最後の将軍を務めた徳川慶喜。
自ら江戸幕府を閉じる決断をしました。

 

家康以来の将軍である、それだけの器であり優秀だとの評価をされた人物です。

 

しかし、徳川慶喜を高く評価する人もいれば、最悪な将軍だと低く評価する人もいます。
なぜそこまで評価が変わってくるのでしょうか。

 

それは当然評価される功績と、そうではなく批判されることどちらもあったからに他なりません。

 

今回は徳川慶喜の評価が分かれるポイントを学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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徳川慶喜とは

德川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれました。
徳川斉昭は20人以上も子供を作った人です。

 

德川慶喜

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


慶喜は幼い頃から学問も武道も優秀で、将来を期待される逸材でした。

第12代将軍家慶の目にとまり、名門である一橋家を相続します。

 

その優秀さから、慶喜は何度も将軍候補に名前があがります。

 

家慶が次の13代将軍に慶喜を薦めておりますが、阿部正弘が反対して実現されませんでした。
【阿部正弘の力】島津斉彬や井伊直弼との本当の関係~西郷どんで注目

 

そして家定の次の14代を選ぶときも家茂と争い負けております。
負けると言っても慶喜自身が将軍になりたかったわけではないと言われています。
家茂の頃は、将軍後見職として政治に大きく影響を及ぼす存在でした。

 

德川慶喜の評価が分かれるポイント

慶喜の評価を左右する要因として、大きく5つのポイントがあります。

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1,大奥からの評判

慶喜は大奥からの評判が非常に良くない将軍でした。
特に13代家定の正室であった篤姫と14代家茂の正室であった和宮との確執は大きかったようです。
【篤姫と和宮の関係と絆】幕末最大の偉業を成し得た2人の気高い女性

 

そのため、明治に入ってからも元大奥であった人物からは慶喜の悪い評判しか発せられませんでした。

 

 

2,大政奉還の功績

なんといっても慶喜の一番の功績が大政奉還です。
徳川慶喜【大政奉還の真実】二条城での大英断はなぜ行われたのか?

 

自らの決断で内乱を防ぎ、新しい時代へのバトンをしっかり渡しました。

 

しかし、惜しい点が結果としては戊辰戦争が起こってしまったことです。
王政復古の大号令が出る前に明確に決着することができれば多くの人命を救うことができました。

 

3,鳥羽・伏見の戦いでの逃亡

鳥羽・伏見の戦争に踏み切った慶喜は、戦い抜くことを号令し、戦線に赴きました。

 

新政府が圧勝した印象がありますが、実は幕府軍は新政府軍の3倍ほどの勢力があり、兵器も整っていたのです。

 

慶喜は禁門の変では猛将ぶりを見せており、戦いの指揮としても優れておりました。

 

しかし慶喜は戦わずに江戸に逃げ、その結果幕府軍は敗れました。

 

その行動には批判が集まるところであり、慶喜の評価を著しく下げている要因がこの点です。

 

一方で、慶喜が逃げたことで内乱は短期戦で終わることができました。
その結果を慶喜の成果であると判断する人もいます。

 

大政奉還を判断した要因も同様ですが、慶喜はフランスの支援を受けてはいたものの、内乱をするとどうなるかを明確に見越していたように感じます。

 

事実、鳥羽・伏見の後にフランスは再度戦うことを要求しています。
慶喜は内乱が長期化、激化することで日本の安全が損なわれることを感じていたことは確かであるとわかります。

 

そうは言っても、多くの家臣を戦地において自分だけ逃げることは批判されても仕方がありません。
もっと別の方法があったのではないかと感じます。

 

4,大政奉還後の評判

明治に入り、慶喜は静岡に移りました。
慶喜は趣味が豊富で、写真、囲碁、狩り、油絵などをそれぞれ極めるほど楽しんだそうです。

 

しかし慶喜が趣味を楽しむ一方で、徳川家の家来たちの生活は困窮していたようです。
その自分だけ悠々自適に生活している姿は慶喜の評価を下げるものでした。

 

一方で、慶喜はまったく政治には感心を示さず、新政府の邪魔になるようなことは一切なかったようです。その点は評価されるところです。

 

5,口を閉ざしたままの慶喜

多くの人が慶喜を批判し、また憶測で様々な評価をしていますが、一番わからなくしている要因としては、慶喜自身が語らない点であると感じます。

 

また、慶喜には渋沢栄一を世に出したという、大きな功績があります。
幕末迫った頃、慶喜は渋沢栄一を引き上げて、留学させています。

 

渋沢栄一自身も慶喜に大変恩義を感じており、慶喜の本を出版したほどです。

 

渋沢は数々の産業をつくり、多くの名門企業を創業しました。
そんな渋沢を世に出すきっかけを作った慶喜の功績ははかり知れません。

 

最後に

西南戦争が終わりしばらく経ってから、西郷隆盛の長男寅太郎が伯爵になった際、慶喜は自宅を訪れてお祝いを述べたと言われています。

 

その慶喜の心境はどういったものだったのでしょうか。

 

かつて引導を渡された薩摩のリーダー西郷に対して、何より時代にケジメをつけなければならなかった自分の宿命に対して、本当の意味で整理がついたからでしょうか。
それとも引導を渡してくれた西郷に対しての恩義を示すためでしょうか。
西郷隆盛の生涯の知りたいポイントを紹介-妻・子孫、名言も

 

慶喜は大正2年まで76歳まで生きました。
大政奉還の頃は30歳です。
将軍ではない時間が圧倒的に長い人生でした。

 

そんな短い期間の中で、今の日本につながる指針を示したことだけでは確かです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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