金栗四三(かなくりしそう)。
日本で初めてオリンピックの舞台の立った偉大な男です。

 

2019年の大河ドラマ「いだてん」の主人公として注目が集まっていますね。

 

マラソン選手として三度のオリンピック出場、箱根駅伝の創設、数多くの国際選手への指導など、数々の偉業を残しました。日本のマラソンの父と呼ばれます。

 

しかし、金栗四三の生涯をたどるとそれだけでは表現できないモノを感じます。
まだスポーツというものが根付いていなかった日本、まだ日本人という存在を世界が知らなかった時代に、「日本人」という旗を掲げたのが金栗四三ではないか、そう思います。

 

私は小中高と運動部に所属しました。駅伝大会に参加して仲間もできました。家族で箱根駅伝を見て会話に花を咲かせたことも何度もあります。それがまさに金栗が生きた証なのではないかと考えると、胸が熱くなります。

 

今回はいだてんの主人公、金栗四三の生涯をたどり、その生き方から学んでいきます。
どうか最後までお付き合い下さい。

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金栗四三(かなくりしそう)の生涯

幼少時代

1891年(明治24年)、熊本県(現在の和水町)に生まれます。父信彦が43歳の時の子供であったことから四三と名付けられました。4男4女の7番目でした。

 

父が早くに亡くなったので、兄の実次(さねつぐ)が親代わりとなって育てられたといいます。
幼少期は病弱だったようですが、学校に入る頃には丈夫な少年に育ちました。

 

この頃から成績が非常に優秀だったようで、学年でも1,2を争うほどでした。

 

かなりの田舎で育ったことがわかるのが、小学校までは往復12キロかけて通ったというから凄いです。この時の毎日が後のマラソンランナー金栗四三を育てたことは言うまでもありません

 

この頃は義務教育ではありませんから、誰もが中学校に通うわけではありません。成績優秀だった金栗四三は、その地区としては初めて旧制玉名中学に入学しました。

 

嘉納治五郎との出会い

金栗は中学卒業後の進路として海軍兵学校を目指しましたが、目の検査で不合格となります。だいぶ落ち込んだ金栗ですが、新たな目標を見つけました。

 

1910年(明治43年)、東京高等師範学校(筑波大学)に入学します。
ここで金栗の一生を左右する人物と出会います。

 

柔道の父、嘉納治五郎(かのうじごろう)です。嘉納は当時東京高等師範学校の校長を務めていました。

 

文武両道を掲げ、スポーツにも積極的に取り組む学校方針を掲げていました。
そのため年に2回マラソン大会を開催しており、金栗は1年生の時に3位になります。1年生としては大健闘ということで、嘉納の目に止まり、大いに評価されました。

 

その経験もあり、金栗は陸上部に進みます。
まさか自分がオリンピックに出るとは想像もしていないでしょうから、ここで陸上部に入っていなければ私たちの金栗四三は存在していなかったはずです。

金栗四三マラソン選手
出典:http://kaigai-matome.net

日本初のオリンピック選手に選ばれる

この頃、嘉納治五郎は国際オリンピック委員会(IOC)の委員に選出されます。そこで日本のオリンピックへの参加を求められます。

 

しかし、オリンピックへの参加は簡単には進みませんでした。IOCの要請に対して日本政府は動かなかったのです。

 

それでも嘉納治五郎は諦めず、予選会の準備と選手の招集に奮闘しました。そうしてようやくオリンピック予選会が開催されるのです。

 

1911年(明治44年)、翌年に開催予定のストックホルムオリンピックに向けた予選会が行われました。

 

その大会で金栗四三は、当時の世界記録を27分も縮めるかたちで優勝しました。(記録2時間32分45秒

 

ただし、今では考えられないことですが、当時は大会によって距離が違っていたので、縮めたといっても同じ距離を走ったうえでのタイムではありません。いずれにしても大記録であり、文句なしで金栗はオリンピック選手に選定されました。

 

この時、金栗はマラソン足袋を履いて走りました。
マラソン足袋といっても、足袋の裏にゴムをくっつけただけの履物です。この時もマラソン中にゴムがはがれるというトラブルもありました。

 

そうです、考えられないことに当時はシューズというものがありませんでした。当時の環境がいかに厳しかったかがわかります。

 

金栗と一緒にオリンピック選手に選ばれたのが三島弥彦(みしまやひこ)です。
東京帝国大学に在籍するエリートでありながら、短距離のトップランナーでした。

 

こうして2人は晴れてオリンピック選手に選ばれますが、2人とも一度は辞退します。

 

今では考えられませんが、政府は補助金を出しませんでした。本当に驚きます。
当時のスポーツへの理解の低さ、おそらく文化というものへの許容がなされない時代であったと想像します。

 

そのため、渡航費などは個人負担であったのです。
飛行機もない時代、地球の裏側に自費で行けと言われてすんなり了承できなかったのでしょう。

 

しかし、嘉納治五郎は2人を必死に説得します。
「黎明の鐘」になって欲しい、そう説得したと言います。2人は了承し、ついに日本初のオリンピック選手が決定します。

 

オリンピックに向けた準備と周囲の支援

金栗には練習だけではなく、オリンピックに向けたたくさんの準備が待っていました。
まずは渡航費です。

 

兄の金栗実次(かなくりさねつぐ)に渡航費用の用意を依頼しました。
渡航費用は1,800円(今でいうと500万円)にも及びました。

 

金栗実次は弟がオリンピック選手に選ばれたことに喜び、用立てを快諾します。

 

また、聞きつけた有志者が寄付金を集め、1,500円もの金額が寄付金でまかなうことができました。

 

それ以外にも様々な準備がありました。
英語の習得もその1つでした。

 

日本選手団監督の大森兵蔵(おおもりひょうぞう)の妻がアメリカ出身者であったことから、英語は大森の妻、安仁子から学びました。

 

また、マラソン足袋の改良も必要でした。
こうして、ようやくストックホルムオリンピックへの出発の日を迎えます。

 

ストックホルムまでの苦難の道のり

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1912年(明治45年)、金栗が20歳の頃にストックホルムオリンピックが開催されます。

 

その道中は予想通り、いや予想以上に大変でした。
飛行機がないため、移動は船と鉄道が基本です。船でウラジオストックまで行き、そこからシベリア鉄道です。移動期間はなんと17日間という長旅でした。

 

この時すでに相当疲労がたまっていたことが容易に想像できます。
睡眠もままならないような窮屈な空間にそれだけいたら、スポーツ選手の体は悲鳴を上げているはずです。

 

また、日本選手団監督の大森兵蔵(おおもりひょうぞう)は肺結核を患っていましたが、ストックホルムに着くと悪化してしまいました。

 

練習の監督ができないのはもちろん、金栗は看病の手伝いをしなければならないような状態でした。

 

オリンピックへの参加が初めての日本は、プラカードなどに記載する国の表記について運営側から問い合わせが入りました。

 

コーチの大森は「JAPAN」が良いだろうと言いましたが、金森はイギリスがつけた呼び方なのでそれは違う、「日本」と記載するべきであると主張します。

 

最終的にはNIPPON嘉納が間に入り、「NIPPON」の表記としました。
その後の次回以降の大会では「JAPAN」となっています。

 

金栗四三の日本人としての強い誇りを感じるエピソードです。

 

途中棄権で終わったストックホルムオリンピック

オリンピックの舞台に初めて日の丸が掲げられたストックホルムオリンピックは、こうしてようやく開催にこぎつくことができました。

 

金栗のレース結果はというと、26キロすぎに日射病となって倒れ、気を失ってしまいました。通りがかりの人が気づき、近くの農家で看病を受けます。起きたのは翌朝で、金栗は途中棄権という結果で終わりました。

 

いくつかの要因がこの結果を招きましたが、最大の要因は体調管理にありました。
スウェーデンにはお米がなく、持っていくことも輸送することもできませんでした。十分な栄養状態で臨むことができず、また白夜であったために睡眠障害を起こし、当日も睡眠不足のままの参加となりました。

 

他にも様々段取りができておらず、レース当日に迎えにくる予定だった車が来ないというアクシデントもあり、金栗は走ってマラソンのスタート地点まで行かなければならなかったのです。

 

また、当時の大会は今とは違って健康管理や安全面などへの配慮が乏しい状態でした。当日は40度という猛暑で、参加者68名中半数が棄権するという、あまりに過酷なレースでした。ポルトガルの選手の1人は死亡したというから想像を絶します。このような環境ですから、金栗が倒れるのも無理はありませんでした。

 

一緒に参加した三島弥彦ですが、100メートルと200メートルは一次予選敗退、400メートル体力の限界で途中棄権しました。100メートルと200メートルについては自己新記録というベストな走りをしたにも関わらずです。

 

日本初のオリンピックは世界の厳しさを感じさせる結果となりました。
金栗は結果を残せなかったことに大きく落胆したといいます。

 

しかし、嘉納治五郎はこの大会における成果や意義の大きさを誰よりも感じており、金栗を大いに励ましたのです。

 

また、選手団の監督を務めた大森兵蔵は肺結核の容体は回復せず、日本の地を踏むことはありませんでした。

 

次回のベルリンオリンピックに向けた猛練習

金栗四三の写真
出典:wikipedia

金栗には試合直後の落胆はありませんでした。反省することはして、次回のオリンピックに向けて切り替えました。

 

帰国すると一層練習に励みます。
当時の日本ではあまりなかった舗装した道路を見つけると走り込みをしたり、猛暑を想定した練習なども行うようにしました。

 

ストックホルムでは平常心で臨むことができませんでした。それは文化や環境の違いについていけなかったことが大きかったです。

 

そのため、次回のベルリンオリンピックに向けて、ドイツ語の習得や洋食への慣れ、またベッドで寝ることに慣れるようにもしました。金栗はストックホルムへの雪辱を晴らすべく努力を続けたのです。

 

しかし、ベルリンオリンピックが開催されることはありませんでした。
1912年(明治45年)に予定していたベルリンオリンピックは第一次世界大戦のために中止となったのです。

 

金栗が失意した姿が浮かぶようです。それだけ準備してきたのです。金栗はオリンピックの準備に集中するために、教職に就くことを見送り、すべて懸けてきたのです。
残酷すぎると感じるのは私だけでしょうか。

 

教員となる金栗四三

進む道に悩んでいた金栗は嘉納治五郎に相談します。
嘉納は教員として仕事をしながら練習することを薦めました。

 

その申し出を了承した金栗は、鎌倉にある神奈川師範学校で教員を始めました。

 

神奈川師範学校に勤めた期間は一年で、その後独逸(ドイツ)協会中学に5年ほど勤務しました。

 

その間、マラソンの練習とスポーツ振興の活動も精力的に行いました
1917年(大正6年)東海道駅伝徒歩競走の開催に尽力します。京都の三条河原から東京までの約508キロの駅伝で、金栗本人も関東組のアンカーとしては知りました。

 

金栗四三と箱根駅伝

1920年(大正9年)、第1回箱根駅伝が開催されます。東京箱根間往復大学駅伝競走と言います。

 

そうです、金栗は箱根駅伝の創設者の一人だったのです。
金栗と私たちの関係で一番深いのがこの箱根駅伝ではないでしょうか。

 

第一回大会は東京高等師範学校が優勝しました。
このときの参加校は他に早稲田大学、慶応大学、明治大学と4校でした。その後参加する大学も増えて、今では誰もが知っている駅伝大会となりました。

 

ベルギーアントワープオリンピックに参加

1920年(大正9年)のアントワープオリンピックが開催され、金栗は二度目のオリンピック参加を果たしました。この時30歳です。

 

日本としても二度目のオリンピックです。
一度目の金栗の経験は大きな財産となっていました。ストックホルムでの経験を伝達し、文化や環境の変化に対応して、快適に平常心で参加できるように貢献しました。

 

その成果もあって、この大会では日本初のメダリストが誕生しました。
男子テニスの熊谷一弥選手と柏尾誠一郎選手です。

 

金栗の結果は16位でした。
一時5位まで上がりましたが、足の痛みが発生して順位を下げる結果となりました。

 

女子のスポーツ振興に尽力する

金栗としては初めて完走したアントワープオリンピックでしたが、もう1つ大きな影響を受けたことがありました。

 

それはオリンピックでの女子の活躍でした。
当時の日本では女性がスポーツすること自体に消極的でした。教育などもそうですね、以前は女性が大学に進学することは珍しかったのは有名ですね。

 

アントワープオリンピックを通して、金栗は女性のスポーツへの参加を積極的にするべきだという意思が芽生えました

 

そのことを嘉納治五郎に相談したところ、東京女子師範への赴任を提案され、金栗は東京女子師範で教鞭に立つことになりました。

 

金栗が特に力を入れたのがテニスでした。金栗は日本における女子テニスの種をまき、育てる役割を果たしました

 

3度目のパリオリンピック

1924年(大正13年)にはパリオリンピックが開催されました。金栗は三度目の参加をします。

 

金栗はピークを過ぎていましたが、周囲に背中を押されるかたちで予選会に参加しました。
しかし、予選会で若い選手の成績が振るわず、金栗が優勝することとなりました。

 

このようなかたちでオリンピックへの切符を手にした金栗ですが、結果としては途中棄権というかたちで終わります。この時も猛暑の中でのレースとなり、30キロのところで棄権しました。

 

このように、金栗のオリンピックが幕を閉じました。
満足できる結果ではありませんでしたが、金栗が残した足跡の大きさは計り知れません

 

スポーツ振興と幻の東京オリンピック

1928年(昭和3年)に開催されたアムステルダムオリンピックでは、金栗の意志を受け継ぐかたちで、日本のマラソン初の入賞(4位と6位)を果たします。

 

その後金栗は東京女子師範を退職して地元熊本に帰省します。
地元のスポーツ振興に貢献しながらゆっくりとした時間を過ごしました。

 

そんな中、恩師嘉納治五郎から声がかかります。
昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催が決定し、その準備を手伝って欲しいという要請でした。金栗はその準備のために上京することになります。

 

しかし、戦争は激化の一途で、開催に対する反対の声も大きくなってきました。
ただそこは嘉納治五郎の存在が大きく、何とか開催することが決定された直後、嘉納が急死するのです。嘉納のように陣頭指揮をとる人物もおらず、結果的に開催は見送られました。

 

金栗としてはつらい出来事だったことが想像できます。
人生の希望、懸けてきたそのものがオリンピックです。そのオリンピックが東京で開催される、それに携われると思っていたのに中止となり、そして最大の恩人嘉納治五郎を亡くしたのです。

 

金栗四三、再びストックホルムの地に

金栗四三ストックホルムにて
出典:xinhuanet.com

1967年(昭和42年)、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念して式典が開かれました。金栗はその式典に招待されました。

 

ストックホルムオリンピックでは途中棄権した金栗ですが、棄権の意思が運営側に伝わっておらず、記録としては行方不明者とされていたのです。

 

そこで改めて金栗にゴールテープを切ってもらおうと、式典で催されました。
そしてゆっくりとした足取りでゴールした金栗。この時76歳です。

 

会場ではこうアナウンスが流れました。

「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」

 

オリンピック史上、一番遅いタイムとして記録されています。

 

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

金栗はそうコメントしました。

 

1983年(昭和58年)に金栗は92歳で亡くなりました。

 

金栗四三の名言

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金栗は偉大な名言も残しています。

「体力、気力、努力」

金栗の生き方がつまった言葉です。

 

順番に意味があるのでしょうか。
やはりまず健康な体、体力を維持し、気力を十分に持って、精一杯の努力を継続する。

 

スポーツ選手だけではなく、全員が見本にするべき指針ですね。

 

マラソンの発展に寄与!金栗四三杯も

現役を引退してからは、金栗は国際大会の監督などを務めます。
現役時代、そして引退後のマラソンへの貢献もあり、マラソンの父と呼ばれます。

 

その功績を称して、箱根駅伝や富士登山駅伝では最優秀選手に「金栗四三杯」が贈られます。金栗翁マラソン大会など、金栗の名前を冠にした大会も開催されています。

 

また、金栗は現役時代シューズに悩まされてきました。足袋をもとに、自分で試行錯誤しながら走ってきました。そんな経験から、金栗は日本初のランニングシューズの開発にも携わっています。「カナグリシューズ」と命名されました。

 

グリコマークは金栗四三?

金栗は、大阪の道頓堀で有名なグリコのマークのモデルになっています。

ただし、金栗だけがモデルになったわけではありません。金栗も含め、国内外複数のランナーをモデルにしているというのが事実のようです。

 

金栗四三の妻と子孫

金栗四三の晩年
出典:city.tamana.lg.jp

金栗は23歳の時に同郷の春野スヤと結婚しています。
ストックホルムオリンピックに参加したのが20歳の時ですから、次のベルリンオリンピックに向けて練習に励んでいた時期です。

 

金栗本人も8人兄弟の7番目として育ちましたが、金栗とスヤの間にも6人の子供に恵まれました。また、長生きしたのもありますが、10人の孫の誕生を見届けています。

 

金栗は初のオリンピック選手など、スポーツの実績者として有名人ですが、子供たち子孫は一般人ですので、子孫がどのような人生を送ったのかまでは記録が見つかりません。

 

ただ、金栗のひ孫にあたる、蔵土義明(くらどよしあき)さんの名前は知られています。

 

ストックオリンピックから100年後の2012年、蔵土さんと熊本県玉名市市長がストックホルムに招待を受けました。ストックホルムオリンピック開催から100周年の記念イベントが開催されたのです。

 

その際蔵土さんは金栗が走ったコースを走り、そして見事完走したのです。
もちろんマラソンランナーではありませんので、選手のような記録ではありませんが、しっかり完走する走力があるのはさすがですね。

 

そして、蔵土さんはレース中に倒れた金栗を看病してくれた農家のペトレさんの元に訪れてお礼をしました。相手もペトレさんのひ孫であり、お互いの先祖の関係や意志を引き継ぎました。素敵なエピソードですね。

 

大河ドラマ「いだてん」の金栗四三役は中村勘九郎さん

いだてんの金栗四三は中村勘九郎
出典:city.tamana.lg.jp

2019年の大河ドラマ「いだてん」の主人公であり、金栗四三役を務めるのは中村勘九郎さんです。

 

中村勘九郎さんは過去に新選組に出演しており、大河ドラマは二度目です。
2018年4月から撮影が開始されており、着々と作品が進んでいるのではないでしょうか。楽しみですね!

 

最後に

ストックホルムオリンピックの時に、嘉納治五郎が金栗を説得した「黎明の鐘」という言葉。文字通り金栗四三は黎明の鐘を鳴らし、その後の日本のマラソン界、女子スポーツ界、スポーツ界全体に多大な功績を残しました。

 

もちろん私は金栗を見たことがないので想像でしかありませんが、俗に言う「スポーツマン」とは金栗のような人を指すように感じます。ストックホルムオリンピックの時に看病を受けた農家のペトレさんとは、帰国後も手紙でのやり取りがあったと言います。

 

その実直な人柄そのものがマラソン関係者、学校の教え子などに確かな影響を与え、心身共に健康な人を育てることに貢献したのではないでしょうか。

 

また、金栗の生涯をたどると感じるのが戦争の影響の大きさです。
大河ドラマいだてんは1912年のベルリンオリンピック、1940年の見送られた東京オリンピックも舞台になっています。

 

金栗が絶頂であったであろう24歳の頃に開催される予定であったベルリンオリンピック、もし開催されていたとしたら金栗のレースはどうだったのだろうか、金栗本人の無念さはどれほどだったのだろうか、書きながらも歯を食いしばってしまいます。

 

私はこれからいだてんに登場する人物を書く度に、そして大河ドラマいだてんを見ながら、戦争の残酷さを感じるのだろうと思います。

 

2020年、ふたたび開催される東京オリンピック。東京に住む一人として、自分は何かできることはないかを考えさせる機会となるドラマでもあるように感じます。

 

晩年の金栗の笑顔からは、全力で生き抜いた清々しさを感じます。生き様を表現したような笑顔が本当に素敵です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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