越前福井藩主松平春嶽は、坂本龍馬にとって大恩人にあたります。

 

大きく2つあり、1つは勝海舟と坂本龍馬が出会うきっかけを作ったのが松平春嶽です。
もう1つは勝と龍馬が設立する神戸海軍塾への資金を貸します。

 

どちらも坂本龍馬にとって非常に重要な出来事でした。
今回は松平春嶽と坂本龍馬の出会いや関係から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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勝海舟への招待状

脱藩浪士であった坂本龍馬が、越前福井藩主であり、徳川政権の政事総裁職を務める松平春嶽に直に会って交渉をするというのは、当時普通ではありません。

 

現に龍馬は、故郷である土佐藩主の山内容堂とは面と向かって会ったことすらありませんでした。
春嶽と龍馬が話すようになったきっかけははっきりしていませんが、有力な説としては龍馬の通っていた道場の師範千葉貞吉が、福井藩の剣術指南役を務めており、その伝手で会ったと言われています。

 

春嶽は龍馬の志や人間性に惹かれ、勝海舟と福井藩の顧問をしていた横井小楠に紹介状を書いたといいます。

松平春嶽_坂本龍馬

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

神戸海軍塾への資金援助

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龍馬はその春嶽の紹介状をもとに勝海舟に会いに行き、弟子となります。
勝がいなければ龍馬の活躍はそのとおりとはなっていないはずですので、この時の春嶽の紹介状は日本にとっても大きな意義があったといえます。

 

龍馬は勝の指示により、春嶽のもとに資金援助の依頼をするために福井に訪れます。

 

その時龍馬は国防に必要なこと、海軍の展望などを熱く語り、5000両という大金を借りることに成功しました。

 

当時福井藩も潤沢にあったわけではなかったはずですし、春嶽は周囲にも意見を求めたはずので、龍馬への期待がどれだけ多きものかが想像できます。
松平春嶽(慶永)が示す【真のリーダーが持つ要素】四賢侯の生き方

 

また、春嶽は同じ四賢侯の土佐藩主山内容堂へ、龍馬の脱藩を許すよう書状も出しています。

 

龍馬が生まれた土佐藩は上士と下士の身分の差が大きく、下士に生まれた龍馬は上士と対等に話したり、意見を言えるような関係ではありませんでした。
上士が下士を斬り捨てても咎められないという関係でしたので、何度も何度も悔しい思い、悲しい気持ちになったことがあったはずです。

 

そんな龍馬にとって、春嶽という殿様はどれほど嬉しく、心強い存在だったかを考えると熱い気持ちになり震えてしまいます。

 

最後に

龍馬は春嶽からお金を借りられなかったらどうしたでしょうか。

 

きっと龍馬のことですから、また何か新しい案を考えて実行したはずです。

 

しかし、龍馬にとってはとてつもなく大きな自信になり、飛躍する原動力になったことは間違いありません。

 

また、なぜこのようなことができたのかを辿ると、千葉道場での実績があります。
剣を磨いたからこそ、春嶽に会うことができたわけで、龍馬は努力によってチャンスを掴み、そのチャンスを確実にものにしたということが言えます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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