金栗四三の妻、それが春野スヤ(はるのすや)です。
日本初のオリンピック出場、その後も2回の出場に箱根駅伝の創設や、日本スポーツ界の振興と、日本の近代スポーツの黎明期を切り開いた男、それが夫である金栗四三です。
そんな偉大な夫を支え続けた春野スヤ。
その生涯をたどると、女性らしさ、優しさ、強さ、そして何よりも金栗四三への愛を感じます。素敵な女性です。
大河ドラマいだてんでは、女優の綾瀬はるかさんが演じられます。
今回は春野スヤの生涯をたどりながら、その生き方を学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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金栗四三と春野スヤ(はるのすや)の出会い
春野スヤは、金栗と同郷で、熊本の医者の娘として生まれました。
大河ドラマいだてんでは、幼馴染として描かれています。
実際は金栗とはお見合いで出会ったので、幼馴染というのはドラマのようですね。
出典:oricon.co.jp
金栗とスヤの出会いは、金栗四三の叔母のである、池部幾江(いけべいくえ)がきっかけでした。
関連記事:池部幾江はどんな人物?金栗四三の養母|いだてんでは大竹しのぶさん
池部家に嫁いだ叔母ですが、早くに夫を亡くし、子供もいなかったために、池部家を継ぐ養子を欲しがっていました。そこで幾江が目をつけたのが四三でした。
幾江は四三の兄、金栗実次に四三を養子に欲しいと頼み込みます。
実次は一度は断りましたが、四三にその申し出を伝えると、意外にも四三は了承しました。ただし、熊本に帰らずに東京にいてもいいならという条件でした。
池部幾江は喜び、続いて四三の妻となる相手を探すのです。そして幾江が相手として見つけたのが春野スヤでした。
スヤは四三の1つ年下で、四三の兄実次もすぐに気に入るほどの女性でした。
こうなるとこの時代は早いです。早速見合いの段取りが始まりました。
金栗四三の生涯を詳しくまとめていますので参考にして下さい。
関連記事:金栗四三のマラソンに捧げた生涯!箱根駅伝創設者!年表や名言、子孫は
見合いの翌日に結婚?
その頃金栗四三は、初めてのオリンピック(ストックホルム)を終え、東京高等師範学校を卒業した頃でした。
途中棄権に終わったストックホルムの雪辱に燃え、次のベルリンオリンピックに向けて練習に励んでいました。
そんな四三とスヤは、熊本で見合いすることになりました。四三23歳、スヤ22歳の時です。
見合いを終え、結婚したのはその翌日だったようですので、当時のスピード感凄いですよね...
昔は祝言(しゅうげん)と呼びましたよね。今とは風習が違うのは当たり前ですが、四三とスヤは意気投合したのかもしれません。出会った時から気の合う仲だったのでしょうね。
養子と結婚はマラソンランナー金栗四三にとって吉だった
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池部家への養子、そして結婚と四三にとって大きな出来事が続きますが、四三にとってはかなり大きな意味を持ちました。
実は池部家は大地主で、立派な資産家でした。
四三は23歳、本来であれば就職する年齢です。
しかし、マラソンに専念したい四三は研究科に進みました。そのようなことができたのも、池部家が裕福であったことも要因でした。
新婚して5年は別居生活
スヤは、四三のマラソンへの情熱を理解していました。あくまで四三を応援する、支える覚悟がありました。
四三は結婚して数日で東京に戻り、練習を再開します。
そうです、四三とスヤには新婚生活はなく、別居だったのです。その別居生活は5年も続き、時々スヤが上京して会う程度であったそうです。
四三にとって二度目のオリンピック(アントワープ)に出発の時、準備を手伝おうと上京したスヤですが、四三は気が散るという理由でスヤを熊本に追い返しています。
四三の覚悟やマラソンに集中したい気持ちもわかりますが、さすがにスヤはがっかりしたのではないでしょうか^^;
決して遊びに来たわけではないですよね、四三を励ましたい、少しでも役に立ちたいという気持ちだったはずです。
ようやく始まった同棲生活
四三とスヤが同棲生活したのは、アントワープオリンピックの後でした。
四三は、アントワープオリンピックで女性が活躍する姿を見て、日本にも女子スポーツを根付かせたいという気持ちがありました。東京女子師範学校の教員となります。
四三はそこで特に女子テニスの普及に努めました。四三はマラソンだけではなく、日本における女子スポーツの振興にも多大なる貢献をしました。
また、四三はアントワープオリンピックでは16位という結果で終わりました。レース中に足を痛めたことも原因でした。
一回目のストックホルムでは途中棄権でしたので、大きな進歩でしたが、その結果に四三は心身ともにかなりきつかったのではないか、勝手ですがそんな風に想像します。重責を背負っての出場だったはずです。
超人的な精神力を持つ四三も、さすがにスヤの支えを必要としたのではないでしょうか。
その後もスヤはマラソンなランナー金栗四三を支え続けました。
春野スヤの強さと人柄がわかるエピソード
(左からスヤ、後ろがスヤの弟、四三、中央母イクエ)
出典:city.tamana.lg.jp
ある時、金栗四三は校長とそりが合わず、東京女子師範学校を退職します。
校長がスポーツに消極的だったようです。
そんな頃、四三が39歳の時、兄の実次が亡くなりました。
実次は四三が子供の頃から親代わりとして面倒を見てもらい、オリンピックに出場するときの渡航費の工面など、四三にとっては大恩人です。
関連記事:金栗実次(さねつぐ)~四三との兄弟愛に感動!いだてんは中村獅童さん
四三はスヤと熊本に帰ることにしました。
養母の池部幾江とスヤと暮らすようになります。
そんな折、四三は知人から農園経営を薦められました。
そのことをスヤに話すと、スヤは四三を叱ったと言います。あなたの務めはマラソンではなかったのか、マラソンに捧げるのがあなたの人生ではなかったのかと。
2人のエピソードをもう1つ。
昭和15年(1940年)、東京オリンピック開催が決定しました。招致に一番積極的で、影響を及ぼしたのが、四三の大恩人嘉納治五郎でした。
関連記事:【柔道の父】嘉納治五郎の偉大さ!名言や子孫は?熱い生き様と死に様
柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎は、四三がマラソンを始めるきっかけを与え、そしてオリンピック出場や教員になる紹介など、四三の生涯に欠かせない存在でした。
そんな嘉納より、オリンピック開催に向けて手伝って欲しいと四三に協力要請があったのです。
スヤは子供たちの心配はいらないので、上京して手伝ってくるよう四三に背中を押したそうです。
2人の間には6人の子供がいました。なかなか言えることではないかもしれませんね。
最後に
春野スヤの人生の一部をご紹介させていただきましたが、時には金栗四三と同じ夢を見て、時には金栗四三と同じ責任を果たそうとする。そんな生き方だったのではないか、そう感じます。
大河ドラマいだてんでは、綾瀬はるかさんが演じられます。
綾瀬はるかさんは誰もが認める大女優で、言うまでもなく数々の作品に出演されてきました。
「八重の桜」では初の大河ドラマにも関わらず、主役新島八重役を見事に演じきりましたよね。
そんな綾瀬はるかさんが春野スヤをどう演じられるのか、今から楽しみですね!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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