古今亭志ん生(ここんていしんしょう)
落語の神様と称された男です。

 

古今亭志ん生の生涯をたどると、凄まじい逸話の数々に驚き、そして本当にこんなに波乱万丈な人生を送った方がいるのかと思ってしまうほどです。

 

自由奔放に破天荒に生きた芸の天才。
そう表現することもできますが、視点を変えると様々な面が見えてきます。

 

芸への情熱と探究心、誇りを持った仕事ぶり、そこには私たちが学べる点が数多く存在します。

 

苦労した年月が長かった古今亭志ん生が語る名言・言葉には、心にしみる奥深さがあります

 

2019年の大河ドラマ「いだてん」ではビートたけしさんが演じられます

 

今回は古今亭志ん生の生き方から学んでいきたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さい。

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古今亭志ん生(ここんていしんしょう)の誕生と少年期

古今亭志ん生(ここんていしんしょう)は明治23年(1890年)、東京市神田区神田亀住町(現在の東京都千代田区外神田)に生まれました。

 

本名は美濃部孝蔵(みのべこうぞう)といいます。

 

旗本の家柄でした。当時父は警視庁に勤めていました。
孝蔵少年をたまに寄席に連れて行ってくれたそうで、孝蔵少年は芸にふれるようになります。

 

その後一家で台東区に引っ越します。
孝蔵少年は小学校に入学しますが、あまりの素行の悪さのために退学させられます

 

孝蔵少年は奉公に出されますが、どれも長くは務まりませんでした。
一時は朝鮮にも渡りましたが、すぐに帰ってきたそうです。

 

孝蔵少年が14歳の頃、台東区浅草1丁目に移ります。

 

しかし、浅草周辺には孝蔵少年が興味を持つ娯楽がたくさんあり、賭博、酒、たばこなど、やりたい放題の毎日を過ごします

 

当然親としては黙っているわけにはいかず、孝蔵少年を家出させます。

 

孝蔵少年、後の古今亭志ん生はそれから一度も実家に帰ることはなく、親や兄弟が亡くなっても駆けつけることもありませんでした

 

ここまで紹介してきた時点で、すでに古今亭志ん生の破天荒さをわかっていただけると思います^^;

 

落語に目覚める古今亭志ん生

THE不良少年のような古今亭志ん生ですが、この頃から芸に関心を持ち出します。

 

17歳頃に有名な落語家に弟子入りして、三遊亭盛朝を名乗ります。
後に神様と呼ばれる落語家の誕生です。

 

その後師匠を何回か変えて教えを受け、金原亭馬と名乗り真打ちに昇進します。
21歳の頃です。

 

結婚するも一切落ち着かず

真打ちに昇進しましたし、出世街道が始まると思ってしまいますが、ここからが長い道のりでした。

 

古今亭志ん生が32歳の頃に結婚します。
結婚したからといっても一切落ち着くことはありませんでした。

 

あっという間に嫁入り道具を質入れして、吉原で遊ぶといった私生活だったようですので、奥さんはだいぶ辛抱強い方であったことがわかりますね。

関連記事:美濃部りん『おりん』古今亭志ん生の妻の生涯~いだてんは池波志乃さん

 

通常真打ちはそれなりの着物で、しっかりとした身なりで高座に上がるのが一般的でしたが、古今亭志ん生はいつまでたってもボロボロの身なりでした。

 

ある日師匠と衝突して落語ができなくなってしまいます
素行の悪さも相変わらずで、師匠の着物を質入れしたり、お金を借りても酒や賭博にお金を使ってしまうという有り様でした。

 

極貧生活を極める古今亭志ん生

師匠に謝罪して許してもらい、何とか落語を続ける古今亭志ん生でしたが、前座をやるくらいが精一杯でした。

 

一部のファンからは評価されていた古今亭志ん生でしたが、周囲と協調することがなく、師匠たちから可愛がられることはありませんでした

 

こんな状態ですので、一家は貧窮を極めます。
ついには夜逃げして、ひどい長屋に住むようになります

 

蚊やゴキブリはもちろん、大量にナメクジが出る長屋だったようで、後に「なめくじ長屋」と呼ばれるようになります。

 

ここまで貧窮していても、古今亭志ん生は落語を辞めませんでした

 

5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)を襲名

古今亭志ん生(ここんていしんしょう)
出典:wikipedia

素行は悪いですが、落語には真摯に取り組んできた古今亭志ん生は、ついに芽が出始めます。少しずつ売れ始めるのです。

 

昭和14年(1939年)に5代目古今亭志ん生を襲名します。

 

三遊亭朝太から古今亭志ん生まで、実に17回も改名したことになります。

 

古今亭志ん生の人気は日増しに高まっていき、独演会を開けるほどの人気者になります
それも超満員という売れっ子となったのです。

 

満州で命の危険に合う

大人気落語家の古今亭志ん生ですが、時代が時代です。戦争まっただ中です。

 

昭和20年(1945年)、陸軍より慰問芸人として満州に行くことになります。

 

満州に行きますが、ほどなく終戦となりました。
古今亭志ん生は帰れなくなり、命の危険にさらされる生活を送ることになります。

 

戦争は終わっていますが、ロシア兵がウロウロしている状態でしたし、夏服しか持っていないので凍え死ぬような生活でした。
もちろん十分な食料はありません。

 

ラジオの普及とともに落語家として確固たる地位に

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古今亭志ん生が帰国したのは2年後のことです。

 

売れっ子落語家の帰国は大きく取り上げられ、その人気は勢いを増すことになります。

 

古今亭志ん生の背中を強く押したのは、「ラジオ」の存在でした。
当時ラジオが普及し、国民の娯楽における中心的役割を果たしました。

 

そんなラジオを通して、古今亭志ん生の落語が爆発的に広まったのです。

 

ここから数年は古今亭志ん生の絶頂とも言えるような活躍をします。
目が回るほどの忙しさで仕事をしていきます。

 

こうして古今亭志ん生は確固たる地位となり、落語の神様と呼ばれるようになりました。

 

しかし、酔っぱらった状態で高座に上がったり、高座で居眠りするなど、決して行儀が良くなったわけではありません。
自由奔放さは変わりませんでした。

 

落語界の大御所となる古今亭志ん生

昭和28年(1953年)、古今亭志ん生はラジオ東京の専属、翌年にはニッポン放送の専属となります。

 

しかし、古今亭志ん生は他の局に出れないのは不自由であるとして、違う局にも出演するようになります。

 

契約はしたものの、正しく理解していなかったのだと思います。
周囲は古今亭志ん生だから仕方がないとあきらめたそうです。

 

私は芸能界には詳しくありませんが、普通に考えてありえないですよね。
それがまかり通るという点でも古今亭志ん生の力がわかります。

 

昭和31年(1956年)には自伝書「なめくじ艦隊」を発売します。

 

昭和32年(1957年)、古今亭志ん生は落語協会の4代目会長に就任しました。
名実ともに落語界の重鎮となります。

 

病気、ついに引退

昭和36年(1961年)の年末、プロ野球の読売巨人の優勝祝賀会に招待されて出席します。
そこで脳出血で倒れてしまいます。

 

なんと3ヶ月も昏睡状態が続きますが、回復して復帰します。

 

「病前」、「病後」と呼ばれますが、古今亭志ん生の芸風は変わりますが、その後も人気が衰えることはありませんでした

 

昭和42年(1964年)に勲四等瑞宝章を授与されました。

 

以後、徐々に体力が落ちて行き、高座に上がることもなくなっていきます。
それでも古今亭志ん生の落語への意欲は高かったと言われます。

古今亭志ん生(ここんていしんしょう)と妻りんさん
古今亭志ん生が退院した後に妻のりんさんと撮影
出典:asahi.com

妻・8代目文楽との別れ

長年連れ添った妻が亡くなります。

 

そして妻の葬儀の翌日、8代目文楽が亡くなりました。
8代目文楽は古今亭志ん生と並び称される存在で、2人は大親友であり、ライバルという確かな絆がありました

 

8代目文楽が亡くなった時には、

「皆、いなくなってしまった」

と号泣されたと言われています。

 

古今亭志ん生にとって、妻、友人がかけがえのない、大切な存在だったことがわかります。

 

そして古今亭志ん生も昭和48年(1973年)、83歳で息を引き取りました。

 

古今亭志ん生と森繁久彌の関係

森繁久彌
出典:amazon

古今亭志ん生が満州にいる際、当時アナウンサーをしていた森繁久彌さんと一緒に仕事をしたことがあったそうです。

 

古今亭志ん生は森繁久彌を評価し、売れっ子になると言って応援しました。
古今亭志ん生が見込んだとおり、森繁久彌は後に大成することになります。

 

古今亭志ん生の芸へのプライドと執念

素行が悪く、人から悪口を言われることも多かった古今亭志ん生ですが、芸へのプライドは並外れるものがありました

 

どんなにお金に困ろうが、周囲に怒られようが、芸に対する一途さは失わず、真っ直ぐに面白さを追い求めた人生でした。

 

売れない時代には何度も邪険に扱われ、相当悔しい経験したようで、「見返してやる」という気持ちは凄まじかったと言われています。

 

また、遠くから見ると、いい加減な印象、センスで登りつめた印象がありますが、その道のプロが評価するには古今亭志ん生の芸には型や基本がしっかりあると評価されます。

 

現代でも何をやるときも同じですよね。
古今亭志ん生の芸は、基本を身に着けて、その上でオリジナルを出したからこそ日本中から評価されたことがわかります。

 

古今亭志ん生の名言

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古今亭志ん生は名言を残しています。
これまでご覧になっていただいた方にはわかると思いますが、古今亭志ん生の人生は本当に、本当に濃いですよね。

そんな古今亭志ん生が残した奥深い言葉を紹介させていただきます。

 

貧乏に苦しみながら、今になんとかしてやると希望を持って生きていくところに、
また言うに言われぬ面白みがあるもんですよ。

 

上の者にかわいがられて引き上げてもらったって、それは自分の力じゃない。
八方敵だらけになって爪弾きにされてもいい、自分の力で上がってゆこうと思った。

 

本当に芸に一身をぶち込んでやれば、 眼のある人はきっと見てくれます。

 

 

他人の芸を見て、あいつは下手だなと思ったら、そいつは自分と同じくらい。
同じくらいだなと思ったら、かなり上。
うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っている。

 

貧乏ってのは、するもんじゃねえ。
「たしなむ」もんです。

 

酒がいちばんいいね。
酒というのは人の顔色をみない。
貧乏人も金持ちも同じように酔わしてくれるんだ。
あいつは酔わせないよ、なんて言わねえとこがいい。

 

ものごとっていうのは、
嬉しい事が起きる前には
必ず心配事や悲しいことが起こるもんなんですよ。

 

いかがでしたでしょうか。
古今亭志ん生だからこそ言える言葉ばかりです。

 

古今亭志ん生の妻・子孫

古今亭志ん生の妻や子孫についてご紹介します。

 

古今亭志ん生が22歳の頃に、妻となる清水りんと結婚しました。
言わずもがなですが、並大抵の女性ではないですよね。

 

2人は子供に恵まれ、2男2女をもうけています。
長男の清は10代目金原亭馬生、次男の強次は3代目古今亭志ん朝と落語家となります。

 

女優の池波志乃(いけなみしの)さんは古今亭志ん生の孫になります。
中尾彬さんの奥さんですね。

 

いだてんの古今亭志ん生の配役はビートたけしさん

いだてんの古今亭志ん生はビートたけし
出典:mantan-web.jp

大河ドラマのいだてんでは、古今亭志ん生をビートたけしさんが演じられます。

 

お笑い界の神様のような方ですので、見渡しても古今亭志ん生役をたけしさん以上にぴったりな人はいないですよね!

たけしさんは破天荒なイメージもありますし、楽しみ過ぎです(^^)

 

過去の大河ドラマの出演としては、武蔵で新免無二斎役を演じられました。

 

少年時代の美濃部孝蔵役は森山未來さん

美濃部孝蔵(みのべこうぞう)役の森山未來
出典:oricon.co.jp

古今亭志ん生(本名:美濃部孝蔵)の少年期を演じられるのが、俳優の森山未來さんです。

自由奔放さがある森山未來さんですので、こちらの配役も合うイメージですよね!

 

最後に

私は落語に詳しいわけではありませんので、この度初めて古今亭志ん生について調べさせていただきました。

 

平凡すぎる私には、絶対絶対真似できない生き方です^^;

 

ただ、一方で憧れる面も少なくありません。
一つのことに一途に励む、(遊びやお酒などやりたいことをやる)、男らしい憧れる生き方です。

 

名言でも紹介させていただきましたとおり、古今亭志ん生は自ら身をもって苦労し、人の心を見て、味わい、表現したような人物です。

 

真似はできませんが、人生の奥深さを味わいたいという気持ちはありますよね。
私も少しでも味わえる人生となるように、まずは目の前ことに懸命に励みます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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