江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が行った大政奉還。
江戸時代の終焉、源頼朝から続いた武士の時代の終焉を決断したのは慶喜でした。

 

自分は将軍です。
日本のトップであり、常に城の中心にいる存在です。

 

何百、何千もの人が常に城の中で働き、自分が移動するとなれば大行列を作って移動し、全国どこにいる大名でも一言で呼びつける。
現代の政治家や企業の社長などとは比べ物にならないほどの権力が将軍にはありました。

 

そんな将軍德川慶喜はなぜ大政奉還を行ったのか?
今回は徳川慶喜が行った大政奉還について学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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徳川慶喜と大政奉還

大政奉還、政権を朝廷に返すことであり、日本トップの権力者でなくなることを意味します。

 

德川慶喜は第15代の将軍ですが、就任したときにはすでに将軍の威信は江戸幕府初期、中期のものとは大きく違っていました。

 

13代の家定、14代の家茂の頃にはすでに力は失ってきており、政権を維持するのは難しくなってきていました。

 

しかし、実際にその政権を自ら返上するという決断は簡単ではないはずです。

 

もちろん慶喜個人の気持ちだけでは判断できず、周囲には多くの家臣や大名、外国の問題など様々なことを考慮して判断しなければなりません。

 

慶喜は判断しました。

 

1867年11月9日(慶応3年10月14日)、慶喜は明治天皇に政権を返上します。

 

 

大政奉還が下された理由

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有力の藩である薩長が同盟を組み、倒幕を計画しているということは幕府側も把握していました。

 

そんな情勢の中、ある日土佐藩から建白書が提出されます。
土佐藩の参政後藤象二郎らが推進しており、藩主山内豊範の名前で提出されました。

 

数日後 安芸藩からも建白書は提出されます。

 

慶喜は二条城に40藩の重臣を集結させます。
緊張が高まる中、慶喜は大政奉還を宣言しました。

 

大政奉還

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


ちなみに慶喜は将軍になってから江戸城に入ったことがなく、大阪城や二条城で過ごしました。

幕末の徳川家がどれほど混沌としており、力を失っていたかが想像できます。

 

土佐の建白書から10日あまりでの大政奉還でした。

 

当時、薩長にはイギリス、幕府にはフランスが支援しておりました。
大政奉還をせずに薩長と内乱すれば、列強に侵略されることを見越しての判断でした。

 

慶喜の判断が日本を守ることにつながったと言えます。

 

その後にわかったことですが、岩倉具視や薩摩藩が裏工作していた討幕の密勅が、大政奉還の直前に出されました。
まさにぎりぎりのタイミングで慶喜は判断したことになります。

 

王政復古の大号令

政権は返上しましたが、将軍職としての実質の権限は慶喜に残ったままでした。

 

長く政治に関わっていない朝廷が政権を握っても、すぐには政治を動かすことはできなかったというのが現実でした。
また、慶喜もそれを見越しての大政奉還であったと言われています。

 

しかし、慶喜が実権を握っているままである状態を薩長が許しませんでした。
王政復古の大号令が出され、戊辰戦争につながります。

 

慶喜が将軍就任してすぐに孝明天皇が崩御します。
そういったことからも当時朝廷が定まっておらず、明治天皇と慶喜の信頼関係もまだできておりませんでした。
それが大政奉還をしたにもかかわらず内乱が起きてしまった要因の1つです。

 

大河ドラマ西郷どんでは松田翔太さんが

西郷どんでは松田翔太さんが演じます。
凛々しく英傑であるイメージの慶喜にぴったりです。

 

松田翔太さんは、大河ドラマ篤姫では徳川家茂を演じました。
将軍役、しかも違う人物を演じるというのもすごいです。

 

家茂と慶喜、まったく印象が違う将軍をどう演じるのか楽しみです。

 

最後に

家康以来の英傑と言われるような慶喜だからこそ、大政奉還は成し得たのかもしれません。
途方もないほど大きな功績です。
徳川慶喜の評価は高い?低い?【最後の将軍】5つのポイントを解説

 

それでもやはり戊辰戦争を回避するための行動ができなかったのかという点は悔やんでしまいます。
もちろんそれは慶喜だけの働きではどうしようもないことでしたが。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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