幕末の四賢侯と呼ばれた名君島津斉彬。
明治維新の出発点とされるペリー来航の前に、島津斉彬は蒸気船の造船を命じ、ほぼ独学で完成させています。
そのように先進的で、行動的な薩摩藩は、幕末から明治にかけて次々に優秀な人材を輩出していきます。
後に勝海舟が、薩摩藩の高い人材の背景には島津斉彬の教育が基礎にあることを評価しています。
そして、西郷隆盛、大久保利通を世に出したのも島津斉彬です。
今回は島津斉彬と西郷隆盛、島津斉彬と島津久光の関係から見る斉彬の生き方、人物像をご紹介させていただきます。
どうか最後までお付き合い下さい。
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父島津斉興(なりおき)との関係
島津斉彬を語る上で欠かせないのが、父である島津斉興です。
斉彬は正室弥姫の長男として生まれますが、弥姫は34歳と早くに亡くなります
斉興には側室がいました。お由羅の方です。
その息子が久光です。斉彬とは8歳差になります。
斉彬は蘭学、西洋文化に明るく、先進的な行動をする人物でした。
それに対して斉興は保守的で、意見が合わないこともあり、仲の悪い親子でした。
隠居生活が続いた島津斉彬
父斉興は斉彬に跡を継がせず、本来であれば隠居する年齢になっても藩主のまま居座り続けます。
そして弟の久光を跡継ぎにすることを望みます。
しかし、自分が藩主になれば様々な改革をして、藩をもっと良い方向にもっていけると自信を持つ斉彬は、幕府の老中阿部正弘に琉球(沖縄)での密貿易を訴え、父を失脚させることを試みます。
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薩摩藩は琉球で中国と密貿易を続けていて、それが薩摩藩の力となっていました。
そんな動きを察した父斉興は、斉彬を支持する者の処分を断行します。
その時10名以上が切腹させられました。赤山靭負もその一人です。
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薩摩藩主島津斉彬の誕生
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
幕府もそのお家騒動を知ることになり、以前から斉彬の能力を高く評価する者は多く、父斉興に隠居するよう命じ、斉彬が藩主となります。
斉彬が薩摩藩主になったのは、41歳の頃です。
斉彬は海外情勢にも詳しく、大国である中国が西欧の植民地のようなかたちになっていることから、いち早く薩摩も、そして日本も近代国家に生まれ変わる必要性を強く感じていました。
反射炉、ガス灯、蒸気船などの製造も行い、富国強兵を目指していきます。
島津斉彬と西郷隆盛の信頼関係
島津斉彬と西郷隆盛の出会い
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島津斉彬は藩をより良くするため、広く意見を求めました。
届いた意見書を見て自ら返事を書いていたほどです。
西郷も斉彬に多くの意見書を提出しました。
農民を始め、ひどく困窮している実情を伝え、改善を力説しました。そして西郷の意見は斉彬に認められます。
この意見書を通してふたりは出会ったことになります。
斉彬は西郷隆盛、大久保利通など身分は低くても志の高い者も大事にし、引き立てます。
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大久保利通はお家騒動で謹慎させられていましたが、斉彬によって解かれて事に当たれるようになります。
島津斉彬は西郷隆盛にお庭方を命ずる
西郷は参勤交代で斉彬に同行することとなり、斉彬の秘書のような役目をもらいます。「お庭方」と呼ばれます。
ただし、あまりに身分が違うため、公式な秘書ではなく、非公式なものでした。
斉彬もどうにかして西郷が活躍できるように配慮したことがわかります。
斉彬は藩内の仕事だけではなく、越前藩橋本左内をはじめ、多くの実力者、知識人に西郷を合わせ、紹介していきます。西郷が世に出たときでした。
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西郷は、多くの実力者と出会うことで視野を広くしたことはもちろん、自分の才能に気づき、力をつけていきます。その後の西郷に大きく影響した期間でした。
島津斉彬は篤姫の輿入れを西郷に命ずる
西郷はその頃大仕事を果たします。
斉彬の養女篤姫(あつひめ)を13代将軍徳川家定の正室にする、その準備を西郷が務めました。
薩摩藩から徳川幕府の正室を出す、これが薩摩藩、そして島津斉彬にとってどれほど影響力を強めることかを考えると、斉彬の西郷への信頼度が大きいことがわかります。
現代で言えば、まさに社運をかけた大プロジェクトを任せられるようなものです。
島津斉彬の急死
島津斉彬が藩主を務めたのは7年半ほどです。斉彬は急死します。
死因ははっきりしていませんが、コレラが有力説です。
また、証拠はありませんが、毒殺の疑いもありました。
篤姫の輿入れに成功して1年半ほどで亡くなりました。
まさにこれからが正念場、島津斉彬が活躍する絶頂期というタイミングで亡くなったのです。
この時の西郷が受けたショックは大きく、殉死しようと考えたほどです。
西郷がどれほど斉彬を慕っていたか、どれほど大きな存在であったかが伝わります。
島津斉彬と弟島津久光との仲
お家騒動があったことで、斉彬と久光は仲が悪いという印象が強いですが、実はそうではありませんでした。
お家騒動に久光は関わっておらず、斉彬と直接仲が悪いわけではありません。
むしろ久光は兄の斉彬を慕っており、斉彬も久光を自分よりも高い知識を持っていると評価し、他人にも久光をそのように紹介していました。
後に久光は自分の息子たちと、斉彬の娘を次々に結婚させます。
斉彬もそう望んでいたというから、ふたりの仲は想像できます。
斉彬には跡継ぎがおらず、久光の幼い息子が後をつぎます。
久光が後見人となり、国父と呼ばれて薩摩の実権を握ります。
久光は斉彬の意思を引継ぎ、公武合体論を推進します。
斉彬のような外交能力とカリスマ性はありませんが、広い視野で冷静に判断し、確実に決断していく久光も名君と言えます。
「西郷どん」の島津斉彬役は渡辺謙が好演
2018年の大河ドラマ西郷どんでは、渡辺謙が斉彬を演じます。
第1話から登場し、斉彬の力強さ、カリスマ性にぴったりはまっていて、主人公なのではないかと思ってしまうほどです。
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最後に
島津斉彬がもっと早く藩主になっていたらどうなっていただろうか?
そしてもっと長生きして、明治政府に加わったらどうなっていただろうか?
勝手にそんなことを悔やんでしまうほどのリーダーでした。
斉彬の功績は数多くありますが、最大の功績は西郷らの起用です。
それは斉彬しかできなかったのではないかと思います。
もちろん、下級武士が藩主の秘書役として活躍するという藩の統制もそうですが、西郷という大きな器を測る力と、西郷をそこまで力強く先導する器は斉彬にしか備わっていなかったのではないかと感じます。
西郷が殉死しようとしたのは、斉彬への忠義、それに器を感じ合えた存在は斉彬以外にはいなかったからではないかと考えてしまいます。
読んでいただきありがとうございました!
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