橋本左内は志士であり、偉大な思想家であり、西郷隆盛の盟友でもある人物です。

 

医者の家柄に生まれながら、藩主の松平春嶽に認められ、いつしか他藩および徳川政権にも影響を及ぼす存在となります。

 

そんな橋本左内の源は何だったのか。
それはひた向きな「努力」であったと感じます。そうです、橋本左内は努力の天才でした。

 

今回は橋本左内の生き方について学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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橋本左内とは

橋本左内は福井藩の医者の長男として生まれます。

 

幼い頃から学問に熱心で、蘭学にも関心を寄せます。
そんな橋本左内は、後に日本でも有力な知識人、思想家と言われるまでになります。

 

優秀でありながら、性格は温厚で、誰とでも丁寧に接する人格者でもありました。

橋本佐内

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

福沢諭吉、大村益次郎らと大坂の適塾で学ぶ

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橋本左内はさらに学問を学ぶため、大阪に出ます。
緒方洪庵が開く適塾です。

 

医学のみならず蘭学、歴史、世界情勢など幅広く学ぶことができました。
そこでも佐内は圧倒的な習得を見せます。

 

適塾には塾頭の大村益次郎や福沢諭吉がおり、共に切磋琢磨しました。

 

江戸で橋本佐内と西郷隆盛が出会う

その後福井で医者をやりますが、江戸への遊学を希望します。
さらに学問を習得するためです。

 

橋本左内の優秀さは江戸でも広く知られるほどになり、多くの有力者と会うことになります。
その時に藤田東湖や西郷隆盛とも親交を深めました。

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国のことを想い、語り合い、西郷隆盛にとって橋本左内は生涯を通して大切な存在となりました。
西郷は自決する際、橋本左内から受取った手紙を持っていたといいます。

 

松平春嶽に認められる橋本左内

藤田東湖の紹介もあり、橋本左内は藩で藩士の教育を担当する任務に就きます。

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人材登用の仕組みやそのための教育を実行します。
洋書習学所を作って、西洋の学問も取り入れます。

 

そんな秀でた橋本左内は松平春嶽にも認められて引き上げられます。
松平春嶽の側近となり、藩主である春嶽に意見をして藩の改革を進めることになります。

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橋本左内はこの時に日本がこれからどのように諸外国と付き合うべきかをまとめておりますが、明治以降まさに左内の予見のとおりとなります。橋本左内の知識、先見の明の凄さが伝わります。

 

将軍継嗣問題と安政大獄が橋本左内に及ぼした影響

この頃、将軍の跡継ぎ問題が起こります。
第13代将軍家定の次の将軍を誰にするかを決める跡継ぎ問題です。

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藩主松平春嶽と橋本佐内は一橋慶喜を将軍とするべく動きます。

 

西郷隆盛の藩主である島津斉彬も同じく一橋派であり、左内と西郷は共に同じ目標を持って奔走しました。

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しかし、井伊直弼が大老となり、左内ら一橋派は敗れるかたちとなります。
井伊は自分の意見に反する者を次々に処刑していきます。安政の大獄です。

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橋本左内は処刑が決まってからも、自分の行動は幕府のため、国のために行ったことであることを明言します。

 

橋本左内は最期まで自分の信じる道を貫きました。26歳の生涯でした。

 

啓発録

橋本左内は15歳の時に「啓発録」という書物を書いています。
どのような精神で、心構えで生きるべきかを説いています。

 

子供のような精神を失くし、志を持ち、勉学に励み、誰にも負けない努力を続ける。
人と付き合いを大切にして、切磋琢磨できるような人物と付き合うこと。

 

簡単にまとめるとこのような内容を15歳のときに書いています。尊敬を通り越した凄さを感じます。
今でも多くの人に読まれています。

 

また、作家山本周五郎が橋本左内を題材とした「城中の霜」を書いています。

 

西郷どんの橋本左内は風間俊介さん

大河ドラマ西郷どんでは、橋本左内役を風間俊介さんが演じます。

 

黙々と努力するイメージ、温厚なイメージなどが重なります。
短いながらも太い人生を歩んだ橋本左内を風間俊介さんがどう演じるのか楽しみです。

 

最後に

橋本左内が処刑され、左内を知る多くの人たちがその死を悔やみ、左内ほどの人物を殺す徳川幕府の愚かさを強く感じることになります。徳川幕府の衰退を加速させる結果となりました。

 

橋本左内は死ぬことでさらにその自身の意思を世に大きく伝え、そして倒幕への火を灯したように感じます。

 

橋本左内は自分の習得の悪さに涙を流したといいます。江戸中にその名を知らせる秀才である橋本佐内がです。

 

私は自分の努力の少なさが恥ずかしくなってしまいます。

26歳というあまりに短い生涯にも関わらず、橋本左内は多くの同志に影響を及ぼし、その活躍はこうして後世に伝えられています。それはそこまで努力する橋本左内が身に着けた知識であり、先見の明であり、そして人柄であったと想像できます。

 

すべてを真似することはできませんが、一歩でも近づくような心構えをすることはできるはずです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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