日本海軍の祖ともいうべき勝海舟、その勝から学び、発展させて商売し、そして戦い、明治維新に向けて実行した坂本龍馬。

 

西郷隆盛や松平春嶽など、当時日本のキーになるような人間がふたりと関わることで、新しい時代に向けて前進していきます。

 

明治維新は誰が欠けても成しえなかった大偉業です。

 

今回は勝海舟と坂本龍馬ふたりの出会いから、そして大政奉還までの関係をご紹介させていただきます。
どうか最後までご覧下さい。

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勝海舟と坂本龍馬との出会い

勝海舟と龍馬が出会ったのは27歳の頃です。

勝海舟

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


坂本龍馬は江戸での剣術修行でペリー来航を目の当たりにし、同郷のジョン万次郎の逸話を聞くなどして、世界や海、船といったものに関心を強めていきます。

 

そういった意味では、どこまで前情報があったかは定かではありませんが、軍艦奉行を務める勝海舟に龍馬が感心を持つのは自然のことかもしれません。

 

坂本龍馬は越前福井藩主松平春嶽(しゅんがく)の顧問でもあった横井小楠(しょうなん)とも会って海外の話を聞いており、世界観を広げつつありました

関連記事:横井小楠の思想が歴史を創った~坂本龍馬との関係から暗殺まで~

 

坂本龍馬の生涯や功績についてはこちらに詳しくまとめていますのでご覧ください。
関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで

 

坂本龍馬は松平春嶽から勝海舟への紹介状を書いてもらい、勝に会いに行きます。

 

竜馬がゆくでは、千葉重太郎と一緒に勝を斬りに行くというかたちで描かれていますが、実際は違うようです。

 

この龍馬が斬りにきたというのは勝海舟が語ったことであり、勝は少々話を大きくするような性格だったとのことです。

 

ただ、その当時龍馬が単純な尊王攘夷論しか持ち合わせていなかったのは確かであり、勝海舟にしてみれば腕の立つ攘夷派が斬りにきたと捉えてもおかしくはありません。

 

勝海舟は日米修好通商条約のために咸臨丸(かんりんまる)で船長として太平洋を渡り、アメリカに行き無事に帰国したことがある人物です。
当時移動手段と言えば馬か歩くしかほとんどなかったわけですので、途方もなくすごいことです。
咸臨丸には福沢諭吉も同船していました。

 

今の日本の状況、世界の状況、そして開国の重要性などを勝海舟に説かれ、龍馬はすっかり勝の話に夢中になりました。

 

これまで一緒にいた仲間の話は攘夷という思想は理解していたものの、龍馬としては現実味がなく、どこかうなずける話ではありませんでした。

 

海軍を作って積極的に貿易し、力をつけて国を守っていく、それが勝海舟の考えることであり、龍馬は感動し、勝の弟子になります。

 

勝海舟は幕臣であり、14代徳川将軍家茂からの信頼も厚く、そんな勝の弟子になることで、イチ脱藩浪士では到底できないことや、会えない人物とも会い、龍馬は急速に活躍の場を広げていきます

 

勝海舟は神戸海軍操練所を設立して、龍馬、そして後の亀山社中、海援隊の隊員らの多くもこの塾に入ります。

 

船の操作、海の波や気象の読み方など、当時日本では随一の航海術を学べる塾でした。

 

ふたりと松平春嶽の関わり

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勝と龍馬の出会いは春嶽のおかげで実現したことは先ほどお伝えさせていただきましたが、それ以外にも春嶽はふたりに大きく関わってきます。

 

それは海軍操練所の資金です。
勝海舟から春嶽にその資金を借りに行くよう指示を受けた龍馬は、春嶽に会いに行きます。
そして龍馬は5000両という大金を借りることに成功します。その金額は今でいえばなんと10億円を超える金額です。

 

松平春嶽のおかげで無事設立し、龍馬はその塾長に就きます。
幕臣という身分の勝海舟と一緒にいることで、龍馬は航海術はもちろん、政治という世界についても知識を吸収していくことになります。

 

しかし、この塾は脱藩浪士が多く、その中に池田屋事件に参加した者がおりました。
当然幕府側としては、幕府に逆らう者を幕府によって運営していくわけにはいかず、海軍操練所は1年ほどで閉鎖命令が出てしまいます。

 

もともと勝を嫌う幕臣もおり、勝は責任を取らされるかたちで任を解かれ、蟄居させられることになります。

 

ふたりと西郷隆盛との関わり

海軍操練所には、各藩から正式に派遣されていた塾生と、脱藩して入門するケースがありました。

 

脱藩してきた者は藩には戻れず、勝海舟も龍馬もその塾生たちのこれからについて頭を悩ませます。
最終的には薩摩藩の西郷に託すことになります。

関連記事:西郷隆盛(吉之助)の生涯!妻や子供、子孫は?偉大な名言と壮絶な最後

 

勝海舟は西郷隆盛を高く評価しており、西郷も勝の考えに賛同しておりました。
西郷が江戸にいるときは度々勝を訪れて様々なことを相談したようです。

 

西郷は勝の意思を受け継ぐ龍馬らを引き受けることにします。
薩摩藩としても龍馬らの力、航海術を必要としておりました。
そうして薩摩藩の援助を受けて、亀山社中が設立されることになります。

 

勝海舟が結んだ坂本龍馬と西郷隆盛が明治維新を実現しました。

関連記事:西郷隆盛と坂本龍馬の関係や出会いは?不仲だったというのは本当?

 

ふたりの大政奉還

龍馬は後に勝海舟から学んだ知識をもとに、大政奉還を実現させることになります。
龍馬としては内乱を避ける大政奉還を切望していました。

 

その直後に暗殺されますが、その後は勝にバトンタッチするかたちとなります。
官軍の江戸の総攻撃を目前にして、勝海舟は西郷隆盛と会談して江戸城の無血開城を実現させます。

 

最後に

勝海舟は龍馬と西郷ふたりの先生ということになります。

 

それは身分や立場だけで考えると考えられないことです。
勝海舟は幕臣でありながら、日本、日本人という考えを持ち、それを龍馬や西郷に伝えました。

 

勝海舟から坂本龍馬に知識や方法論を伝達し、龍馬が実行にうつし、龍馬ができなかったことを最後に勝が締めくくります。

 

勝海舟の性格を察すると、そこまでドラマチックに考えていたわけではないと察しますが、ふたりはまさに奇跡のようなかたちで新しい時代をつくりました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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