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言わずとしれた明治維新の英雄、西郷隆盛。
仲間からはもちろん、明治天皇からも信頼され、歴史上一番愛された人物などと評されることも多いです。

 

しかし、西郷の最期は英雄から一転、逆賊として非難され、自害してこの世を去ります。
また、西郷は二度も自殺未遂をしています。

 

またまた、三度結婚して、5人の子供がいます。

 

これだけ聞いても波瀾万丈な人生ですよね?^^;
そうなんです、西郷隆盛は文字通り波乱万丈な人生を過ごしました。

 

今回は維新の三傑、西郷隆盛の生涯をご紹介させていただきます。

 

 

西郷隆盛の生涯

1827年に薩摩藩西郷吉兵衛の長男として、下級武士として誕生しました。幼少時代は小吉(こきち)(その後吉之助)
西郷家は7人兄弟で、祖父母も合わせて11人の家族でした。

 

薩摩藩は郷中教育(ごちゅうきょういく)という独特の教育制度がありました。地域、自治体ごとに先輩が後輩を指導し、切磋琢磨する仕組みです。

 

同じ郷中には大久保利通(おおくぼとしみち)がいました。共に藩校造士館に入ります。
大久保との関係は下記ページでご紹介しておりますのでご覧下さい。
西郷隆盛と大久保利通-鹿児島の両雄!心揺さぶる熱い関係

 

大柄で力も強かった西郷ですが、少年時代に友達同士のケンカの仲裁した際 腕に刀傷を負い、以降刀をふれなくなります。その頃から勉学にも励むようになります。

 

懸命に仕事する西郷は、藩主島津斉彬に意見書を提出し、それが斉彬に認められます。27歳の頃、斉彬に一緒に江戸に渡ります。
その頃から西郷の目ざましい活躍が始まります。

 

しかし、西郷の活躍の場を見い出してくれた藩主、島津斉彬は1858年急死して西郷の人生にも大きな影響を与えます。

 

そんな西郷ですが、二度の自殺未遂をしています。
一度は斉彬が死んだとき、二度目は同志であった清水寺の月照と心中します。


どちらも心の底から慕っていた人に対する忠義からです。西郷の真っ直ぐさ、純粋さなど性格、生き様がみえますね。

 

また、二度の島流しもされています。
一度は月照と心中し、助けられた後に、約3年間奄美大島に島流しされました。

 

この時期安政の大獄があるなど、世間は一層混沌してきました。攘夷活動が目立っていた西郷の身を守るために奄美大島に身を送ったと言われています。

 

二度目は島津久光からです。西郷は久光に対して、田舎の厄介者という意味の「地ごろ」と暴言をはき、約2年間沖永良部島に島流しされています。

 

この二度の島流しは、攘夷派が積極的に活動し、また多くの志士が亡くなったときでもありました。

 

西郷がもし江戸や京で仕事をしていたらどうなっていたかわかりません。そういった意味で、この島流しは結果として西郷に、また明治維新実現のために意義があったものだったと言えると考えます。

 

盟友である大久保の働きによってまた活躍の場に戻ります。


西郷が38歳のときに実現した薩長同盟が明治維新に大きな一歩をもたらしたことは言うまでもありません。

 

西郷は江戸から明治という時代が変わる中心で活躍を続けます。
江戸城無血開城も、西郷が勝海舟と対談した際に実現しました。

 

戊辰戦争が終わり、西郷は新政府には加わらず鹿児島に帰ります。
当時の手紙にも隠居する旨が記載されていたと言われています。


しかし、隠居生活は長くは続かず、薩摩藩の参政に任命され、また表舞台に戻ることになります。

 

明治政府ができたとは言っても、実態は一から整備しなければならないことが山積みでした。政府内の人事はそう簡単にはまとまらず、国家としても課税が重くなるなどして、国民の不満が大きくなってしまいました。

 

そこで明治政府は西郷の力を求めます
実情を聞いた西郷は改めて国事に奮闘することを決意します。

 

西郷は当時最重要、最難関と認識されていた廃藩置県を実現するために動きます。
御親兵をつくり、断固実行するべく明治4年に施行されます。

 

岩倉視察団が出向したのはその4ヶ月後です。
板垣退助らと共に西郷は留守の政府を任されます

留守政府は、仇討の禁止令から、徴兵令、地租改正、警察組織の設立など、日本の近代化に向けて数々の制度を構築します。

 

西郷が加わる前の政府が廃藩置県の実行がなかなか進まなかった状態であったことを考えると、西郷のこの驚くほどの実行力がなければ、明治の多くの制度構築は間違いなく遅れていたと考えられます。

 

その頃朝鮮半島との問題が表面化します。幕末に国交がなくなった朝鮮との国交についてです。
西郷は朝鮮に渡り、開国を交渉しようと決意します。

 

しかし大久保、木戸らが帰国し、そのことで協議されましたが、国内のことを優先しようと決定し、西郷の朝鮮行きは白紙になりました。

 

海外情勢を目の当たりにした視察団としては、ここで朝鮮に気を取られ、また戦争になるようなことを恐れ、国内優先にすることを提案しました。

 

また、大久保も西郷の意思に対して反対したというよりは、明治政府の重鎮でありかなめである西郷を行かせて戦争のきっかけになってしまうこと、西郷の安全を懸念してのことだと思います。

 

明治6年の政変と言われ、征韓論の論争が終結します。
このことが板垣退助らの自由民権運動につながります。

 

その後西郷は鹿児島に帰り、私学校をつくります。

 

武士の時代が終わり、廃刀令により剣を捨てなければならない元武士たちの釈然としない気持ちと、また新政府への不満が重なって、民衆の怒りがぎりぎりのところまで高まっていた頃でした。
西郷の学校にもそういった者が集まりました。

 

そういった明治政府への不満は鹿児島だけではなく、各地で上がっていきます。
そんな中、岩倉具視への襲撃事件、江藤新平が起こす佐賀の乱、福岡、山口と騒動が続きます。

 

そのような中でも、西郷、鹿児島では自ら争いをしかけることはありませんでした。
ただ、そう我関せずでは通せない状態となります。

 

西郷は「おいの体をおはん達に差し上げもんそ」と言い、西南戦争に入ります。
西郷隆盛最後の決断です。

 

1877年、明治10年、西郷隆盛は49歳で亡くなります。最期は切腹でした。

 

 

西郷隆盛の妻、子孫について

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西郷は3度結婚しています。モテるというかすごいというか、、ですね!
大柄な女性が好んだといいます。

 

一回目の結婚は24歳の時で、相手は城下の伊集院兼善の娘、須賀(すが)です。
結婚直後に西郷の祖父、父、母が立て続けに亡くなり、すがは大変に苦労します。


もともと西郷家は貧しく、その頃西郷が江戸に行っており、すがは西郷の弟、妹たちの面倒も見なければなりませんでした。

 

すがの両親が連れ戻しにいき、離縁が成立します。
西郷はのちのちまですがには申し訳ない気持ちを持っていたと言われています。

 

二回目は、奄美大島での結婚で、愛加那(あいかな)という農家の娘です。
月照と心中をはかり、助けられた後のことです。一度目の島流しのときですね。

当初は月照を亡くした気持ちや自分だけが助かった後ろめたさなどで気落ちしていた西郷ですが、農民が苦しんでいる姿を見て持ち前の人助けの気持ちが湧いてきます。

 

そんな苦しい時期の西郷をあいかなは支えて、次第に惹かれあっていったのでしょう。
西郷が31歳の時に結婚します。

 

 

あいかなの間に長男菊次郎が生まれます。しかし、その年島を離れ藩に戻るよう命が下ります。
西郷は2人目の子(菊草)を見る前に戻ることになります。当時、島で結ばれた妻が島から出ることは禁じられていました。

 

菊次郎は11歳でアメリカに留学(その当時としてはすごいですよね!)、後に外交官として、その後は京都市長として活躍します。

 

有名な子孫としては、菊次郎の孫の隆文が陶芸家として活躍しています。

 

 

三回目は西郷が37歳の時で、岩山八郎太の娘、糸子(いとこ)と結婚します。
糸子が21歳の時です。糸子も二度も結婚でした

 

この頃西郷は多忙を極めるような日々を送っています。
西郷は糸子に支えられ、また西郷は仕事で留守をしがちでしたが、弟・妹の面倒をみて家族を支える存在になります。

 

竜馬がゆくでも、龍馬が西郷の家に泊まるシーンが書かれていますが、坂本龍馬の世話をしたのも糸子です。
糸子は次々に西郷を訪れる志士たちの世話をしました

 

糸子との間には、長男寅太郎(とらたろう)次男午次郎(ごじろう)三男酉三(ゆうぞう)の3人子どもがいます。

 

寅太郎は軍事の勉強のため13年間ドイツに留学し、その後軍で活躍、大佐に就きます。貴族院議員も務めました。

また、寅太郎の三男吉之助は自民党参議院議員を務めた方です。

 

午次郎は日本郵船に勤めます。母の糸子の最期を引き取ったのが午次郎でした。糸子が亡くなる前3年ほど一緒に暮らしたそうです。
糸子が落ち着いた幸せな生活を最期送ったのではないかと想像してしまいます。

 

三男の酉三は30歳の時に結核で亡くなっています。

 

維新後、糸子は二回目の相手であったあいかなとの子も引き取り育てます。
糸子の懐の深さ、包容力の大きさには感服しますよね。

 

西郷は3人の女性に支えられ、英雄と呼ばれる活躍をしたことになります。

 

 

西郷隆盛の身長は?上野公園の西郷隆盛像と犬について

西郷は身長180cm、体重110kgという大柄な体格でした。
当時の平均身長が157cmであったことを考えると巨体といってもいいくらいですね。

 

西郷は下戸でお酒が飲めませんでした。ただ像のイメージのとおり、大食いだったようです。

 

また、西郷は写真が嫌いで一枚も残っておりません。私たちが目にしたことがあるのは肖像画なんです。

 

1898年、上野公園の西郷隆盛像が完成しました。

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隣に連れている犬ですが、実際西郷は犬好きで、愛犬を「ツン」といい、ツンを連れて兎狩りをして楽しんだと言われています。

歩くようになったのは肥満になったため、歩くことで健康に気をつけたそうです。
西郷は西南戦争のときも犬を連れていたというので、犬好きは本物です。

 

上野に建てられたのは、この地が徳川の菩提寺である寛永寺があります。戊辰戦争のときに西郷は幕府軍と戦っており、西郷もゆかりがある場所ということで上野に建てられました。

 

 

西郷隆盛の名言

西郷の言葉ではありませんが、「敬天愛人(けいてんあいじん)」
西郷はこの言葉を好みました。

 

天を敬い、人を愛する。
天命・使命を大切にする精神、慈愛の精神。
人(他人)を見てではなく、お天道様を見て行動するということにも通じます。

 

 

「小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。」
引用:https://grapefruitmoon.info/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B.html

 

 

「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう」
引用:https://grapefruitmoon.info/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B.html

 

 

いずれも西郷の言葉です。
西郷が今の日本や私を見たらどう感じるだろうと思ってしまいます。

 

 

まとめ

「徳」という言葉、考え方を連想する生き方そのものであると感じます。

 

維新の三傑とまで言われた西郷が、国の敵となる西南戦争をしかけ、逆賊として死ぬ。
その事実に対して、私はずっと勘違いをしていたのかもしれません。

 

「新しい時代になり、古い考えを捨てきれない西郷、綺麗なことを言っても何だかんだ言って権力や嫉妬によって戦争を起こす西郷」私はそのようなことを少しイメージしていたのかもしれません。

 

周囲の仲間や民衆のために生きること、天命を全うする、人を愛するという生き方そのものが、最後の決断になったのかもしれないと考えるようになりました。

 

多くの人に慕われ、数々の逆境をはねのけて天命を全うした西郷隆盛。
私は勝海舟が西郷のことを言った「大誠意」という言葉が大好きです。

 

読んでいただきありがとうございました!(^^)

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