三島弥彦(みしまやひこ)。
日本で初めてオリンピックに出場した偉大な人物です。
大河ドラマいだてんでは、俳優の生田斗真さんが演じられます。
三島弥彦は圧倒的な記録で短距離走者としてオリンピックに出場し、また引退後はビジネスマンとして生きました。
その生き方からはどこか潔さを感じます。
今回は三島弥彦の生涯を通して学んでいきたいと思います。どうか最後までお付き合い下さい。
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華麗なる一族に生まれる三島弥彦(みしまやひこ)
三島弥彦は明治19年(1886年)、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれます。
後程詳しくご紹介しますが、父は警視総監を務めた三島通庸、兄は日本銀行の総裁は務めた三島彌太郎です。これだけを聞いてもわかると思いますが、三島家はエリート一家で、まさに華麗なる一族のような家柄に生まれました。
弥彦は末っ子でしたので、弥彦が2歳の時に父は亡くなりました。
三島弥彦は学習院を卒業後、東京帝国大学(東京大学)に進学しました。
父や兄に負けず劣らず、弥彦も非常に優秀な頭脳を持ち合わせていたことがわかります。
運動能力抜群のスポーツ好きがオリンピック選手に
弥彦は頭脳だけではなく、運動能力についても秀でていました。
体格についても、当時155㎝が平均身長でありましたが、三島は170㎝を超えていました。当然スポーツをする上で体格は1つのポイントです。
弥彦は東京出身ですが、三島家はもともと鹿児島(薩摩藩)でした。鹿児島は早くから肉を食べていたので、日本の中では大柄な人物が多かったのも1つの特徴です。
三島弥彦がどれだけ運動ができたかを紹介します。
野球部のエースであり、冬はスキーやスケートを極め、格闘技をすると柔道や相撲が圧倒的に強く、乗馬やボートも一級の腕前でした。
凄すぎますよね。。。
「運動会の覇王」と呼ばれたそうです。
これほど幅広くスポーツができたのも、三島家が裕福であったことも1つの要因でした。例えばスキーなどは当時まだまだ認知度が低いスポーツでしたし、道具を持っている人というのはかなり稀でした。
華麗なる一族に生まれて、東大に入学する頭があり、「覇王」と呼ばれる運動能力、、、どれだけ凄いやつなんだという印象ですよね(笑)
出典:wikipedia
天狗倶楽部が果たした役割
三島弥彦が学生時代に所属していたのが「天狗倶楽部」という、スポーツ社交クラブでした。
天狗倶楽部は特に野球に力を入れており、他には相撲、テニス、陸上、柔道、ボートなど、まだスポーツというのが一般的に浸透していなかった時代にスポーツ振興として大きく貢献しました。
リーダーは日本で冒険小説というジャンルを開拓した押川春浪(おしかわしゅんろう)でした。
野球殿堂に5名を輩出していますので、その本格さや影響力がわかります。
関連記事:押川春浪の生涯~天狗倶楽部を創設した冒険小説家!いだてんは武井壮さん
また、東京帝国大学や慶応大学、早稲田大学などの有力な学生が多く所属しており、運動の交流にとどまらず、経済界などの社会にも影響を及ぼしたと言えます。三島個人としても、ここ天狗倶楽部での交流は後にビジネスマンになった際に大いに役立ったのではないかと想像できます。
オリンピック予選会に飛び入り参加
明治44年(1911年)、日本で初めてオリンピックに参加することが決定され、その予選会が開かれました。
スポーツ大好きな天狗倶楽部も予選会に関心を持ち、当日三島も参加しました。
ただ、参加といっても、選手として参加したのではなく、審判として参加する予定でした。
しかし、三島は予選会を観戦しているうちに血が騒いでしまい、飛び入りで参加することにしました。
その順位が驚愕です。
100m、400m、800mで1位、200mで2位という、本当に考えられない結果を残しました。
飛び入りで優勝してしまうのも凄いですし、100mから800mまで走り切ってしまうことも凄すぎます。
ストックホルムオリンピックに出場
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こうして、圧倒的な成績を残した三島弥彦は、短距離走者としてオリンピックに出場することが決定します。他にも結果を残した選手はいましたが、予算の関係上もあって、決定したのは三島弥彦と、マラソンで優勝した金栗四三でした。
関連記事:金栗四三のマラソンに捧げた生涯!箱根駅伝創設者!年表や名言、子孫は
圧倒的な記録を残した三島弥彦と金栗四三
予選会の記録に誰よりも驚いたのは三島本人だったのではないか、そう感じてしまいます。
マラソンの金栗四三についても、確かに期待されていた陸上部ではありましたが、マラソンを走るのは予選会が初めてでした。それにも関わらず当時の世界記録を抜いてしまったのです。
2人の運動能力が本当に飛び抜けていたことがわかります。
三島はマラソンの金栗四三と共に、オリンピックまでの期間練習に励みます。アメリカ大使館員の指導を受け、大幅に記録を縮めることに成功しました。
スポーツ黎明期だからこその苦悩
誰にも文句を言わせない記録でオリンピック予選会を突破した三島と金栗ですが、2人とも一度はオリンピック出場を固辞しています。
金栗は金銭的な理由からです。当時スポーツへの理解が薄かったので、補助金などが一切出ませんでした。当時の金額で約500万円の渡航費の用立てが必要だったのです。最終的には寄付金なども集めて用意しました。
一方三島は、裕福な家柄でしたので渡航費の用立てが難しかったということはありませんでしたが、エリートであったからこその苦悩がありました。
当時の世間としては、スポーツごときで大学を休学して海外に行くという印象が強かったのです。スポーツはショーという印象が強かった時代だったので、三島は勉学を疎かにしてけしからんという視線で見られてしまいました。
しかし、一部の仲間は応援し、三島の背中を押してくれました。大学の総長も応援してくれたそうです。そのような応援に応えるようなかたちで三島は卒業を延期し、ストックホルム行きを決意したのです。
三島弥彦のストックホルムオリンピックでの記録
出典:wikipedia
明治45年(1912年)、第5回オリンピック、ストックホルム大会が開催されました。
三島は旗手として開会式に参加しました。オリンピックの歴史に初めて日の丸が掲げられた瞬間です。
開会式に参加したのは、三島と金栗、日本選手団の団長として嘉納治五郎、監督として大森兵蔵の4名です。
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肝心なレースですが、自己ベストを記録したにも関わらず、すべて予選で敗退するという結果で終わりました。
100mでは1秒以上も差をつけられ予選敗退、200Mでは最下位、400mでは予選突破の権利は得たのですが、足の痛みのために断念しました。日本から17日間という長旅の疲れ、慣れない異文化での生活、極度の緊張などが重なり、三島の体は疲労困憊でした。
三島はマラソンの金栗に対して、こう言ったそうです。
「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」
金栗四三も熱射病にかかり、途中棄権という結果でした。
三島と金栗は悔しさに歯を食いしばり、次回のベルリンオリンピックで雪辱を果たすことを決意し、ドイツに移動して視察した上で帰国しました。
しかし、第一次世界大戦の影響でベルリンオリンピックは中止となりました。
8年後のアントワープオリンピックに開催されましたが、体力も低下した三島は予選にも参加しませんでした。
ビジネスマン三島弥彦
大正2年(1913年)に東京帝国大学を卒業した三島は、横浜正金銀行(現在の三菱UFJ銀行)に入行しました。
三島は中国赴任や検査人など、銀行内の要職を務めました。
スポーツ関係の仕事には就かず、イチビジネスマン、金融マンとして生涯を過ごしました。
昭和29年(1954年)に67歳で亡くなりました。
三島弥彦の妻と子孫
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三島弥彦の妻は鍋島文子といい、結婚しています。
2人の子供や子孫などについては記録が残っていません。
やはりオリンピックの以降はあくまで一般人ですので、その詳しいデータは見つかりませんでした。今回の大河ドラマいだてんを通して公になるかもしれません。
三島弥彦の父三島通庸
出典:wikipedia
三島弥彦を語る上で、その際立つ家柄にふれないわけにはいきません。まず父の三島通庸について簡単に紹介します。
三島通庸は薩摩藩士で、西郷隆盛や大久保利通らがメンバーであった精忠組に加わっていました。あの寺田屋事件にも参加していますので、バリバリの尊王攘夷の志士であったことがわかります。
西郷隆盛、大久保利通に取り立てられ、藩の重役を務め、その後明治政府に仕えました。大久保利通や伊藤博文に大変信頼が厚かった人物でした。
初代山形県令(現在の県知事)を務め、その後福島県令、栃木県令、警視総監を歴任しました。凄い経歴ですね。
「鬼県令」と呼ばれ、剛腕の政治家でした。その強引さは相当で、三島通庸は命を狙われるほどだったようです。
警視総監在任中に脳溢血で亡くなり、葬儀には12,000人も訪れたという大人物です。
三島弥彦の兄三島彌太郎
出典:wikipedia
三島彌太郎と弥彦は19歳差だったので、親子に近い関係だったことが想像できます。父は弥彦が2歳の頃に亡くなっていますので、兄彌太郎が弥彦に与えた影響は大きかったはずです。
彌太郎は貴族院議員を務め、横浜正金銀行頭取(現在の三菱UFJ銀行)を経て、日本銀行の総裁に就任しました。
小説『不如帰』に登場する川島武夫のモデルとしても有名です。
詳しくまとめているページがありますのでぜひご覧ください。
関連記事:三島彌太郎の生涯~弥彦の兄は超エリート!いだてんは小澤征悦さん
大河ドラマいだてんの三島弥彦役は生田斗真さん
出典:mynavi.jp
2019年の大河ドラマ「いだてん」の三島弥彦役は、俳優の生田斗真さんが演じられます。
生田斗真さんは過去の大河ドラマとしては、軍師官兵衛の高山右近役として出演しています。
どことなく品があり、エリートな雰囲気がある生田斗真さんは三島弥彦役にぴったりな印象があります。いだてん前半の重要人物ですので楽しみです。
最後に
一緒にストックホルムオリンピックに出場した金栗四三は、マラソンの父として近代スポーツの振興に大きな功績を残しました。
一方、三島弥彦はオリンピックの後は一切メディアに登場することもなく、イチ銀行員として生きました。どちらの生き方も偉大であり、どちら良い悪いではありません。
ただ、三島は純粋にスポーツが好きで、夢中で走っただけなのではないか、運動することや走ることに夢中になっている間にオリンピック選手に選ばれたような印象があります。
三島はスポーツで食べていくという選択はしませんでしたが、学生時代のスポーツ仲間やオリンピック出場したという経験は、その後の人生に大きな影響を与えたのではないでしょうか。
三島の生き方からは、好きなことや目の前のことを懸命に取り組むことの重要性、尊さを教えられた気がします。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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