最後の将軍を務めた徳川慶喜(一橋慶喜)
自ら江戸幕府を閉じる決断をしました。

 

徳和幕府を開いた徳川家康以来の人物、将軍である、それだけの器であり優秀だとの評価をされた人物です。

 

しかし、徳川慶喜を高く評価する人もいれば、最悪な将軍だと低く評価する人もいます。
なぜそこまで評価が変わってくるのでしょうか。

 

それは当然評価される功績と、そうではなく批判されることどちらもあったからに他なりません。
今回は徳川慶喜の生涯や功績を追って、その評価が分かれるポイントを学んでいきます。

 

また、大河ドラマ「西郷どん」では松田翔太さんが演じており、西郷隆盛との関係などにも注目が集まっています。
徳川慶喜と西郷隆盛の関係についても迫っていきます。

どうか最後までお付き合い下さい。

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徳川慶喜(一橋慶喜)とは?生涯と功績に迫る

德川慶喜
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

徳川慶喜は徳川家康以来の英傑

徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれました。
徳川斉昭は37人も子供を作った人です。

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慶喜は幼い頃から学問も武道も優秀で、将来を期待される逸材でした。
江戸ではなく水戸藩で育った慶喜は、父が創った藩校、弘道館で学びますが、この時すでにその有能さは秀でていたようです。

 

水戸藩は比較的江戸に近く、かつ海に面していることから、早くから外国の存在を意識していた藩でした。
その環境が勤王、尊王攘夷といった考え方が根付かせたと言えます。

 

父の斉昭は、「尊王攘夷」を生み出した藤田東湖のことを支持しておりましたので、子供である慶喜が勤王であることも生まれ育った環境の影響が強かったのです。

関連記事:【尊王攘夷を生み出した男とは?】藤田東湖の絶大な影響力に迫る

 

御三卿の一橋家を相続、一橋慶喜に

徳川慶喜の有能さは江戸にも届くようになります。
老中の阿部正弘、第12代将軍家慶の目にとまり、名門である一橋家を相続します。

一橋家は御三卿(ごさんきょう)と称され、将軍候補を輩出する家柄です。

その優秀さから、慶喜は何度も将軍候補に名前があがります

 

将軍継嗣問題になる

徳川家慶が自分の次の13代将軍に慶喜を薦めておりますが、阿部正弘が反対して実現されませんでした。

関連記事:【阿部正弘の力】島津斉彬や井伊直弼との本当の関係~西郷どんで注目

 

そして家定の次の14代を選ぶときも家茂と争って負けております。
これが有名な将軍継嗣問題です。

 

家定は体が弱く、将軍には就きますがすぐに次の将軍を誰にするかという問題が起こります。
そこで候補に名前が挙がったのが、徳川慶福(後の家茂)と一橋慶喜です。

 

家茂を推す南紀派と、慶喜を推す一橋派で激しく対立します。
薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の徳川斉昭、越前福井藩の松平春嶽は一橋派として慶喜を推します。

 

一方、井伊直弼は南紀派でした。
結果としては、一橋派であった老中阿部正弘が急死したことにより、井伊直弼の力が強大になって大老になり、強引に家茂を将軍にしてしまいます。家茂はまだ幼く、井伊直弼が意のままに政局を握るためです。

負けると言っても慶喜自身が将軍になりたかったわけではないと言われています。

 

将軍後見職として影響力を強める

井伊直弼が大老になって起こるのが安政の大獄です。

関連記事:井伊直弼とは?【安政の大獄の真相に迫る】子孫は彦根で愛される市長

 

その時の井伊直弼の権力の強さ、強引さは慶喜にも影響します。
日米修好通商条約の調印に対して慶喜が反論すると、謹慎処分を受けることになりました。
慶喜の勤王の精神が伝わってきます。

 

桜田門外の変が起きると謹慎処分がとけ、再び政治活動を行います。将軍後見職として政治に大きく影響を及ぼす存在になります。

 

松平春嶽を政治総裁職に任命して改革を行います。「文久の改革」と呼ばれます。
京都守護職を設置したのも慶喜です。


上洛して朝廷とのやり取りを引き受け、孝明天皇にも会うようになりますので、慶喜の力は強まっていきました。

 

禁門の変では自ら前線に立つなど、猛将ぶりも発揮します。
また、朝廷に対する交渉では、慶喜自身の切腹する覚悟であることを発言するなど、強引な手腕、力強い存在であることを見せる場面も多かったのがこの頃です。

 

15代将軍徳川慶喜の誕生

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家茂も早くに亡くなると、ついに慶喜が将軍に就きます。
この時も慶喜が将軍になることへの反対がありました。それは大奥です。
後ほど説明しますが、父斉昭ともに慶喜は大奥に嫌われており、反対の声があがりましたが、この動乱の時代の将軍が務まるのは慶喜であるという意見の方が強くようやく徳川慶喜将軍が誕生します。

 

しかし徳川家最大のピンチを迎えている状態であったことは言うまでもありません。
徳川慶喜が将軍になったのが1866年の12月です。
前後の出来事としては、1866年3月には薩長同盟が結ばれており、1867年10月に大政奉還となりますので、慶喜が将軍職であった期間は1年もなかったことになります。

 

ただそんな状態でも、徳川幕府の改善、改革とも言うべき行動をしており、古い制度をやめて、新たな政治体制にするように努めました

 

徳川慶喜の最後

あまり知られていませんが、徳川慶喜は長生きします。
15人の徳川幕府の将軍の中で一番長生きし、77歳でその生涯を終えます。死因は感冒と肺炎でした。

 

明治になると静岡に移り住み、趣味に没頭する日々を送りました。
最後は東京都文京区春日の屋敷に住み、一時貴族院議員も務めますが、決して表に出るようなことはなく、静かに生き抜いた人生であったと言えます。

 

徳川慶喜の評価が分かれるポイント

徳川慶喜の評価を左右する要因として、大きく5つのポイントがあります。

1,大奥からの評判

徳川慶喜は大奥からの評判が非常に良くない将軍でした。
特に13代家定の正室であった篤姫と14代家茂の正室であった和宮との確執は大きかったようです。

関連記事:【篤姫と和宮の関係と絆】幕末最大の偉業を成し得た2人の気高い女性

 

そのため、明治に入ってからも元大奥であった人物からは慶喜の悪い評判しか発せられませんでした。

 

2,大政奉還の功績

なんといっても徳川慶喜の一番の功績が大政奉還です。

 

慶喜が大政奉還しなかったら激しい内乱が起きていた可能性が高いです。そうなると危険なのが外国からの侵略です。自らの決断で内乱を防ぎ、新しい時代へのバトンをしっかり渡しました。

 

慶喜の決断は間違いなく日本を救いました。

 

しかし、惜しい点が結果としては戊辰戦争が起こってしまったことです。
王政復古の大号令が出る前に明確に決着することができれば多くの人命を救うことができました。

 

少し複雑ですが、大政奉還した後も、慶喜は征夷大将軍という地位に残ったままでした。
慶喜がすんなりと大政奉還したのも、実はその後も実権を握るつもりであったという見方もあります。

 

この250年間朝廷は政治をしたことがない状態で、明治天皇も若く、朝廷には政権を握る力はない、実権は自分が持ったままになるだろうといった考えがあったと言われています。

 

しかし、現実はそうではなく、岩倉具視や大久保利通らの動きもあり、王政復古の大号令が発せられ、最終的には内乱(戊辰戦争)が起こってしまいます。

関連記事:岩倉具視とは紙幣にもなった幕末最も立身出世した男~幽棲旧宅は今

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ただ戊辰戦争が起こったとはいえ、大政奉還がなされていなかった場合はもっと大きな内乱になっていたことが容易に予想できますので、いずれにしてもその功績は評価すべき点です。

徳川慶喜【大政奉還の真実】二条城での大英断はなぜ行われたのか?

 

3,鳥羽・伏見の戦いでの逃亡

鳥羽・伏見の戦争に踏み切った慶喜は、戦い抜くことを号令し、戦線に赴きました。

 

新政府が圧勝した印象がありますが、実は幕府軍は新政府軍の3倍ほどの勢力があり、兵器も整っていたのです。

 

慶喜は禁門の変では猛将ぶりを見せており、戦いの指揮としても優れておりました。
しかし慶喜は戦わずに江戸に逃げ、その結果幕府軍は敗れました。

 

この行動には批判が集まるところであり、慶喜の評価を著しく下げている要因がこの点です。

 

一方で、慶喜が逃げたことで内乱は短期戦で終わることができました。
その結果を慶喜の成果であると判断する人もいます。

 

大政奉還を判断した要因も同様ですが、慶喜はフランスの支援を受けてはいたものの、内乱をするとどうなるかを明確に見越していたように感じます。

 

事実、鳥羽・伏見の後にフランスは再度戦うことを要求しています。
慶喜は内乱が長期化、激化することで日本の安全が損なわれることを感じていたことは確かであるとわかります。

 

そうは言っても、多くの家臣を戦地において自分だけ逃げることは批判されても仕方がありません。
もっと別の方法があったのではないかと感じます。

 

4,大政奉還後の評判

明治に入り、慶喜は静岡に移りました。
慶喜は趣味が豊富で、写真、囲碁、狩り、油絵などをそれぞれ極めるほど楽しんだそうです。

 

しかし慶喜が趣味を楽しむ一方で、徳川家の家来たちの生活は困窮していたようです。
その自分だけ悠々自適に生活している姿は慶喜の評価を下げるものでした。

 

一方で、慶喜はまったく政治には感心を示さず、新政府の邪魔になるようなことは一切なかったようです。その点は評価されるところです。

 

5,口を閉ざしたままの慶喜

多くの人が慶喜を批判し、また憶測で様々な評価をしていますが、一番わからなくしている要因としては、慶喜自身が語らない点であると感じます。

 

また、慶喜には渋沢栄一を世に出したという、大きな功績があります。
幕末迫った頃、慶喜は渋沢栄一を引き上げて、留学させています。

 

渋沢栄一自身も慶喜に大変恩義を感じており、慶喜の本を出版したほどです。

 

渋沢は数々の産業をつくり、多くの名門企業を創業しました。
そんな渋沢を世に出すきっかけを作った慶喜の功績ははかり知れません。

 

徳川慶喜と西郷隆盛の関係

第一次長州征伐では、徳川慶喜を総大将として、戦局の鍵となった薩摩藩の大将を務めていたのが西郷隆盛でした。

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この時は味方同士であった2人ですが、西郷の考えが倒幕に向かってからは、敵同士となります。
大政奉還に積極的だったのは坂本龍馬や後藤象二郎であり、薩摩藩は後ろ向きでした。武力倒幕の意向だったのです。

関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで

 

大政奉還後もその考えは変わらず、ある意味慶喜は大いに負けを認めているにも関わらず、それを強硬的に戦争したのは西郷側でした。

 

慶喜は戦意がないことを明確にし、その後を勝海舟に任せました。
勝と西郷との間で江戸城無血開城は実現しました。

 

最後の引き際、対応に関して、評価するべきは徳川慶喜ではないか、そう感じます。

2人とも自分だけの感情や意見でどうにもできない立場であったことは確かです。背中には大勢の人がいました。
そんな中、ギリギリの状態で日本を混乱から救ったのは、徳川慶喜、西郷隆盛の2人がいたからであったことは間違いありません

 

最後に

西南戦争が終わりしばらく経ってから、西郷隆盛の長男寅太郎が伯爵になった際、慶喜は自宅を訪れてお祝いを述べたと言われています。

 

その慶喜の心境はどういったものだったのでしょうか。

 

かつて引導を渡された薩摩のリーダー西郷に対して、何より時代にケジメをつけなければならなかった自分の宿命に対して、本当の意味で整理がついたからでしょうか。
それとも引導を渡してくれた西郷に対しての恩義を示すためでしょうか。

 

慶喜は大正2年まで76歳まで生きました。
大政奉還の頃は30歳です。
将軍ではない時間が圧倒的に長い人生でした。

 

そんな短い期間の中で、今の日本につながる指針を示したことだけでは確かです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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