井伊直弼というと真っ先に思い浮かぶのが、安政の大獄で多くの人を処刑した極悪人というイメージが強いです
一方では、彦根藩主としての評価は名君そのものです。

何があってそこまでの弾圧を行うことになったのか。

 

今回はどういった経緯で安政の大獄が行われたのかを含めて、井伊直弼の人物像を学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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井伊直弼とは

彦根藩主の14男として生まれました。
直弼は成人しても養子にもだされず、要職にもつかずにお城にいました。

 

その点後に対立する徳川斉昭と境遇が似ています。
德川斉昭(徳川慶喜の父)は子供が37人!!偕楽園と弘道館を造った名君

 

直弼は文武両道で非常に優秀でした。
藩主に何かあった際にスムーズに家督を相続できるように、優秀な子供を大事に囲っておくような対応をこの時代ではよくされています。

 

そして兄が亡くなったために直弼が藩主になります。32歳の時でした。
これも徳川斉昭と同じです。

井伊直弼

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


名君藩主井伊直弼

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藩主になった直弼が取り仕切った藩政は名君そのものです。

 

領民の暮らしを実際に視察して対策をうち、教育の体制を整え、能力があり懸命に仕える人物を評価して引き上げました。

 

直弼は悪いイメージばかりが目立ちますが、領民からも慕われる殿様でした。

 

その手腕は幕府からも評価されることになり、徳川政権にも携わることになります。

 

そして、黒船来航によって直弼の人生も大きく変わってきます。

 

開国派か?攘夷派か?

世間は尊王攘夷の声が高まっていきます。
孝明天皇も強烈な攘夷派であり、外国を撃ち払うよう幕府に要求します。

 

聡明な直弼は外国に勝てないことを理解していました。
しかし、アメリカは待ってくれません。

 

直弼は条約締結を決意します。
しかし、政権は幕府にあるとはいえ天皇の承認が必要です。

 

幕府側も天皇の承認を得るよう動きますがなかなか下りません。

 

そんな中、条約締結を断行する者がいました。
老中松平忠固(ただかた)です。
忠固は天皇の了承を得る前に日米修好通商条約を締結します。

 

そうです、日米修好通商条約を天皇の許可なく結んだのは直弼ではありません

 

しかし条約締結を決意していたのは確かであり、忠固の断行は直弼も容認していたのかもしれません。

 

将軍継嗣問題で対立が明確に

直弼は天皇から勅許を得ることができなかった老中堀田正睦と、条約の調印を行った松平忠固を処分して蟄居にします。

 

しかし、日米修好通商条約を締結させたのは直弼であるということは内外の認識としては一致しており、批判が大きくなっていきました。

 

この時期同時に起こっていたのが14代将軍を巡る将軍継嗣問題です。
松平春嶽、徳川斉昭、島津斉彬などの有力者は一橋派として一橋慶喜を、直弼は南紀派として紀州藩主徳川慶福を将軍にしようとそれぞれ精力的に動いていました。

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結果としては直弼が大老に就任することで半ば強引に徳川慶福を将軍にしてしまいます。
それも直弼への反発を強めることとなります。

 

ここで徳川幕府にとって大きな問題が起こります。
天皇から水戸藩に対して密勅が出されます。

 

内容は、日米修好通商条約を勝手に結んだことの説明を求めること、攘夷を進めること、そしてそれぞれ藩が協力し合って公武合体を推進することという内容でした。
戊午の密勅といいます。

 

これは徳川幕府の威厳が損なわれていることを決定的にする意味を持ちました。
本来朝廷から指示を受けるのは幕府であり、藩と朝廷がやり取りするということはありませんでした。

 

安政の大獄

直弼は何とかして幕府内を立て直す必要がありました。
そこで様々な理由を見つけて自分に反対する者を処罰していきます。

 

安政の大獄が始まります。
松平春嶽、島津斉彬、徳川斉昭、一橋慶喜らを謹慎させ、橋本佐内、吉田松陰らを処刑していきます。

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水戸藩に対して密勅を返すよう要求しますが、水戸藩内の意見も分かれて時間がかかってしまいました。
多くの水戸藩士が処刑されます。

 

安政の大獄では100名を超える被害者が出ました。

 

直弼への反発は凄まじい状態でしたが、大老という地位が退けていました。
しかし、それも長くは続かず、直弼は水戸藩を中心とした脱藩浪士に暗殺されます。
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井伊直弼の子孫

直弼の二男、井伊直憲(いいなおのり)が家督を継ぎます。直弼と側室との子供でした。
直弼とは違い、大人しい性格であったと言われます。
明治では華族として貴族院議員を務めます。

 

直憲の孫は彦根市長を務めた井伊直愛(なおよし)です。
殿様市長と呼ばれて親しまれ、36年間も市長を務めました。

 

水戸市と親善都市盟約を結び、祖先の残した因縁を解きました。

 

最後に

彦根藩主としては名君であった点、政治家としても聡明であったことを考えると、直弼が大老にならなければ大きく変わっていたと感じます。

 

大老という圧倒的な権力、それに比例する強い孤独感、混沌とした情勢、それらが直弼の人格を鬼のようにさせてしまったのではないかと想像します。

 

直弼を大老にしたのは家定であったようです。
家定が13代将軍となるときも慶喜は候補に挙がっておりました。
その時慶喜が将軍になっていれば。。
もしくは阿部正弘が生きていれば。。

 

今こんなことを考えても仕方ありませんが、高い志を持った多くの志士の死を、なんとか回避できなかったのかと感じてしまいます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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