西郷のことを評価していなかったといいます。
その評価はさておき、自らの努力で得た知識や経験、力があったからこそ堂々と発言し、軍の指揮ができたのだと感じます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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