可児徳(かにいさお)。
ほとんどの方の最初の印象として、「めずらしい名前だなあ」といったものではないでしょうか。
どんなことをした人物か?
日本初のオリンピック参加に尽力し、女子スポーツの発展に貢献。また、初めて日本にドッジボールを紹介したことでも知られています。
凄い方なんです。
大河ドラマいだてんでは、古舘寛治(ふるたちかんじ)さんが演じられます。
可児徳の生涯をたどると、圧倒的な存在感や威厳はありませんが、自分の目標や目の前のことを真っ直ぐに一生懸命に努力することによって、大きな功績を残した人物であると感じます。
そんな可児徳からは、多くのことを学ぶべきことがあるはずです。どうぞ最後までお付き合い下さい。
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可児徳(かにいさお)の生涯とは
可児徳(かにいさお)は、明治7年、岐阜県恵那郡苗木町で生まれます。苗木藩士の家柄でした。
地元の小学校を卒業したのち、体操練習所(現在の日本体育会大学)に入学します。普通体操と兵式体操の免許を取得しました。
明治30年に体操練習所を卒業すると、群馬県尋常中学校の教授となります。教育者としてのスタートです。
体操教育のために奔走する
明治32年、東京高等師範学校がさらに体育やスポーツに力を入れることが決定され、可児も助教授として誘われます。
可児はドイツ式の体育教育が優れていると感じて勉強します。ドイツ語の学習も行い、教員として仕事をしながら学校にも通いました。
そんな可児の努力が実ります。
当時日本国内の体育教育は混迷しており、教育のための体操か、軍隊式の体操かという意見が対立していました。
文部省は統一させる必要が出てきたので、調査委員会を設けることになり、可児はその一員に選定されたのです。
この対立は、簡単に言うと「普通体操」と「スウェーデン体操」どちらを採用するかというものでした。可児は普通体操を推していました。
しかし、結果的にはスウェーデン体操が採用されることになります。このことが可児に直接的に影響してきます。
金栗四三に指導する可児徳
東京高等師範学校には徒歩部があり、可児はその部長の任に就いていました。
そんな折、後に日本初のオリンピック選手となる金栗四三が入部します。金栗はメキメキとその才能を伸ばしていくわけですが、可児も金栗を指導した一人ということになります。
関連記事:金栗四三のマラソンに捧げた生涯!箱根駅伝創設者!年表や名言、子孫は
日本初のオリンピック参加に尽力!
東京高等師範学校の校長でもあった嘉納治五郎ですが、明治42年にアジア初のIOC委員に選任されます。
関連記事:【柔道の父】嘉納治五郎の偉大さ!名言や子孫は?熱い生き様と死に様
IOCから日本のオリンピック参加の要請があり、嘉納はオリンピック参加に向けて奔走することになります。まだまだスポーツへの理解が乏しかったために、政府は協力に応じませんでした。
そうして嘉納は大日本体育協会の設立と日本オリンピック委員会の設置をして、オリンピックに向けて準備を進めます。
可児は、永井道明と一緒に嘉納治五郎をサポートし、日本のオリンピック参加に大きく貢献しました。
日本にドッジボールを紹介したのは可児徳
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日本で初めての体育教師と呼ばれるのが坪井玄道です。可児はその坪井と一緒に、日本に初めてドッジボールを紹介するという偉業もなし得ています。
当時は「円形デッドボール」という呼び名で、その手軽さと面白さが子供を魅了し、急速に普及することになります。
後に、大正6年頃、東京女子高等師範学校の教授を務める永井道明が、初めて四角のコートでのドッジボールを指導しました。
ドイツ留学を夢見る
先ほど普通体操とスウェーデン体操の対立のことを書きましたが、簡単に言えば派閥争いのようなものです。
可児は敗れるわけですが、決定づけたのが永井道明の存在でした。永井道明がスウェーデンに留学し、その際に学んだスウェーデン体操が採用されることになったのです。
関連記事:永井道明~日本に体操を普及させた男!いだてんでは杉本哲太さん
しかも、留学から帰国すると、可児のいる東京高等師範学校の教授となるのです。可児は助教授ですので、可児としてはかなり肩身が狭い状態だったことが容易に想像できますね。
そんな状態でも可児は希望や意欲が下がることはありませんでした。
もともとドイツ式のスポーツに魅力を感じていた可児ですが、ドイツ語の学習も継続しており、ドイツに留学することを夢見ていました。
永井道明との対立
可児のドイツ留学は一時許可が下りたのですが、第一次世界大戦が影響して果たせませんでした。ドイツではなくアメリカ留学が決定し、アメリカで学んで帰国します。
しかし、永井道明は可児が学んできたスポーツ学を決して受け入れることはありませんでした。当然対立が起きます。
この頃可児は教授への昇格を果たしますが、結局は永井がいるために可児が行いたい教育は実現されません。
最終的には嘉納治五郎が間に入り、永井が学校を去ることになります。
女子スポーツに貢献する
大正12年、国華高等女子学校が創立されると、可児は校長に就任します。
この頃から、可児は女子体育の発展に尽力することになります。
上司であった嘉納、元生徒であった金栗四三も同様に、女子スポーツの普及を目指しましたので、共に奔走したのでしょう。
昭和41年、可児徳(かにいさお)は93歳で亡くなりました。
大河ドラマいだてんの可児徳役は古舘寛治(ふるたちかんじ)さん
出典:oricon.co.jp
いだてんでの可児徳の配役は古舘寛治(ふるたちかんじ)さんです。
古舘寛治さんの大河ドラマ出演は初になります。
NHKでは、連続テレビ小説「あまちゃん」や「ごちそうさん」などに出演されています。
中村勘九郎さんが演じる金栗四三、役所広司さんが演じる嘉納治五郎と一緒に登場する場面もあると思います。個性派という印象の古舘寛治さんですが、可児徳役をどう演じられるのか楽しみですね。
最後に
上司(永井道明)との対立という、可児本人としては望まないかたちの時期がありました。
現代の組織や人間関係においても、似たようなことは起こりますよね。
そんな時も可児は自分が正しいと信じた道を貫き、結果的にはスポーツ界、教育界に大きな功績を残すことができました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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