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佐久間象山、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬の先生というとわかりやすいでしょうか。

これだけの弟子をもつ佐久間象山、当然ながら波乱万丈な人生でした。
今回はそんな佐久間象山の生涯をご紹介いたします。


出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/42/Sakuma_Shozan.jpg/800px-Sakuma_Shozan.jpg

天才思想家佐久間象山の誕生から暗殺まで

思想家、兵学者の佐久間象山は1811年に松代藩に誕生します。
大河ドラマ真田丸でも演じられました真田信之が松代藩の始まりです。

 

父の一学は非常に学問も剣術も優秀であったと言われています。
象山は父と似て武道も学問も良くできる少年時代を過ごします。170cmを超す身長であり、立派な体格も持っていました。

 

14歳の頃、藩主である真田幸貫にその才能を見い出され、活躍の場を広げていきます。
しかし、猛烈な自信家で 藩主の指示にも従わないところがあり、自宅謹慎を命ぜられます。

 

それでも自分の非を認めなかったとのことなので、当時としては相当目立つ振る舞いをしていたことが想像できます。

 

23歳 江戸に遊学します。
儒教、朱子学、陽明学などを学びますが、どの学問も吸収してその秀でた才能は江戸でも認められることになります。

29歳私塾「象山書院」を開き儒学を教えていました。

 

藩主幸貫が幕府の老中に就任し、日本の海上防衛を任されることになります。象山は幸貫からこの海上防衛の担当者を命ぜられます。

一度は象山を自宅謹慎にした幸貫ですが、象山の才能を高く評価していました。

 

象山は塾を閉じ、蘭学や兵学など西洋学を学び始めます。
その習熟スピードは速く、日本随一の西洋学者と称されるまでになります。

 

同時に、海軍を持つことや教育制度についてなど様々な提案をしています。
こういった象山の想いや提言は後々明治に入り実現されていくことになります。

 

36歳の頃藩に戻るよう命ぜられ、藩の改革のために働きます。
その頃大砲の鋳造にも着手しています。

 

しかし、象山としては江戸で勉強したいという気持ちが強く、ずっと江戸行きを希望していました。

 

41歳にまた江戸行きが承認され、私塾「五月堂」を開き兵学を教えます。
この塾で吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬などと出会い、後に日本に大きな影響を与えることとなります。

 

吉田松陰についてはこちらでご紹介していますので参考にして下さい。
吉田松陰とは-松下村塾と弟子たち、墓所もご紹介

 

この頃には象山は全国でもきっての知識者であることが認められ、ペリー来航時には藩から軍議役を命ぜられます。
ペリーにも会い、「急務十条」という報告書を提出しています。

 

その後弟子の吉田松陰が密航しようとしたことに関係していると咎められ、牢屋に入れられ、その後藩に帰されてしまいます。

 

蟄居は1862年まで続きます。
1864年に一橋慶喜(徳川慶喜)より上洛を命ぜられます。そこで象山は開国して公武合体論を提案します。

 

京にいる有力者に次々と説いていきます。
しかしその活動が命取りとなります。
池田屋事件のまもなくの頃で、潜伏していた攘夷派に命を狙われることになります。

 

象山は護衛をつけないばかりか洋装し、馬にまたがって1人で行動していました。
幕末四大人斬りのひとり河上彦斎(かわかみげんさい)と浪人の松浦虎太郎(まつうらとらたろう)によって殺害されます。53歳の生涯でした。

 

 

佐久間象山の名言

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「人々が何を言おうと、怖(お)じることなく、心中はいつもやすらかです。これも今までの修行の成果でありましょう。」
引用:http://medicines.aquaorbis.net/meigen/nippon/ishin-j/sakuma-syouzan

自分を天才と称する自信家である象山ですが、そこまで至る努力をしていたのだろうと思わせる言葉です。

 

 

「学問は日々積み重ねられなければならない。一朝一夕で成るものではないことを肝に銘じるべし。」

引用:http://medicines.aquaorbis.net/meigen/nippon/ishin-j/sakuma-syouzan

 

こちらも努力人であったことを知れる言葉ですね。

 

 

「書を読んで知識をため込むだけでは駄目である。実際にやってみなければ役に立たない。それがサイエンスだ。」
引用:https://rekishi-style.com/archives/2683

この行動を重んじるという思想が松陰に受け継がれることになります。

 

佐久間象山の子孫

象山には1人子がいました。
妾であるお蝶との間に生まれた子で、佐久間恪二郎(さくま かくじろう)後に三浦啓之助(みうらけいのすけ)

 

父である象山が暗殺され、その仇討をするために新選組に入隊します。
しかしその想いは果たされず、最後は脱走することになります。

 

明治に入ってからは司法省に入るがもめ事を起こして辞めています。
31歳に食中毒で亡くなりました。
子はいないので象山の血筋としては途絶えたことになります。

 

 

まとめ

吉田松陰や勝海舟に知識を与えたということを考えると、明治維新の基礎を思想した人物といっても過言ではありません。

 

一方で、自身が非常に優秀であったことから、周囲を盛り立てたり、評価したりすることが苦手で、嫌われるような振る舞いが多かったと言われています。暗殺後に家督が断絶していることでも想像できます。

 

やはり人徳や人間性がないといくら優秀でも評価されない、魅力がないということでしょうか。

 

ただ、その努力を重ねた知識を持って、新しい時代のために断固提言し、その行動や生き様は明治維新の立役者であったということはまぎれもありません。

最後まで読んでいただきありがとうございました!(^^)

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