溝淵広之丞(みぞぶちひろのじょう)。
明治維新に貢献した土佐藩士です。
坂本龍馬の理解者、兄貴分のような存在であり、龍馬はもちろん土佐藩にも大きな影響を与えた男です。

 

今回は溝淵広之丞の生涯をたどりながら、その生き方を学んでいきたいと思います。
どうぞお付き合い下さい。

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溝淵広之丞(みぞぶちひろのじょう)土佐藩に生まれる

溝淵広之丞(みぞぶちひろのじょう)は1828年に土佐藩に生まれました。
坂本龍馬が生まれたのが1836年ですので、8歳年上ということですね。

 

幼い頃の記録を辿れませんでしたが、子供の頃から龍馬とは親しかった間柄だったようです。

 

8歳も違いますからね。
家族同士での関係があったのかもしれません。

 

坂本龍馬の生涯についてはこちらに詳しくまとめていますのでぜひご覧ください。

関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで

 

江戸の千葉道場に入門する

溝淵広之丞は1853年、25歳の頃に江戸の千葉道場に入門します。

 

諸説ありますが、龍馬が江戸に出る時に一緒に出発したのが溝淵だったと言われています。

 

江戸の三大道場と言われた千葉道場に入門するほどですので、溝淵の剣の腕前は相当であったことが想像できますね。

 

溝淵が江戸で励んだのは剣術だけではありませんでした。
当時日本で有数の知識人であった、佐久間象山の塾で砲術を学びます。

関連記事:佐久間象山という幕末の天才-暗殺されたの?名言や子孫は?

 

そして坂本龍馬に佐久間象山を紹介したのが溝淵だったと言われています。
そう長い期間ではなかったでしょうが、龍馬が佐久間象山から得た影響は小さくなかったはずです。

 

長崎に出張・龍馬との再会

溝淵広之丞は長崎で龍馬と再会します。
こう書くと2人は近い距離で生きてきたように感じますがまったくそんなことはありません。

 

この頃龍馬は薩長同盟を実現させた男として、浪人ながら有名人になっていました。

 

一方、溝淵広之丞はあくまで土佐藩士です。
脱藩して浪人して生きてきた龍馬とは全然違う生き方をしてきたことがわかりますね。

 

長崎に来たのも砲術や洋学を学ぶためです。
土佐藩士として長州の桂小五郎などとも交流があったようです。

関連記事:逃げの小五郎の3つの真意と桂小五郎(木戸孝允)の名言に学ぶ

 

龍馬は薩摩藩の援助を受けて亀山社中を結成しており、長崎が拠点でした。
商社として、そして倒幕のための役割として活動していたことはご存じのとおりです。

 

海援隊結成のための調整役となる

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長崎で龍馬、土佐藩の運命が変わるような出来事が起こります。
この調整役を買って出たのが溝淵広之丞でした。

 

当時薩長の勢いが大きく、土佐藩は雄藩と呼ばれていたものの時勢に遅れていた感がありました。

 

そこで土佐藩は脱藩者ながら大きく活躍する龍馬と近づきたいという思惑があったのです。
もちろん土佐藩全体ではありません。脱藩という武士として許されない罪を犯したわけですから、ほとんどが認めていたわけではないはずです。

 

若くして土佐藩の参政として活躍していた後藤象二郎が龍馬に目をつけたのです。

関連記事:後藤象二郎は子孫までも破天荒?龍馬伝でも魅せた男らしさ

 

一方、坂本龍馬としても困っていたことがありました。
亀山社中の財政です。商売していたとはいえ、薩摩藩から援助してもらいながらです。
肩身の狭い思いもしていたんだと思います。

 

しっかり独立したい、関係を持つとしても薩摩藩よりは故郷の土佐藩の方が良いですよね。
純粋に故郷と関わりたいという気持ちもあったかもしれません。

 

しかし土佐出身の志士からすると、後藤象二郎は絶対許しがたい人物でした。
土佐のリーダー武市半平太を死に追いやった張本人だからです。

関連記事:土佐勤王党武市半平太の強烈なリーダーシップと驚きの切腹法

 

この両者の思惑と感情を調整する役割を果たしたのが溝淵広之丞でした。
龍馬と後藤を仲介したのです。

 

会談の場所は長崎清風亭。
この会談を通して、亀山社中は土佐藩を海から助けるという意味合いの「海援隊」が生まれたのです。

 

早い段階で隠棲した溝淵広之丞

溝淵広之丞は土佐藩の持筒役となり、これまで学んだ砲術を指導しました。
明治維新が成った後は、早い段階で隠棲します。

 

そして溝淵は明治40年まで生き、81歳で亡くなりました。
時としてはかなり長生きしたことになります。

 

溝淵広之丞はなぜ早くに隠棲したのか。
龍馬を含めた多くの仲間が命を落とした時代です。

 

今の時代を生きる私たちでは想像できない人生観があったのでしょう。

 

私はこの記事を書くまで溝淵広之丞という男が、ここまで大きな影響を与えた人物とは実感していませんでした。

 

もちろん名前は知っていましたが、人物を当時者としてとらえると、見えないものが見えてくるということを改めて知らされました。

 

個人的には、隠棲後にもっともっと龍馬や当時の人物のことを大いに語り、記録に残して欲しかったと思ってしまいます。

 

でもなんとなくですが、溝淵広之丞は多くを語らない男であったように感じます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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