田畑政治(たばたまさじ)。
日本に水泳を普及させ、東京オリンピックを招致させるという、日本中の悲願とも言える偉業を実現させた男です。

 

大河ドラマ「いだてん」の後半の主役が田畑政治(たばたまさじ)です。
配役は阿部サダヲさん。

 

2020年、56年ぶりの東京オリンピックを目前にして、「田畑政治」が再び大きく注目されています。

 

前回の東京オリンピックは56年前ですので、どんなに記憶力がある人でも、60歳以上の方でなければ知りませんよね。

 

私は30代半ばですが、東京オリンピックと言えば、「高度経済成長をする日本の象徴」、「戦後という時代から、先進国としての歩みを始めた証」、「日本中がひとつにまとまった世紀の大イベント」、、、そんなイメージはありますが、その裏ではどんなことが起こっていたのか、どのような苦労があったのかなどは知りませんでした。

 

田畑政治の生涯をたどることで、東京オリンピックの招致が達成されるまでの道、戦争の影響や残酷さ、スポーツの力、そして一人の熱意や行動の偉大さを深く感じます

 

この記事も、田畑政治という一人の男の生き様に感動を覚え、心が熱くなる気持ちを抑えながら書かせていただいています(^^)

 

ぜひ最後までお付き合いいただき、田畑政治の生き方から学び、明日からの生活に少しでも活かしてもらえると嬉しいです。

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田畑政治(たばたまさじ)の生涯とは

裕福な名家に生まれる

田畑政治(たばたまさじ)は、明治31年(1898年)静岡県浜松市に生まれます。

 

家柄は「八百庄商店」という酒屋で、浜松イチといってもいいほど裕福な名家だったようです。

 

浜名湾を目の前にしながら育ち、小学校では水泳部に入ります。
当時はもちろんプールはないですので、浜名湾で泳いでいました。

 

水泳に夢中に、しかし病気により指導者に

田畑は水泳に夢中となり、学校の中でもエース的なスイマーでした。

 

ご存じない方も多いかもしれませんが、浜名湾付近は水泳が非常に盛んな地域でした。

 

水泳がまだスポーツという認識がされていなかった時代から学校教育に水泳が組み込まれ、世界で活躍する水泳選手の育成に大きく貢献しました。

 

浜名湾方式と呼ばれ、「フジヤマのトビウオ」と称される古橋廣之進選手も浜松市の出身です。

古橋廣之進
出典:wikipedia

水泳選手として猛練習に励む田畑ですが、高校時代に盲腸と大腸の病気になり、選手として続けることを断念せざる負えなくなります。

 

その後は水泳指導者として活躍することになります。

 

朝日新聞社に入社して政治部門の記者として活躍

田畑政治が優秀だったのは水泳だけではありません。
頭もすこぶる優秀で、東京帝国大学に入学します。

 

大正13年(1924年)に卒業すると、朝日新聞社に入社しました。
政治部門に配属され、総理大臣にも務めた鳩山一郎氏や高橋是清氏にも目をかけられました

 

昭和24年(1949年)には常務に就任します。
想像できるかと思いますが、大手新聞社の役員ですので、相当顔が広く、影響力も大きいです。

 

この人脈が、のちのオリンピック招致の際に大いに役立つことになります。

 

日本トップの水泳指導者になる田畑政治

水泳競技者としては、あきらめざる負えなかった田畑政治ですが、水泳への熱意がなくなることはありませんでした。

 

高校時代に選手を引退した田畑は指導者となり、学校の全日本優勝に貢献しました。
そして大正5年(1916年)に浜名湾遊泳協会を設立しました。田畑が18歳の頃です。

 

この時すでに田畑の志の高さ、行動力が並ではないことがわかりますよね。

 

その後まだ日本には浸透していなかったクロールを取り入れ、日本のトップとなる選手、記録を生み出していく指導者となっていきます。

 

水泳監督・選手団団長としてロサンゼルスオリンピックに参加

田畑政治は昭和4年(1929年)には日本水泳連盟の専務理事と就任し、全国の水泳界に影響を及ぼす存在となります。

 

昭和7年(1932年)に開催されたロサンゼルスオリンピックでは、水泳監督兼選手団団長として参加します。

 

日本の水泳の活躍は目覚ましく、金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個という活躍でした。
日本全体のメダル18個のうち12個が水泳でした。

 

今のようにプールがあるわけでもなく、国際大会の経験もまったくなかったにも関わらずの結果でした。
田畑の監督しての能力の高さがどれほど凄いか伝わってきます。

 

翌年には田畑は結婚しますので、公私ともに充実した日々だったのではないでしょうか。

 

ベルリンオリンピックでは日本女性初の金メダル獲得

昭和11年(1936年)にベルリンオリンピックが開催されます。

 

前回のロサンゼルスに続き、日本の水泳選手団は大活躍をします。
金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を獲得します。

前畑秀子
出典:showa-g.org

この大会で一躍有名になったのが日本初の女性金メダリストになった「前畑秀子」です。
200m平泳ぎに出場し、開催国ドイツの選手とデッドヒートを繰り広げます。

 

NHKの河西三省(かさいさんせい)アナウンサーが、「前畑がんばれ!」を繰り返し、「前畑リード!勝った!前畑勝ちました!」のアナウンスは日本を熱狂させました。
「前畑がんばれ!」は24回繰り返されたそうです。

 

東京オリンピックの招致に尽力!しかし幻に...

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田畑政治は幻となった東京オリンピックにも尽力しました。

 

日本初・アジア初のIOC委員として獅子奮迅の活躍をしたのが、「柔道の父」とも呼ばれる嘉納治五郎です。

関連記事:【柔道の父】嘉納治五郎の偉大さ!名言や子孫は?熱い生き様と死に様

 

嘉納治五郎
出典:wikipedia

田畑や嘉納の奮闘でなんとか一度は東京オリンピックの招致に成功しました。
昭和11年(1936年)に決定し、開催は昭和15年(1940年)と予定されます。

 

実際に東京オリンピックが開催されたのが1964年ですが、それから24年前に招致に成功していたのです。

 

しかし、戦争の激化により開催中止となりました。

 

戦争期間はとにかく戦争第一ですし、当時は食べるものすらなく、生きていくのも精一杯だったはずですので、スポーツをやっている場合ではなかったことが想像できます。

 

明治初期にはスポーツというものはただの遊びとして認識されていました。
しかしスポーツは、健康や精神、政治や文化交流など、スポーツが果たす役割は大きいです。

 

ようやくそのことが日本でも認められ、日本中で選手を応援して、盛り上がりができてきた頃でした。

 

オリンピックは平和を願った祭典です。
日本におけるオリンピック、スポーツを支え続けてきたのが嘉納治五郎であり、いだてん前半の主役である金栗四三です。

関連記事:金栗四三のマラソンに捧げた生涯!箱根駅伝創設者!年表や名言、子孫は

金栗四三マラソン選手出典:http://kaigai-matome.net

その意志を受け継いだ田畑、彼らが目指した東京オリンピックは、悲しくも「平和」の真逆である「戦争」によって中止となったのです。

 

当時と今では風潮はまったく違うかと思いますが、本当に無念だったと思います。

 

田畑政治の不屈の精神で日本スポーツは復活する

昭和14年(1939年)には日本水泳連盟の理事長となった田畑ですが、終戦となるとすぐに立ち上がります。

 

その後も田畑は昭和21年(1946年)に日本体育協会の常務理事に、昭和23年(1948年)には日本水泳連盟会長、JOC総務理事など、日本スポーツ界における要となる存在となっていきます。

 

また本業である新聞社の仕事でも朝日新聞東京本社の代表取締役に就任するなど、多忙を極める状態でした。

 

戦後初めて開催された昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックでは、日本は参加することすら断れます。
国際水泳連盟(FINA)にも加盟できない状態となります。

 

戦争が及ぼした影響は停滞ではなく、明らかな後退であったことは明白でした。

 

しかし、田畑のスポーツへの熱意は変わりません
ロンドンオリンピックの日程に合わせて日本選手権の決勝を開催するなど、日本のスポーツに目が止まるように試行錯誤しました。

 

日本選手権では、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進(ふるはしひろのしん)選手、橋爪四郎(はしづめしろう)選手が世界記録を更新する結果を残します。

 

それは同時に開催していたオリンピックの記録よりも速く、日本の実力を世界にアピールする結果となりました

 

こうした歩みが世界にも認められていき、翌年には国際水泳連盟(FINA)への加盟が認められることになります。

 

日本が再びオリンピックに参加!

田畑率いる日本の水泳選手団は、昭和24年(1949年)にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権大会に出場できることになりました。

 

最初は認められませんでしたが、田畑がマッカーサーに働きかけるなどして、ようやく承認されたことでした。

 

しかし、現地での日本人への対応はひどいもので、日本人を宿泊させるホテルがない状態だったのです。

 

そこで田畑らに協力したのが、日系人のフレッド・イサム・ワダでした。
日本出身の事業家で、地元である日本人への支援を惜しみませんでした。

 

フレッド・イサム・ワダたち日系人からすると、出身国である日本と、住んでいるアメリカとの戦争だったわけです。

 

戦争中、そんな日系人への非難は相当だったはずです。
想像もできないほどの苦しみを味わったのではないでしょうか。

 

大会では、フレッド・イサム・ワダの支援・応援に応えるように、日本人選手が大活躍しました。

 

この大会でも古橋廣之進選手や橋爪四郎選手は世界記録を更新するのです。

 

そしてついに、昭和27年(1952年)のヘルシンキオリンピックでは日本の参加が認められました

 

ヘルシンキオリンピックでの日本人の活躍は乏しいもので、水泳では銀メダル1個という結果でした。

 

それでも日本スポーツ復活として大きな一歩であったことは間違いありません。

 

国際大会へのブランクや、もしかしたら戦時中、戦後の食糧難および練習不足などでの体力低下も影響したのではないかと想像してしまいます。

 

田畑政治は、ヘルシンキオリンピック、次のメルボルンオリンピックと続けて選手団の団長を務めました

 

夢の東京オリンピックに向けて

田畑政治はいだてんの主役出典:city.hamamatsu.shizuoka.jp

戦後再びオリンピックの歴史に参加する日本ですが、復活の道を進むのはスポーツ界だけではありません。

 

日本経済、日本という国そのものが猛烈な勢いで成長していきます

 

世界の中に参加する、関わっていくだけではなく、影響するような力を持つようになっていきます。
そして日本はオリンピックを日本に呼ぶという夢を持つようになるのです。

 

この頃の田畑政治は、日本スポーツ界にとって、肝心要の存在となっていました。
都知事と一緒に東京オリンピックの招致を目標に動き出します。

 

ここで新聞記者として成功をおさめた力がいかんなく発揮されます。
政治や財界へ広い顔をもつ田畑は、オリンピック招致を国家プロジェクトになるように働きかけ、確実に動かしていきました

 

なんせかかる資金が半端ではありません。
選手強化はもちろん、施設や交通環境の整備、それに伴う人的資源の確保など、オリンピックを招致するには凄まじい資金や人材が必要です。

 

当時の都知事の安井誠一郎氏や総理大臣であった岸信介氏など、日本トップの力も動かします。

 

また、以前にも登場した日系人のフレッド・イサム・ワダの協力も大きく影響しました。
アメリカに人脈があるため、日本へのオリンピック招致についての説得をしてくれたのです。

 

こうした田畑政治を起点とする尽力によって、ついに昭和34年(1959年)、1964年の東京オリンピック開催が決定されました。

 

アジアではまだオリンピックをしていない、オリンピックは世界の祭典であるという、「アジア初開催」を大きく主張し、見事勝ち取りました。

 

柔道と女子バレーボールをオリンピックの正式種目に

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東京オリンピック開催が決まったとはいっても、本当に忙しくなるのはここからです。

 

東京オリンピック組織委員会が設立され、田畑は事務総長兼選手強化対策本部常任顧問に就任します。

 

そこで田畑はある働きかけをします。
柔道と女子バレーボールをオリンピックに正式種目にしようとしたのです。

 

「柔道の父」でもあり、「日本のオリンピックの父」でもある、嘉納治五郎の悲願であったことであるはずです。

 

それを田畑が意志を受け継ぎ、見事実現したのです。胸が熱くなります

関連記事:【柔道の父】嘉納治五郎の偉大さ!名言や子孫は?熱い生き様と死に様

 

また、男子バレーは正式種目だったにもかかわらず、女子バレーはオリンピックの種目にありませんでした。
男女平等の観点を訴え、こちらも見事実現します。

 

結果としては、ご存じのとおり女子バレーは「東洋の魔女」と称される大活躍をしました。

 

東京オリンピック前にJOC辞任

これほどオリンピックに尽力してきた田畑政治ですが、実は東京オリンピックの前にJOCを辞めています。

 

昭和37年(1962年)にアジア競技大会が開催されたのですが、この大会をめぐって田畑は辞任したのです。

 

国同士の政治的な問題が絡んだすえのことでした。
田畑が何か失敗したとかではありません、国内でも政治的な要因があったのです。田畑は当時のオリンピック大臣との仲が悪く、政治的な圧力もあったと言われています。

 

ですので、田畑は東京オリンピックではイチ委員として応援するかたちとなりました。

 

いずれにしても、田畑政治の情熱と執念が実を結んだのです。
昭和39年(1964年)10月10日、日本の悲願であった東京オリンピックが開会しました。

 

選手も期待に応える大活躍をして、29個のメダルを獲得しました。

 

晩年もスポーツの発展に尽力した田畑政治

東京オリンピックでは、実は水泳の活躍が芳しくありませんでした。
メダル銅メダル1個という結果でした。

 

田畑は水泳の練習環境の整備のために、屋内プールの建築や選手強化に力を入れました。

 

また、昭和47年(1972年)開催の札幌オリンピックにも大きく貢献します。

 

翌年には日本オリンピック委員会(JOC)の会長、昭和52年(1977年)にはJOC名誉委員長に就任します。

 

田畑は昭和59年(1984年)に85歳で亡くなりますが、最期まで水泳、オリンピック、スポーツ界の発展に奔走し続けた生涯でした。

 

田畑政治の妻・子孫について

田畑政治の妻や子供、子孫についてもふれておきたいと思います。

 

田畑は昭和8年(1933年)に妻・菊枝さんと結婚します。
2人の間には一男二女が誕生しました。

 

長男和宏さん、長女治子(はるこ)さん、次女醇子(じゅんこ)さんです。

 

長男の田畑和宏さんはNHKの理事を務め、NHKの関連企業でお仕事をなさいました。

 

また、田畑のいとこには、水野成夫(みずのしげお)という人物がいます。
なんとフジテレビを設立して初代社長を務めた大物です。

 

親子、また親戚もメディアの仕事を手掛けられたということになります。
凄い血筋ですね^^;

 

大河ドラマいだてんの田畑政治役は阿部サダヲさん

阿部サダヲはいだてんの田畑政治役
出典:cinematoday.jp

大河ドラマ「いだてん」では田畑政治は後半の主役として登場します。
配役は阿部サダヲさんです。

 

いだてんの脚本は宮藤官九郎さんですので、宮藤官九郎作品に多く出演する阿部サダヲさんは息もピッタリですね。

 

阿部サダヲさんというと、それこそ宮藤官九郎さん脚本の池袋ウエストゲートパークや、踊る大捜査線などに出演し、徐々に見る機会が増えてきた印象です。

 

今では数々の作品で主役を務め上げ、名俳優として確固たる存在です。

 

映画「舞妓Haaaan!!!」では、第31回日本アカデミー賞主演男優賞優秀賞を受賞されました。

 

また、大河ドラマは4度目の出演で、おんな城主直虎では徳川家康役を演じました。

 

私はドラマ「医龍」が印象的です。
名物麻酔科医として強烈な印象でした。

 

映画「奇跡のリンゴ」も良かったですね!
、、、
と、よくよく振り返るとかなりの作品で印象的な役柄を演じています。

 

つまり名俳優なんですね(^^)
そんな阿部サダヲさんが、「田畑政治」をどう演じ切るのか、楽しみすぎです!

 

最後に

田畑政治は東京帝国大学を卒業し、水泳の指導者として国内のみならず世界でも何人もの金メダリストを輩出し、競技を支える運営のトップとして活動しながら、同時に仕事人としては朝日新聞社の代表となる、そして政界・財界を動かしてオリンピックを招致させる男。

 

凄すぎる人物な気がしてなりません。
頭脳がとてつもなく良く、また多くの人を巻き込む人間的な魅力と統率力、、、想像するとキリがないほどです。

 

私も含めて、多くの人が役者さんを通してですら、田畑政治がどんな人物かを見たことがありません。
いだてんを通して田畑政治を知る人がほとんどなのではないでしょうか。

 

確実に言えるのは、田畑政治がもたらしたオリンピックとスポーツの普及は、日本という国に希望や自信、または健康や人と人の絆、一人一人の成長する機会など、表現しきれないほどのモノを与え続けています

 

オリンピックで言えば、見ている人に数えきれないほどの感動や勇気を与えています。

 

歴史なことを考えれば、それは日本だけではありません。
アジア、いやオリンピックの拡大や祭典の意義を考えると、世界中のたくさんの人々に、無数の「何か」を田畑政治はもたらしました

 

2020年の東京オリンピックは、56年前とはまた違うかたちで国や東京という大都市、そして私たちひとりひとりに大きな影響を与えるはずです。

 

それは胸を打つ感動かもしれません、選手の奮闘や努力を通して何かを決意させるかもしれません、背中を押して一歩を前進させるかもしれません。

 

この記事を書かせていただきながら、すでに私は田畑政治と1964東京オリンピックに胸を打たれています^^;

 

いつまでも、もっと深く知りたい気持ちもありますが、今日のところはここまでにします。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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