吉村虎太郎(よしむらとらたろう)
尊王攘夷を思想にとどめずに真っ先に行動に移し、明治維新の実現に大きな影響を及ぼした男です。

 

今回は吉村虎太郎の生涯をたどりながら、その生き方について学んでいきたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さい。

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吉村虎太郎(寅太郎)、土佐藩で生まれる

吉村虎太郎(よしむらとらたろう)は天保8年(西暦1837年)に土佐藩に生まれました。
虎太郎は「寅太郎」と書かれることも多いですね。

庄屋の家柄で、12歳という若さで家督を継ぎました。
同郷の間崎哲馬や武市半平太の教えを受け、尊王攘夷の志を持つようになります。

 

ある時、職場で呼び捨てにされたということから訴状を出したというエピソードが残っています。

 

自分にとって大切にしている精神、人間としての在り方のようなモノをしっかり持っており、その精神を決して曲げない人物であったことが想像できますね。

 

武市半平太の土佐勤王党に加入

1861年、武市半平太が土佐勤王党を結成すると吉村も加わり、尊王攘夷の志士活動が活発になっていきます。

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翌年、武市の命によって長州の久坂玄瑞に武市の手紙を届けに行くなどして見聞を広めます。

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長州藩に行ったあと、筑前国に渡り平野国臣に出会います。
平野らから薩摩藩の島津久光が上京して挙兵すること、この挙兵に合わせて浪士らが集結して共に挙兵することを聞きます。

 

計画に大いに賛同した吉村は土佐に戻ると、土佐勤王党も脱藩して挙兵することを武市半平太に提案します。

 

武市はあくまで藩を動かすこと、藩ありきの考えですので賛成せず、吉村の脱藩を止めました。

 

しかし吉村の意志は固く止まりません。
脱藩を決めます。
その後土佐藩からは、坂本龍馬や中岡慎太郎など多くの脱藩者が出ましたが、吉村が1人目です。

 

尊王攘夷の志士として活躍

吉村虎太郎、吉村寅太郎
出典:wikipedia

脱藩した吉村虎太郎は長州に渡り、その後挙兵するために京に向かいます。

 

平野国臣、真木保臣、清河八郎ら挙兵計画の中心メンバーらも準備していました。

 

しかしここで計画の根底をくつがえすことが発覚します。
挙兵のために上京してきたと思われていた薩摩藩の島津久光ですが、実は公武合体派であり、決して挙兵するつもりなどなかったのです。

 

この事実を知ってもなお止まらず、行動にうつしたのが寺田屋事件です。
吉村も参加しており、薩摩藩に捕えられ、その後土佐藩に引き渡されました。

 

まだこの頃攘夷派に厳しい情勢ではなかったことが幸いして、8ヶ月ほどで釈放されます。

 

吉村は再び攘夷活動にうつります。
この頃攘夷の気運が高まっており、ついに朝廷は幕府に攘夷決行の命が出されました。

 

また、長州藩が暴発するようなかたちで関門海峡を渡る外国船を襲撃します。
この時、公家の中山忠光も参加していましたが、これは吉村らの動きによるものであったそうです。

 

その後吉村は長州藩毛利慶親に謁見して上京を説得しているようですから凄いです。
当時の藩主と言えば武士からすると神様のような存在なはずです。

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それだけ尊王攘夷の志士たちの動きが活発であり、力を持っていたことがわかりますね。

 

天誅組の結成

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攘夷の熱は高まり、大和行幸の詔が出されました。
しかしそれは長州藩や真木保臣などが動き、三条実美を中心とした尊王攘夷派の公卿による画策でした。

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この詔を聞いた吉村虎太郎は、先鋒隊として挙兵することを決意します。
それが「天誅組」です。

 

公家の中山忠光を大将とし、松本圭堂、藤本鉄石、吉村虎太郎が総裁につきました。

 

吉村虎太郎ら天誅組は早速行動します。
1863年8月17日、討幕の兵を挙げるのです。

 

お聞きしたことがある方も多いと思いますが、翌日には八月十八日の政変が起こるのです。
皮肉すぎますよね。

 

いくら攘夷派が台頭してきたとはいえ、現政権を握るのは幕府であり、公武合体派です。

 

政局は一変します。
三条実美ら尊王攘夷派の公家は京都から追放され、長州を始め尊王攘夷の志士たちも撤退せざる負えない状態となりました。

 

天誅組の壊滅と吉村虎太郎の最期

挙兵の大義であった大和行幸の詔は当然無効となり、天誅組は孤立することになります。
コブシを下げることもできない状態だったのではないでしょうか。

 

もちろん幕府は天誅組に追い打ちをかけます。
吉村ら天誅組は兵をかき集め、奈良の十津川郷士を中心に1000人以上の隊となります。

 

天誅組は大和国内の高取藩に兵糧を出すように伝えますが、高取藩はこれを固辞します。
天誅組は戦うことを選びます。

 

吉村らはもともと脱藩浪士の集まりですから、ある意味戻る場所もなかったのではないでしょうか。
よほど追い詰められていたことが想像できますね。

 

高取藩は小さい藩ながらも銃を完備しており、人数は多いとはいえ寄せ集めの隊である吉村らはこの戦いに敗れます。

 

それでも吉村は止まりません。
決死隊を組み、襲撃しますが失敗し、吉村自身負傷して撤退を余儀なくします。

 

天誅組はつまりは逆賊になったわけです。
時間が経過するにつれ幕府の手がまわり、諸藩の攻撃によって壊滅することになります。

 

吉村も最期は包囲され、射殺されました。

満26歳の生涯でした。

 

土佐四天王と称される吉村虎太郎

吉村虎太郎は土佐四天王と呼ばれる1人に数えられます。

吉村と坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎が四天王とされます。

それは明治24年(1881年)に、明治政府からこの4人に正四位の位が贈られたことで四天王と呼ばれるようになりました。

 

吉村虎太郎の辞世の句

吉村虎太郎は辞世の句を詠んでいます。

「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

 

最後に

尊王攘夷という思想が生まれ、広まり、志す者たちが現れます。
志士たちの心に灯がつき始めたとき、そこに吉村虎太郎という男が人一倍大きな炎を持って、特攻隊長のような役割を果たしました。

 

私が調べる限り、吉村が何かを成功させたわけではないように感じます。
むしろ失敗ばかりですし、「えっ?」、「おいおい」と感じる行動もあるのではないでしょうか。

 

しかし、吉村の行動は決して無駄ではなかったことは歴史が証明しています。

 

吉村の意志を受け継ぐ志士が次から次に生まれ、そして明治維新は起こります。
まぎれもなく偉大な立役者、それが吉村虎太郎です。

 

「自分は吉村のように自分の信じた道を信じ、真っ直ぐに行動できているだろうか?」

 

自分の胸に手を当てながら生きていきたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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