押川春浪(おしかわしゅんろう)。
日本に「冒険小説」、「SF小説」というジャンルを確立した人物です。

 

押川は人気小説家という顔以外に、近代スポーツの振興にも貢献したことでも知られています。
スポーツ団体である「天狗倶楽部」を創設しました。

 

大河ドラマ「いだてん」で再注目されるだろう人物です。
配役は武井壮(たけしそう)さんで決まっています。

 

類い稀な才能と、大きな情熱を持って生きた押川は、38歳という若さでこの世を去ります。

 

押川春浪の生涯をたどると、熱狂しながら生きた男であると感じます。
今回は押川春浪の生き方に迫っていきたいと思います。どうぞ最後までお付き合い下さい。

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押川春浪(おしかわしゅんろう)の生涯とは

押川春浪(おしかわしゅんろう)は、明治9年(1876年)に愛媛県松山市に生まれました。
本名は押川方存(まさあり)です。

 

父はキリスト教の牧師さんでした。
父が伝道活動していた影響で、子供の頃は北日本を転々とする生活をします。

 

学校に進学すると、明治学院、東北学院、札幌農学校、水産講習所(現在の東京海洋大学)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学しました。

 

押川は優等生タイプではなく、落第したり乱暴な行動で退学になるなど、はみ出すタイプの学生時代を過ごします。
そのため複数の学校の入退学を繰り返しました。

 

大学在学中に冒険小説・SF小説を執筆

押川春浪
出典:ndl.go.jp

押川春浪は大学在学中に多くの冒険小説・SF小説を執筆しました。

 

明治33年(1900年)には作家巌谷小波の支援を受けて、「海島冒険奇譚 海底軍艦」を発表して一躍人気作家の仲間入りを果たします。24歳の頃です。

 

巌谷小波より「春波」の号を与えられますが、自分で「春浪」と変更しました。
この時から「押川春浪」なんですね。

 

その後も「航海奇譚」、「世界怪奇譚」、「冒険世界」などの人気作品を次々と発表して、冒険小説・SF小説ブームを巻き起こすにいたしました。

 

明治36年(1903年)には結婚しますが、浅草や千葉など住む場所は転々としました。
家を転々とするのは子供の頃からなので、その方が居心地が良かったのかもしれませんね。

 

「写真画報」の編集長も務めるなど、作家としての活躍の場を広げていきます。

 

しかし、飲酒も増えてきたこともあり、体調を崩すこともありました。

 

天狗倶楽部の創設

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小説を書く一方で、押川春浪(おしかわしゅんろう)は学生時代からスポーツが大好きでした。

 

弟の押川清が早稲田大学野球部のキャプテンになると、野球選手との人脈も広がります。
押川清は後にプロ野球の創設に貢献しました。

 

押川春浪はスポーツ愛好会を立ち上げ、学生を中心に野球や相撲、テニスなどのスポーツを楽しめるようにします。
それが「天狗倶楽部」です。

 

押川は特に野球が大好きで、天狗倶楽部でも一番盛んに行われたのは野球でした。
早稲田大学野球部のメンバーが多く、その他東京帝国大学の学生や小説家や画家、後に軍の要人や政治家になる人物など、色々なメンバーが参加していました。

 

いだてんでは天狗倶楽部のメンバーとして、吉岡信敬(配役満島真之介)と中沢臨川(配役近藤公園)の出演が決まっています。

関連記事:岡信敬~日本初の応援団長は天狗倶楽部の名物男!いだてんは満島真之介

関連記事:中沢臨川とは~羽田運動場の建設は熱い友情の証!いだてんは近藤公園

 

当時はスポーツ自体に良い印象がなく、遊びごとという印象でした。
その中でもスポーツに熱心になるというのは、やはりエネルギーに溢れ、創造的な能力が高い人物が参加していたのではないかと感じます。

 

実際天狗倶楽部は、現在の甲子園に続く野球大会への協力、プロ野球の創設への貢献、学生相撲の開始などのスポーツ振興、その他経済界・政治界で活躍する人物を多く輩出しています。

 

明治44年(1911年)、日本で初めてのオリンピック予選会が開催されます。
アジア初のIOC委員に選任された嘉納治五郎が、大日本体育協会を設立するなど、日本初のオリンピック参加に向けて奔走していました。

関連記事:【柔道の父】嘉納治五郎の偉大さ!名言や子孫は?熱い生き様と死に様

 

愛好会という色が強かったとはいえ、当時はスポーツ団体そのものがなかったのです。
天狗倶楽部も予選会開催に協力するなどして、日本の近代スポーツの発展に貢献したことになります。

 

天狗倶楽部のメンバーには今回のいだてんでも登場する、日本初のオリンピック選手である三島弥彦がいます。

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天狗倶楽部天狗倶楽部のメンバー
出典:wikipedia

野球害毒論と押川春浪

当時のスポーツへの考え方を象徴するようなものに、「野球害毒論」があります。

 

その名のとおりですが、野球は害だ、野球をするとバカになると言った主張があったのです。

 

明治44年(1911年)に東京朝日新聞に掲載された「野球害毒論」が発端でした。
数々の大学の教授や顧問を務めた、当時第一の教育者とも言える新渡戸稲造も野球害毒論の主張者でした。

 

押川春浪は断固反論します。
読売新聞にも反論文を掲載するなど、徹底的な反論をしたのです。

 

野球害毒論は押川を疲弊させました。
人気作家とはいえ、権威という大きな力が及ぼす影響は並ではなかったことが想像できます。

 

失意する気持ちもあったのでしょう
絶対負けていられないという苦悩があったのでしょう
酒の量も増え、徐々に押川の体をむしばんでいきました。

 

大正3年(1914年)、押川春浪は脳膜炎によって38歳で亡くなります。
死後、春浪追悼演説会が行われるなど、多くの人が押川の死を惜しみました。

 

野球は害なのか?
その問いは答えるまでもありませんよね。

 

野球で鍛えた心身が人生に大きな影響を与えた人がいます。
野球を通して人間関係の構築の仕方を覚え、かけがえのない仲間を得た人がいます。
野球によって身に着けた能力がその後を左右した人がいます。
日々の努力と真剣勝負によって感動させられた無数の人がいます。

 

押川春浪が主張したように、野球は素晴らしいモノです(^^)

 

大河ドラマいだてんの押川春浪役は武井壮さん

いだてんの押川春浪役は武井壮
出典:mynavi.jp

大河ドラマ「いだてん」の押川春浪役は武井壮さんです。

 

スポーツ好きという点ではピッタリですが、小説家というイメージはありませんよね^^;

 

でも冒険小説となると、グッとイメージが近くなるかもしれません。
武井壮さんの経歴をみると、まさに冒険しているような人生です。

 

いだてんはオリジナルな人物も多い中で、実際に熱く生き抜いた押川春浪の存在は際立ちそうですよね!

 

短いながらも太く生き、今に続く足跡を残した押川春浪を、武井壮さんがどう演じられるのか楽しみです(^^)

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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