言わずとしれた明治維新の英雄、西郷隆盛。
仲間からはもちろん、明治天皇からも信頼され、歴史上一番愛された人物などと評されることも多いです。
しかし、西郷の最期は英雄から一転、逆賊として非難され、自害してこの世を去ります。
また、西郷は二度も自殺未遂をしています。
またまた、三度結婚して、5人の子供がいます。
これだけ聞いても波瀾万丈な人生であると感じます。
そうなんです、西郷隆盛は文字通り波乱万丈な人生を過ごしました。
今回は維新の三傑、西郷隆盛の生涯をご紹介させていただきます。
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西郷隆盛(吉之助)の生涯
7人兄弟の長男として生まれる
1827年に薩摩藩西郷吉兵衛の長男として、下級武士として誕生しました。幼少時代は小吉(こきち)(その後吉之助)
西郷家は7人兄弟で、祖父母も合わせて11人の家族でした。
弟には西郷従道がいます。西郷に似て非常に優秀でかつ大きな人物であり、後に元帥海軍大将や内閣の大臣を複数務める実力者です。
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薩摩藩は郷中教育(ごちゅうきょういく)という独特の教育制度がありました。地域、自治体ごとに先輩が後輩を指導し、切磋琢磨する仕組みです。薩摩藩の特徴に武士の割合の高さがあります。他の藩と比較して際立って武士が多く、先輩が後輩を厳しく鍛えるという文化が脈々と続いていました。
大久保利通とは同じ郷中で育つ
同じ郷中には大久保利通(おおくぼとしみち)がいました。共に藩校造士館に入ります。
西郷隆盛の偉業、功績には、大久保利通の存在なくしては語れません。大久保にとっても同様です。維新三傑とのうち2人が近所同士であったことは、西郷隆盛と大久保利通の信頼関係や絆、そして並々ならぬ能力が2人にはあったことは言うまでもありません。
関連記事:西郷隆盛と大久保利通-鹿児島の両雄!心揺さぶる熱い関係
大柄で力も強く、相撲にはめっぽう強かった西郷ですが、少年時代に友達同士のケンカの仲裁した際 腕に刀傷を負い、以降刀をふれなくなります。その頃から勉学にも励むようになります。
剣がふれないという武士としては致命的な欠点を背負いますが、この時の苦悩、そしてそれを乗り越えた強さは、後の西郷の人格形成に大きく影響したのではないでしょうか。
困っている人を放っておけないという性格も、幼少の頃に苦しみ抜いた西郷だからこそ形成されたのかもしれません。
薩摩藩内での活躍、そして島津斉彬の側近として
真面目で真っ直ぐな西郷は、与えられた仕事を懸命に取り組みます。
薩摩藩は他の藩には特徴があります。
それは外国の存在へのアンテナが敏感な点です。
海を渡ると大陸、外国がある薩摩藩は、外国の情勢に敏感でした。
明治維新は外国からの圧力の影響によって起きる改革です。
徳川幕府は外国からの圧力、そして薩長をはじめとする国内の圧力によってようやく動き出しますが、薩摩藩は自ずから外国の情報を収集し、外国の文化を取り入れて近代化を図った藩です。
その先進的な動きをけん引したのが薩摩藩主島津斉彬です。
確かな目と圧倒的な行動力で改革を進めようとする島津斉彬は、藩内のみならず徳川幕府への影響力も大きな実力者でした。
関連記事:島津斉彬という名君を見よ!西郷隆盛、弟久光との関係を紹介
そして、西郷隆盛を世に出したのもこの島津斉彬です。
西郷は、藩主島津斉彬に意見書を提出し、それが斉彬に認められます。27歳の頃、斉彬に一緒に江戸に渡ります。
その頃から西郷隆盛は島津斉彬の側近として目ざましい活躍が始まります。
しかし、西郷の活躍の場を見い出してくれた藩主、島津斉彬は1858年急死します。
斉彬の死は西郷の人生にも大きな影響を与えます。
二度の自殺未遂と二度の島流し、奄美大島へ
西郷隆盛は、二度の自殺未遂をしています。
一度は斉彬が死んだとき、二度目は同志であった清水寺の月照と心中します。
どちらも心の底から慕っていた人に対する忠義からです。西郷の真っ直ぐさ、純粋さなど性格、生き様がみえますね。
西郷は当時斉彬の死にショックを受け、殉死することを決めていました。この時月照に救われるのです。
月照は勤皇を志す僧であり、幕府から追われる存在でした。西郷は月照を連れて薩摩藩に連れて帰るという動きを取ります。
関連記事:西郷隆盛と月照の本当の関係と心中の理由【西郷どんで注目】
西郷は薩摩藩に連れて帰れば月照を助けられると思っての行動でしたが、しかし藩がとった行動は西郷が考えていたものではありませんでした。西郷と月照は事実上2人で自殺することを命ぜられるのです。
西郷は月照と入水自殺をします。
月照は亡くなりましたが、西郷は文字通り奇跡的に助かります。そして助けられた後に、約3年間奄美大島に島流しされました。
この時期安政の大獄があるなど、世間は一層混沌してきました。攘夷活動が目立っていた西郷の身を守るために奄美大島に身を送ったと言われています。
島津久光と西郷隆盛の確執
二度目の島流しは島津久光からです。西郷は久光に対して、田舎の厄介者という意味の「地ごろ」と暴言をはき、約2年間沖永良部島に島流しされています。
島津久光は西郷が最も信頼、尊敬する島津斉彬の弟ですが、西郷とは折り合いが悪く、様々な場面で衝突することになります。西郷も久光のことは認めようとはしませんでした。
久光から見れば、兄の斉彬はなかなか越えられない大きな背中でした。
人望や才能、江戸や京での知名度、色々な角度から見ても、兄には到底及ばない、そう周囲から見られていたと思っており、どこか引け目があったはずです。
その兄が可愛がっていた西郷です。無意識にも敵意を感じていたのかもしれません。
そこに西郷の生意気な発言や態度、久光としては許せるはずもなく、すぐに島流しとなってしまいました。
西郷が復帰してからもその水と油のような関係は改善されず、その2人の間に入ってうまく立ち回ったのが大久保利通や小松帯刀でした。
大久保からしてみれば西郷の力は必要、しかし実質的な藩のトップは無視できないという状況であったでしょうから、藩政を動かすにはどちらの力も必要でした。
攘夷活動の活発化
西郷隆盛が島流しされていた頃というのは、攘夷派が積極的に活動し、また多くの志士が亡くなったときでもありました。
薩摩藩が起こした生麦事件や寺田屋事件、また長州藩の過激な活動など、京をメインの舞台として急速に攘夷活動が活発になりました。
そうなると次の起こるのが権力争いです。
薩摩藩の島津久光も、どうにか政局を握りたい一心で様々な裏工作を行っていました。
西郷がもし江戸や京で仕事をしていたらどうなっていたかわかりません。
そういった意味で、この島流しは結果として西郷に、また明治維新実現のために意義があったものだったと言えると考えます。
大久保利通によって再び活躍の舞台へ
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西郷隆盛は盟友である大久保利通の働きによってまた活躍の場に戻ります。
大久保の存在がなければ西郷が戻る時期はさらに遅れ、活躍できなかったかもしれません。
それだけ薩摩藩や大久保は西郷隆盛の力を必要としており、さらに言うと時代が必要としていたのかもしれません。
西郷隆盛は薩摩軍の実質的なリーダーとなります。
禁門の変、長州征伐などの指揮をとり、歴史上重要な戦いの中心的役割を果たします。
この頃長州を討つというのが幕府側の命題であり、各藩への出兵要請が出されていました。
中央政権での立ち場を確実にしたい久光は、幕府への影響力を高めるためにも積極的に動きます。
この頃西郷が出会ったのが勝海舟でした。
幕府への協力、そして長州を討つことがどれほど無意味で間違った方向かを諭されます。新しい時代への転換、そのための考え方や必要なことを勝から教えられ、西郷は勝の考えに感銘を受けます。
薩長同盟実現
そして勝の紹介を通して出会うのが坂本龍馬です。ふたりの英雄は確かな信頼と絆で結ばれました。
西郷が38歳のときに実現した薩長同盟が明治維新に大きな一歩をもたらしたことは言うまでもありません。
関連記事:坂本龍馬と西郷隆盛の関係や出会いは?不仲だったというのは本当?
西郷隆盛の大きな功績である江戸城無血開城
西郷隆盛は江戸から明治という時代が変わる中心で活躍を続けます。
江戸城無血開城も、西郷が勝海舟と対談した際に実現しました。
西郷は、とういうより薩長はと言った方が正しいかもしれませんが、西郷の考えはもともと武力倒幕でした。
一方の坂本龍馬や土佐藩は、大政奉還が実現するよう動いていました。最終的には土佐藩が建白書を提出し、それを徳川慶喜が受け入れるようなかたちで大政奉還はなされました。
関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで
西郷らの見立てでは幕府がそんな政権を手放すようなことはしないと踏んでいましたが、結果としては歴史のとおりです。
しかし大政奉還がなされた後も、簡単に新政府ができてスムーズに事が運ぶわけではありません。戊辰戦争が起きて、各地で内乱が起こりました。
戊辰戦争が終わり、西郷は新政府には加わらず鹿児島に帰ります。
当時の手紙にも隠居する旨が記載されていたと言われています。
しかし、隠居生活は長くは続かず、薩摩藩の参政に任命され、また表舞台に戻ることになります。
明治政府でも西郷隆盛の力を必要とする
明治政府ができたとは言っても、実態は一から整備しなければならないことが山積みでした。政府内の人事はそう簡単にはまとまらず、国家としても課税が重くなるなどして、国民の不満が大きくなってしまいました。
そこで明治政府は西郷の力を求めます。
実情を聞いた西郷は改めて国事に奮闘することを決意します。
西郷は当時最重要、最難関と認識されていた廃藩置県を実現するために動きます。
御親兵をつくり、断固実行するべく明治4年に施行されます。
岩倉視察団が出向したのはその4ヶ月後です。
板垣退助らと共に西郷は留守の政府を任されます。
留守政府は、仇討の禁止令から、徴兵令、地租改正、警察組織の設立など、日本の近代化に向けて数々の制度を構築します。
西郷が加わる前の政府が廃藩置県の実行がなかなか進まなかった状態であったことを考えると、西郷のこの驚くほどの実行力がなければ、明治の多くの制度構築は間違いなく遅れていたと考えられます。
大久保利通との決別、明治6年の政変
その頃朝鮮半島との問題が表面化します。幕末に国交がなくなった朝鮮との国交についてです。
西郷は朝鮮に渡り、開国を交渉しようと決意します。
しかし大久保、木戸らが帰国し、そのことで協議されましたが、国内のことを優先しようと決定し、西郷の朝鮮行きは白紙になりました。
海外情勢を目の当たりにした視察団としては、ここで朝鮮に気を取られ、また戦争になるようなことを恐れ、国内優先にすることを提案しました。
また、大久保も西郷の意思に対して反対したというよりは、明治政府の重鎮であり要である西郷を行かせて戦争のきっかけになってしまうこと、西郷の安全を懸念してのことでした。
明治6年の政変と言われ、征韓論の論争が終結します。
このことが西郷隆盛が政治から離れることとなり、板垣退助らの自由民権運動につながります。
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西郷隆盛の最後は西南戦争
明治政府を後にした西郷隆盛は、鹿児島に戻って私学校をつくります。
武士の時代が終わり、廃刀令により剣を捨てなければならない元武士たちの釈然としない気持ちと、また新政府への不満が重なって、民衆の怒りがぎりぎりのところまで高まっていた頃でした。
西郷の学校にもそういった者が集まりました。
そういった明治政府への不満は鹿児島だけではなく、各地で上がっていきます。
そんな中、岩倉具視への襲撃事件、江藤新平が起こす佐賀の乱、福岡、山口と騒動が続きます。
そのような中でも、西郷、鹿児島では自ら争いをしかけることはありませんでした。
ただ、そう我関せずでは通せない状態となります。
戊辰戦争の後に一度鹿児島に戻った時も、周囲は西郷が黙っていることを放っておきませんでした。
この西南戦争もそうでした。
西郷隆盛の並外れた人望と、困っている人を放っておけないという性格がそうさせるのです。
西郷は「おいの体をおはん達に差し上げもんそ」と言い、西南戦争に入ります。
西郷隆盛、最後の決断です。
1877年、明治10年、西郷隆盛は49歳で亡くなります。最期は切腹でした。
西郷隆盛の妻、子供、子孫について
西郷は3度結婚しています。モテるというか、、、凄いですね!
大柄な女性が好んだといいます。
一人目の妻は須賀(すが)
一回目の結婚は24歳の時で、相手は城下の伊集院兼善の娘、須賀(すが)です。
結婚直後に西郷の祖父、父、母が立て続けに亡くなり、すがは大変に苦労します。
もともと西郷家は貧しく、その頃西郷が江戸に行っており、すがは西郷の弟、妹たちの面倒も見なければなりませんでした。
すがが生まれた家はもともと裕福な家柄で、この結婚自体がつり合うものではありませんでした。
すがの両親が連れ戻しにいき、離縁が成立します。
西郷はのちのちまですがには申し訳ない気持ちを持っていたと言われています。
二人目の妻は愛加那(あいかな)
二回目は、奄美大島での結婚で、愛加那(あいかな)という農家の娘です。
月照と心中をはかり、助けられた後のことです。一度目の島流しのときですね。
当初は月照を亡くした気持ちや自分だけが助かった後ろめたさなどで気落ちしていた西郷ですが、農民が苦しんでいる姿を見て持ち前の人助けの気持ちが湧いてきます。
そんな苦しい時期の西郷をあいかなは支えて、次第に惹かれあっていったのでしょう。
西郷が31歳の時に結婚します。
あいかなとの間に2人の子供
あいかなの間に長男菊次郎が生まれます。しかし、その年島を離れ藩に戻るよう命が下ります。
西郷は2人目の子(菊草)を見る前に戻ることになります。当時、島で結ばれた妻が島から出ることは禁じられていました。
菊次郎は11歳でアメリカに留学(その当時としてはすごいですよね!)、後に外交官として、その後は京都市長として活躍します。
有名な子孫としては、菊次郎の孫の隆文が陶芸家として活躍しています。
三人目の妻は糸子(いとこ)
三回目は西郷が37歳の時で、岩山八郎太の娘、糸子(いとこ)と結婚します。
糸子が21歳の時です。糸子も二度も結婚でした
関連記事:西郷糸子(岩山糸)【英雄西郷隆盛を支えた妻とは】西郷どんは黒木華
この頃西郷は多忙を極めるような日々を送っています。
西郷は糸子に支えられ、また西郷は仕事で留守をしがちでしたが、弟・妹の面倒をみて家族を支える存在になります。
竜馬がゆくでも、龍馬が西郷の家に泊まるシーンが書かれていますが、坂本龍馬の世話をしたのも糸子です。
糸子は次々に西郷を訪れる志士たちの世話をしました。
坂本龍馬が西郷の古いフンドシを貸して欲しいと糸子は言われ、そのまま古いフンドシを龍馬に貸したところ、それを聞いた西郷は糸子に対して叱咤したそうです。一番綺麗で新しいフンドシを龍馬に渡すように言ったという話が伝わっています。
糸子との間には3人の子供
糸子との間には、長男寅太郎(とらたろう)、次男午次郎(ごじろう)、三男酉三(ゆうぞう)の3人子どもがいます。
寅太郎は軍事の勉強のため13年間ドイツに留学し、その後軍で活躍、大佐に就きます。貴族院議員も務めました。
また、寅太郎の三男吉之助は自民党参議院議員を務めた方です。
午次郎は日本郵船に勤めます。母の糸子の最期を引き取ったのが午次郎でした。糸子が亡くなる前3年ほど一緒に暮らしたそうです。
糸子が落ち着いた幸せな生活を最期送ったのではないかと想像してしまいます。
三男の酉三は30歳の時に結核で亡くなっています。
維新後、糸子は二回目の相手であったあいかなとの子も引き取り育てます。
糸子の懐の深さ、包容力の大きさには感服しますよね。
西郷は3人の女性に支えられ、英雄と呼ばれる活躍をしたことになります。
西郷隆盛の身長は?上野公園の西郷隆盛像と犬について
西郷は身長180cm、体重110kgという大柄な体格でした。
当時の平均身長が157cmであったことを考えると巨体といってもいいくらいですね。
西郷は下戸でお酒が飲めませんでした。ただ像のイメージのとおり、大食いだったようです。
また、西郷は写真が嫌いで一枚も残っておりません。私たちが目にしたことがあるのは肖像画なんです。
1898年、上野公園の西郷隆盛像が完成しました。
隣に連れている犬ですが、実際西郷は犬好きで、愛犬を「ツン」といい、ツンを連れて兎狩りをして楽しんだと言われています。
歩くようになったのは肥満になったため、歩くことで健康に気をつけたそうです。
西郷は西南戦争のときも犬を連れていたというので、犬好きは本物です。
上野に建てられたのは、この地が徳川の菩提寺である寛永寺があります。戊辰戦争のときに西郷は幕府軍と戦っており、西郷もゆかりがある場所ということで上野に建てられました。
西郷隆盛の名言
西郷の言葉ではありませんが、「敬天愛人(けいてんあいじん)」
西郷はこの言葉を好みました。
天を敬い、人を愛する。
天命・使命を大切にする精神、慈愛の精神。
人(他人)を見てではなく、お天道様を見て行動するということにも通じます。
「小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。」
引用:https://grapefruitmoon.info/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B.html
「天を相手にせよ。人を相手にするな。全てを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ。」
「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう」
引用:https://grapefruitmoon.info/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B.html
いずれも西郷隆盛の言葉です。
西郷が今の日本や私を見たらどう感じるだろうと思ってしまいます。
最後に
「徳」という言葉、考え方を連想する生き方そのものであると感じます。
維新の三傑とまで言われた西郷が、国の敵となる西南戦争をしかけ、逆賊として死ぬ。
その事実に対して、私はずっと勘違いをしていたのかもしれません。
「新しい時代になり、古い考えを捨てきれない西郷、綺麗なことを言っても何だかんだ言って権力や嫉妬によって戦争を起こす西郷」私はそのようなことを少しイメージしていたのかもしれません。
周囲の仲間や民衆のために生きること、天命を全うする、人を愛するという生き方そのものが、最後の決断になったのかもしれないと考えるようになりました。
多くの人に慕われ、数々の逆境をはねのけて天命を全うした西郷隆盛。
私は勝海舟が西郷のことを言った「大誠意」という言葉が大好きです。
読んでいただきありがとうございました!
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大河ドラマが大好きで毎年その主人公について調べているものです。
人の命を財産と思う西郷隆盛がなぜせ西南戦争に踏み切ったのか?
引き返すことはできなかったのか?
士族を戦争ではない方向に導けなかったのか?
すごく考えさせられます。
原田さんのサイトの内容はとてもよくまとまっており、
歴史上の人物の人柄をも調べて頂いていてありがたいです。
少しずつ全て読ませていただきます。