西郷隆盛を語るときには必ず大久保利通が、大久保利通を語るときには必ず西郷隆盛がいます。
まさに切っても切れない関係です。
そんな鹿児島の両雄ですが、2人は仲が悪いと思われている方、もっと過激に言うと大久保が西郷を死に追いやったという印象を持っている方も多いです。
決してそんなことはなく、こんな熱い関係が、こんな深くて素敵な関係があるのかと感じるエピソードがいくつもあります。男が惚れ惚れする、憧れる関係がそこにはあります。
今回はそんな2人の英雄、西郷隆盛と大久保利通のエピソードや関係をご紹介させていただきます。
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まさに同じ釜の飯を食った兄弟のようなふたり
西郷隆盛と大久保利通は薩摩藩城下の下加治屋町に生まれました。西郷が3歳年上です。
家が近所というのは有名ですね。
どちらの家も下級武士でしたので貧しい生活でした。
幼少の頃、貧しい大久保は西郷家の食事に訪れ、一緒に食事をしていたそうです。
その時、西郷の兄弟が少しずつ大久保のために食事を分けたといいますので、その関係は並じゃないですよね。
西郷隆盛、大久保利通の生涯、功績などについてはこちらに詳しくまとめていますのでぜひご覧下さい。
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大久保利通が西郷隆盛を信頼していたと感じるエピソード
当然性格やタイプ、能力も違った2人ですが、それぞれが相手を信頼して助け合って乗り越えてきました。
西郷隆盛の島流しを救ったのは大久保利通
西郷は二度島流しを受けています。
一度は奄美大島に、二度目は沖永良部島にです。
一度目は西郷の命を守るためでしたが、二度目は当時薩摩藩の実権を握っていた島津久光との確執によるものでした。藩主久光と意見が合わなかった西郷ですが、一方の大久保は久光に認められたことで出世しました。
大久保が西郷を許してもらうように久光を説得したおかげで西郷は城下に戻り、再び活躍の場が得られることになります。
明治政府が西郷隆盛の力を求める
戊辰戦争の後、新しく明治政府ができたものの、初期の頃は至るところで意見の衝突、権力争いなどがありました。
必要な制度がまとまらず、新政府のリーダーであった大久保は困り果てていました。
そんな時、圧倒的な信頼と人望、リーダーシップがあった西郷の力を借りることを決定します。
岩倉具視と大久保で西郷を鹿児島まで説得しにいき、西郷がそれに応えるかたちで再び政府に加わることになります。
当時の岩倉具視と大久保利通と言えば、天皇を除けば日本のトップとNO2(実務的なトップ)でした。
そんな2人が鹿児島まで足を運び、西郷の力を求めます。
どれほど大久保が西郷を信頼し、頼っていたかがわかります。
関連記事:岩倉具視とは紙幣にもなった幕末最も立身出世した男~幽棲旧宅は今
明治政府でのふたりの共同事業と征韓論
西郷隆盛の実行力
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復帰した西郷は早速仕事に取り掛かります。
廃藩置県は西郷と大久保の断固とした覚悟、実行力によって実現した政策でした。
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允など、当時の政府をとりしきっていた多くが日本を離れた岩倉具視使節団、その期間は1年と9ヶ月に渡りました。
その時に国内を守っていたのが西郷隆盛です。主要メンバーともいうべき面々が不在にする中、西郷はその実行力で次々と制度を確立していきます。まさに頼りになる男です。
征韓論によって決別する西郷隆盛と大久保利通
大久保ら岩倉使節団が帰国して待っていたのが征韓論でした。
西郷隆盛と大久保利通が決別することになる大事件です。
関連記事:岩倉具視使節団が残した本当の価値と教訓が偉大!目的やメンバーは?
きっかけは国交をなくなっていた朝鮮に対して日本が送った手紙に対して、返信もないということから、武力で開国させようとする考え方が政府内で起こりました。
そうです、征韓論とは、朝鮮を武力で開国させようとする主張です。
しかし西郷は武力ではなく、まず話し合いを試みるべきである。相手に信用してもらうためにも、丸腰で一人朝鮮に行き、説くことから始めようと主張しました。
「征韓論=西郷隆盛」という印象がありますが、実は西郷が征韓論を主張していたわけではないのです。
実際に征韓論派だったのが、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らでした。
開国を説得しようというところまでは一致していましたが、武力をもってという点は違っていました。
西郷の主張を「遣韓論」と呼ばれることがあります。
西郷の主張は政府内でまとまり、太政大臣である三条実美の承認も得て、西郷の朝鮮行きは正式に決定していました。
しかし、大久保利通を始め、岩倉や木戸は征韓論、そして西郷の朝鮮行きを反対しました。岩倉や大久保らが反対したのは、外遊中に身に染みてその必要性を感じた、国力の向上に注力するべきであると主張しました。今はよその国のことに力を傾けるのではなく、国内のことに専念しようというのです。兄弟分、西郷隆盛の意見を真っ向から反対してくつがえしたのです。
そのやり方は強引なものでした。西郷の朝鮮行きに関して、岩倉や大久保を交えて話し合われますが、その時も閣議決定されたのです。それに納得しない岩倉、大久保、木戸は辞表を提出します。
あまりの対立に太政大臣三条実美は体調を崩してしまいます。そこに岩倉は太政大臣代理となり、西郷の朝鮮行きの延期を求める案を明治天皇に示します。最終的には岩倉の延期案が採用されるかたちとなりました。
西郷は辞職を提出します。
この時に辞表を出して下野したのは西郷だけではありません。
征韓論で西郷の意見に賛同し、大久保らの反対に納得できない板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らは一斉に政府を去ります。総勢約600名という面々が辞職して地元に帰ることになるのです。
西郷隆盛という男の影響力の大きさがわかります。西郷の一振りは完全に国を割ってしまったのです。
この出来事は「明治6年の政変」と呼ばれ、後の西南戦争などの内乱に発展させるきっかけとなりました。
西郷隆盛と大久保利通の征韓論の真意
江戸城無血開城をともに成し遂げた勝海舟が、西郷は征韓論者ではなかったことを後に話しています。
江華島事件が起きた際に、西郷はその武力でやり返す姿勢を批判しました。それを聞いていた勝は、そんな西郷が征韓論を主張するはずがないと言うのです。そうです、征韓論からほどなくして、日本は朝鮮と武力衝突しているのです。
江戸城無血開城をした西郷、兵を準備して武力を高めるという動きをしますが、最後はそれらに頼らず、戦いをせずに解決する。それを間近でみていた勝は今回の征韓論についても同じように感じたんだと思います。
廃藩置県などもそうですね。御親兵を用意して事にあたりますが、西郷は積極的に戦いをしかけるわけではありません。
また、大久保が西郷の朝鮮行きをあれだけ反対したのには真意がありました。実は、大久保利通は征韓論に反対したわけではなく、西郷の命を心配していたために西郷の朝鮮行きを反対していたことがわかる発言を、後に大久保利通の二男牧野伸顕が語っています。
牧野伸顕についてはこちらでご紹介しております。参考にして下さい。
関連記事:大久保利通の偉大さ!子孫まで凄い!麻生太郎も?妻はどんな人?
実際西郷は板垣退助とのやり取りで、西郷自身死ぬ覚悟であったことを話していたそうです。
西郷は西郷の信念を、大久保は大久保の信念を貫いたのです。
そういった行動しかとれなかったのかもしれません。
しかし、決別するほどまでに対立しなくても良かったのではないか、多くの人を巻き込まずに済む方法はなかったのか、そう感じてしまいます。
西南戦争と盟友の別れ
西南戦争の勃発、西郷隆盛は逆賊に
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明治6年の政変を機に、不平士族らの不満、怒りが高まることになります。
ただ、士族と呼ばれる元武士たちの不満はこの時に始まったわけではありません。
徳川幕府時代は良くも悪くも身分はほとんど生まれつき決まっており、武士に生まれれば幕府や藩という組織や制度によって守れていました。ある一定の仕事や権威などが備わっていた、それが武士です。
しかし明治維新後はそうではありません。
能力や人間関係で出世していく者もいれば、岩倉使節団のように多額のお金を使って外遊に行く者もいます。別に遊んでいるわけではありませんが、気に入らないという感情を持つ者も多く出てきます。
そこに士族の不満を決定的にしたのが、明治九年の廃刀令と金禄公債証書条例です。
刀を取り上げられ、給料が支払われなくなったのです。
農業する土地も、商売する知識や教養もありません。
これからどうやって生きていけばいいんだ、唯一の誇りであった刀まで、、、不満が最高潮になるのは容易に想像できます。
西郷は人望がある分、そういった仲間の声や雰囲気を、ずいぶん前から染み入るように感じていたのではないでしょうか。
朝鮮との話についても、戦争が起こればある意味武士たちの活躍する場ができるとも言えます。
いずれ不満は爆発する。
そのことを西郷は感じ取っていたはずです。
最終的には日本最後の内乱と呼ばれる西南戦争が起こります。
この西南戦争を機に、西郷は逆賊と呼ばれるようになりますが、西郷が積極的に起こしたものではありません。
やむを得なかったのです。
それは西郷だけではなく、江藤新平などもそうです。もともと不満があった元武士たち、そこに明治6年の政変によって政府を離れ、自分たちの大将が地元に戻ってきました。
時代に取り残されたような悲壮感、やり場のない怒り、不満、そこに自分たちの大将が政府から雑な扱いを受けた。
もう許せない、政府を武力で倒すしかない、それぞれの土地でそう決起させてしまったのです。
もう少し元士族への配慮や対処をしていれば、ここまで大きな内乱にならずに済んだのではないか、そう考えてしまいます。
最期まで固い絆で結ばれていた西郷隆盛と大久保利通
大久保は、西郷が戦争を起こしたことをはじめ信じなかったそうです。
また、西南戦争が始まると、大久保は西郷に戦争を止めるようと説得しに行こうとしました。
しかしその頃の大久保利通はまぎれもなく日本政府の中心人物であり、個人的な意見や感情で動くことはできませんでした。
西郷の死の知らせを聞いたときの言葉が大久保の想いを語っています。
「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が…」
引用:https://hajimete-sangokushi.com/2018/01/24/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%A8%80/
後にこうも言っています。
「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
引用:https://hajimete-sangokushi.com/2018/01/24/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%A8%80/
西郷が去っても西郷を大切にする大久保利通
西郷隆盛が去った翌年に大久保も倒れます。
大久保が暗殺されるときに西郷の手紙を持っていました。
西郷がいなくなった後も、西郷の意思や存在を大切にしていたことが伝わってきます。
大久保利通の暗殺については下記ページでご紹介させていただいております。
関連記事:大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)の全貌!理由や犯人、場所等
西郷隆盛は大久保利通と対立することを予感していた?
西郷は戊辰戦争後に政府に参加せずに鹿児島に帰っていますが、もしかするとどこかで大久保と対立するようなことになるかもしれない、そう感じていたために政治から離れたのではないか、そう思ってしまいます。
自分が緻密に戦略を練ったり、根回しをしたり、政治を動かすことには向いていないということを西郷自らが言っていたようですが、何より大久保のことを誰よりも理解し、信頼していたのも西郷だったと思います。
幕末から圧倒的な人望があり、多くの志士、武士から慕われていた西郷、そして困っている人を放っておけない西郷。西南戦争は決断せざる負えない状況だったことが想像できます。
最後に
先ほども説明したように、西南戦争は西郷が起こしたわけではありません。
時代の流れ、新しい時代が幕を開けるとどの国、時代でも新旧による争いは起こってしまいます。
西郷隆盛は、本当の意味で新しい時代を開き、古い時代を閉じたのかもしれません。
対立したという印象が残っているふたりの関係ですが、簡単には言い切れない深い関係や状況がありました。
西郷が大久保の説得によって再び東京に戻って間もなく、大久保は使節団として海外を見て回り、西郷は国内に残ります。
残った政府は重要事項を決定しないという決まりがありました。
次元が違う話ですが、私たちの身近な人間関係でこんなことがあります。
地方から東京に上京したり、友人が海外で暮らしたり、学生の友人が自分とはちょっと経済的に違う生活を送るなどして数年経つと、それまでの関係とは何かが少し違うことを感じる、そういった感覚がいつしかこれまでの関係のままではいられなくなることがあります。
西郷隆盛と大久保利通を並の人間、並みの関係と比べるのは間違っているかもしれませんが、完璧な人間はいません。
ましてや国というものを建て直すために、大至急決断しなければならないことが山積みで、しかし国内の知識だけではできない、海外から吸収しながら、かつ国防のことも考えなければならないという状況にふたりはいました。
そんなふたりの苦悩や覚悟があったおかげで今の日本があります。
ふたりとも壮絶な最期でした。
西郷隆盛が大久保利通を、大久保利通が西郷隆盛を、それぞれを想う気持ちを察すると、心が震えるような感覚になります。
読んでいただきありがとうございました!
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西郷さんは、実は算盤の名人で、大山巌さんなどは、西郷さんほど緻密な人を見たことがないと、戊辰戦争時に述べています。留守政府の実質的なリーダーでしたが
起案者は、違うとはいえ、地租改正、学制改革、徴兵令など、さまざまな制度を構築しています。自分をわざと愚鈍と周囲に思わせ、各人の力を発揮させるのは、薩摩のリーダーの基本的姿勢でした。
西郷さんのことを敬天愛人的にしか見ない方が多いですが、そんなことは、決してないのです。