谷 干城(たにたてき)。
幕末から明治維新にかけて常にその中心で軍人として、政治家として活躍した人物です。

 

谷干城土佐藩の上士でありながら、浪人という立場で活躍した坂本龍馬を心から尊敬していたエピソードが残っています。

 

今回はそんな谷干城の生涯をたどりながら、その生き方を学んでいきたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さい。

スポンサーリンク

土佐藩に生まれ、勉強熱心だった谷干城

谷干城(たにたてき)は1837年に土佐藩に生まれます。
龍馬が1836年生まれですので、1つ年下ということになります。

 

谷家はもともと儒学者の家柄でしたが、のちに父が藩の上士に取り立てられました。
当時としても特に身分に厳しかった土佐藩でのことですので、相当優秀で、藩に貢献したお父さんであったことがわかりますね。

 

谷干城は非常に優秀で熱心に勉強する青年でした。
江戸遊学も認められ、江戸では当時随一の知識人に師事して見聞を広めます。

 

尊王攘夷に目覚める

江戸から帰る際、谷は武市半平太と出会います。

この出会いが谷の人生を変えました。
武市の尊王攘夷の思想に感化され、谷も尊王攘夷に目覚めるのです。

関連記事:土佐勤王党武市半平太の強烈なリーダーシップと驚きの切腹法

 

谷は土佐藩に戻ると、藩校致道館で先生となり教鞭に立ちます。
土佐藩は公武合体論が主流で、リーダー吉田東洋もそうだったので、谷は吉田と対立するかたちとなります。

 

吉田が暗殺され、一時は藩主山内豊範の側近にもなった谷ですが、その後藩内で尊王攘夷派への弾圧がはじまります。

 

それでも谷は意見を曲げず、山内容堂にも意見するなどして左遷されます。
しかしその後も尊王攘夷の考えを貫いていたということですから、谷の頑固さがわかります。

 

開国・倒幕派になる谷干城

参政後藤象二郎が藩を率いるかたちになると、時勢も変わってきました。
これまでの攘夷一辺倒ではなくなるのです。

関連記事:後藤象二郎は子孫までも破天荒?龍馬伝でも魅せた男らしさ

 

このとき、当時浪人でありながらも薩長相手に活躍していた坂本龍馬と谷は出会います。
後藤や龍馬に開国の必要性や、外国の良さを伝えられると、谷の意見も少しずつ変わってきます。

 

長崎や上海で実際に外国のことを目にすると、ついに谷も開国派となり、倒幕に参加することを決意します。

 

谷干城と坂本龍馬

スポンサーリンク

谷干城と坂本龍馬、2人のやり取りについて多くの記録は残っていませんが、谷が龍馬に対して尊敬の念を抱いていたことがわかるエピソードがあります。

 

大政奉還が成って間もなく、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されます。近江屋事件ですね。

関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで

関連記事:中岡慎太郎という実直な男の生涯~功績や評価、最後の暗殺や名言まで

 

谷は事件を聞いて急いで現場に駆けつけたといいます。
すでに龍馬は息が途絶えていましたが、何とか息があった中岡に事件の経緯や犯人につながることなどを聞いたのです。

 

当時は新選組が犯人だとほぼ確定的に思われていました。当然龍馬を尊敬する谷は新選組を許してはおけません。

 

ついに戊辰戦争で新選組局長の近藤勇が捕えられると、谷が厳しい態度を示しました。

 

生かして捕えておくべきであるという薩摩藩士と、絶対許してはおけないという谷で対立したのです。

 

結果的にはその場で斬首し、京都で首を晒すという厳しい対応をします。
この究極に厳しい処遇を決断したのが谷でした。
谷は坂本龍馬を暗殺した敵を許してはおけなかったのです。
(ご存じの通り、正確な犯人はいまだにわかっていません)

関連記事:近藤勇の首はどこに!?刀一本で幕臣にのぼりつめた男の最後

 

軍人として才能を発揮する谷干城

谷干城
出典:wikipedia

谷干城は、戊辰戦争が起きると軍人としての才能をいかんなく発揮しました。
数々の戦いに参加、指揮して新政府の勝利に貢献しました。
その後藩を取り仕切る顔役の一人となるのです。

 

さらに、谷の名を世に大きく広めたのが西南戦争でした。
最終決戦となった熊本城城山の戦いを指揮したが谷でした。
西南戦争での功績を高く評価され、陸軍中将と出世します。

 

この当時の土佐藩の顔役と言えば、板垣退助を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

関連記事:板垣退助の自由党の偉大さ!名言や年表から生涯と自由民権運動に迫る

 

実は谷と板垣は意見が合わない関係で、板垣が起こす自由民権運動にも谷は反対でした。

 

谷は陸軍の中枢を担うようになり、陸軍学校の運営や華族令の制定にも尽力しました。

 

政治家となる

谷干城は内閣ができると初代農商務大臣に就任します。
政治家となっても外国に留学して知識を習得するなど、精力的な活動を続けます。

 

しかし伊藤博文とも条約改正で対立するなどして、政界から離れます。
谷はここでも人に流されず、自分の意見を明確に主張したわけです。

関連記事:【初代内閣総理大臣】伊藤博文とはどんな人?年表でみる人物像と功績

 

谷は貴族院議員選挙で当選して政界に戻ると、20年以上にわたり尽力しました。

 

谷はロシア戦争の開戦に反対し、その後も軍縮を主張し続けました。
今から考えると、谷の主張は真っ当であると感じますが、当時は時勢に合わないとされ、谷の意見が通ることはありませんでした。
それでも一貫して谷は自身の考えを主張したのです。

 

谷は明治44年(1911年)に75歳で亡くなりました。

 

谷干城の生涯をたどると感じるのが、周囲に流されずに自分の意見を一貫して持つこと、良い意見は素直に取り入れることです。

 

印象としては頑固さが目立ちますが、簡単に人に流されるような生き方よりもずっと素晴らしいと感じます。

 

谷は生涯を通して坂本龍馬暗殺の犯人を気にしていたと言われています。
人と人、貫いた想いに感動します。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。
「明治維新から学ぼう」運営者原田

ツイッターでも発信しているのでぜひご覧ください。
明治維新から学ぼう

よろしければシェアしていただけると嬉しいです
いいね ! お願いします