吉岡信敬(よしおかしんけい)。
日本で最初の応援団長となり、「バンカラ」の代表格であった人物です。
当時めずらしかったスポーツ団体、天狗倶楽部に所属し、日本初のオリンピック選手となった三島弥彦の親友でもありました。
吉岡の生涯をたどると、歴史的偉人のような綺麗な経歴や実績があるわけではありません。
しかしその人間的魅力は日本中を魅了し、歴史に名を残しました。
吉岡信敬の生き方からは私たちが学ぶことが多いような気がします。
ぜひ最後までお付き合い下さい。
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吉岡信敬(よしおかしんけい・のぶよし)の生涯とは
吉岡信敬は明治18年(1885年)に生まれました。
長州藩士の家柄ですが、出身が山口か東京かは定かではありません。
名前は正式には「のぶよし」ですが、本人は「しんけい」と名乗り、周囲もそう呼んでいました。
早稲田大学で応援団長になる
吉岡信敬は明治31年(1898年)に早稲田中学校に入学すると、野球部に入部しました。
選手としての活躍はそこまででもありませんでしたが、応援を一生懸命する少年でした。
所属する中学の応援はもちろん、大学の応援にも顔を出すほどでした。
明治38年(1905年)には早稲田大学の応援隊を結成して隊長となります。
当時は応援団ではなく、応援隊と呼ばれたようですね。
出典:wikipedia
吉岡は応援はもちろん、会場内の整理をするなど、ありとあらゆる試合に参加しました。
当時は応援団などは存在しなかったので、野球関係者から始まり、東京の学生では知らない人はいないというほどの有名人となります。
この頃から「虎鬚彌次将軍」(こしゅヤジ将軍)と呼ばれるようになり、バンカラと言えば吉岡信敬という存在になったのです。
ヒゲがトレードマークで、中学生の頃からはやしていました。
吉岡信敬をさらに有名にしたエピソードがあります。
明治39年に開催された早慶戦が、吉岡らの応援が過熱しすぎて中止になったのです。
早慶戦の野球はその後19年間開催されなかったと言いますから、すごい影響力です^^;
この一件は日本中に広まり、吉岡信敬は凄まじい人気者になったのです。
天狗倶楽部にも参加して三島弥彦の親友に
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吉岡信敬は明治42年(1909年)に結成された天狗倶楽部にも参加します。
天狗倶楽部の創設者であった押川春浪(しゅんろう)と吉岡は親友関係にありました。
関連記事:押川春浪の生涯~天狗倶楽部を創設した冒険小説家!いだてんは武井壮さん
三島弥彦は東京帝国大学でしたので、三島とは天狗倶楽部を通して出会うことになります。
三島がオリンピック予選会に出場したのも、はじめは天狗倶楽部の一員として観戦しに行っただけでした。吉岡から始まったスポーツを応援するという行為自体が様々なところで影響したと言えます。
関連記事:三島弥彦の生涯~年表、妻や子孫は?驚きの身体能力とあっぱれの潔さ
応援団長、バンカラの顔として学生生活を送る吉岡信敬でしたが、大正元年(1912年)には中退して志願兵となりました。
この行動もバンカラといいますか、明治の男らしい決断ですよね。
除隊した後は読売新聞などに勤めたようです。
その後の吉岡信敬はあまり表舞台にはでてきませんでした。
昭和15年(1940年)、57歳で亡くなりました。
吉岡信敬は文化人だった
応援団長というと根っからのスポーツ好きのイメージですが、吉岡信敬は実は文化的な趣味が多かった人物でした。
特に園芸が好きで、応援活動以外の時間は主に園芸をしていたそうです。
また島崎藤村の詩で涙を流すほど感情移入する、涙もろい一面もありました。
押川春浪が発行していた雑誌に執筆することも度々あり、小説家や彫刻家などの友人も多くいました。
たまたま応援というものに惹かれ、応援隊を創設しましたが、何かを創造する能力が高い人物だったのではないかと感じます。
大河ドラマいだてんの吉岡信敬役は満島真之介(みつしましんのすけ)さん
出典:thetv.jp
大河ドラマ「いだてん」の吉岡信敬の配役は満島真之介(みつしましんのすけ)さんです。
女優の満島ひかりさんの弟です。
私は「ウチの夫は仕事ができない」の出演が印象的でした。
2012年の映画デビューで出演した「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たちでは、第4回TAMA映画賞の最優秀新進男優賞、第37回報知映画賞新人賞など、複数受賞しています。
現在は多くのテレビドラマや映画で活躍している満島真之介さんですが、大河ドラマは初出演となります。
ご自身でも一番のはまり役と言っているほどで、いだてんでの登場が楽しみです。
最後に
吉岡信敬は早慶戦を中止にさせてしまったことをずっと悔んでいたようで、野球部が多く所属していた天狗倶楽部からは徐々に遠ざかったと言われています。
涙もろい面もありましたし、吉岡は決して横暴な性格ではなかったことがわかります。
そもそも吉岡が応援に目覚めたのはなぜだったのでしょうか。
記録を見つけられませんでしたが、素直に読み取ると試合で活躍できないから応援をがんばろう、という気持ちが想像できます。
つまり、吉岡信敬は真っ直ぐな努力家であったのではないでしょうか。
バンカラと涙もろい、一生懸命な姿勢、、、
相反するように感じますが、そこが吉岡信敬の魅力だったのかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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