第11代薩摩藩主島津斉彬。
西郷隆盛など優秀な人材を引き立て、ペリー来航直後に蒸気船を完成させるなど、次々先進的な技術を導入して薩摩藩の富国強兵を推し進めた名君です。

 

幕末の薩摩藩が明治維新を一歩先んじていたのはこの斉彬の影響が大きいです。

 

また、島津斉彬の養女である篤姫は徳川幕府の正室となり、薩摩藩と斉彬の幕府への影響力は強大なものになりつつありました。
しかし、道半ばで斉彬は急死してしまいます。

 

今回はそんな斉彬の子孫と養女篤姫との関係をご紹介させていただきます。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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島津斉彬の子孫

斉彬の祖先は戦国時代に島津四兄弟と称され、九州を制圧した戦国武将です。
その後徳川幕府ができて島津家は代々薩摩藩主を受け継ぎます。

 

斉彬の妻は一橋家の娘恒姫で、2人の間には長男菊三郎が生まれていますが、早くに亡くしています。

 

斉彬は恒姫の他に4人の側室がいました。
有名なのが伊集院須磨(いじゅういんすま)です。喜久(きく)とも呼ばれ、二男三女を産んでいます。

 

斉彬の子どもは全員で六男五女います。

そう聞くと子沢山ですが、息子全員と2人の娘は全員幼くして亡くなっています。

 

喜久との間の娘3人だけが成人し、全員が久光の息子に嫁いでいます。

 

斉彬と久光との関係については以下ページをご覧ください。
島津斉彬という名君を見よ!西郷隆盛、弟久光との関係を紹介

 

このうち2人も嫁いで間もなく亡くなっており、残ったのは4女の典子だけで、典子だけが子どもを産んでいます。

 

斉彬の孫にあたりますが、皇室や三菱財閥などに嫁いでおり、その血筋は現在も生き続けています。

 

島津斉彬はなぜ篤姫を養女としたのか?

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斉彬の父斉興の弟で今泉家島津家の娘が篤姫です。
斉彬と篤姫の祖父が第9代の薩摩藩主島津斉宣という関係です。

 

篤姫は17歳の時に斉彬の養女となります。
なぜ斉彬の養女となったのか?

 

それは将軍継嗣問題です。
斉彬はかねてから幕府の老中阿部正弘と島津家から正室を送り出せないかという話をしておりました。

 

11代将軍徳川家斉の正室は島津家から輿入れしており、たくさん子供を産みました。
斉彬にも影響を与えた8代藩主重豪の娘です。
家定はすでに2人の正室が亡くなっており、次は丈夫な正室を求めていました。

 

斉彬は自分の養女にして、さらに皇族の養女にして、その上で家定の正室となります。
この時に活躍したのが西郷隆盛です。
篤姫と西郷隆盛には確かに絆が存在した|西郷どんでは北川景子が好演

 

篤姫は斉彬に対して本当はどう思っていたのか?

斉彬がそこまでして篤姫を正室にしたかったのには理由があります。

 

斉彬は篤姫を正室にして、幕府内の影響力を強くすることを望んでいました。

 

篤姫は、水戸藩の徳川斉昭の息子である一橋慶喜を次の将軍にするための裏工作することを斉彬に命じられて嫁ぎます。

 

篤姫は懸命に慶喜が跡継ぎとなるよう尽力し続けます。

 

しかし、家定をはじめ大奥などの徳川家全体が水戸藩、慶喜を良く思っていませんでした。
篤姫は大奥の慶喜嫌い(水戸藩嫌い)を何とか解消しようと動きますがなかなかうまくいかなかったようです。

 

そうこうしているうちに、老中の阿部正弘が亡くなります。
そのことで井伊直弼の力が強くなり、紀州藩主徳川家茂が次期将軍となります。

 

直後に安政の大獄が起こり、斉彬ら一橋派は蟄居させられるなど弾圧させられます。

 

最後に

ご覧いただきましたとおり、島津斉彬の子どもは次々と亡くなり、斉彬はその血筋を多く残すことはできませんでした。

 

また、分家の娘として生まれた篤姫は藩主の娘→皇族の娘→征夷大将軍の妻と一気に生きるステージを変えます。
そんな中自分を見失わずに生き続けます。

 

家定が亡くなった直後に斉彬も急死します。実質、この時斉彬から託された使命は果たされます。
篤姫のそれからの生き方が答えなのかもしれませんが、その瞬間の篤姫の斉彬への想いを聞いてみたいと思ってしまいます。

 

読んでいただきありがとうございました。

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