嘉納治五郎(かのうじごろう)。
「柔道の父」また「日本の体育の父」と称される男です。
日本に初めてオリンピックに参加させる、さらに日本初のオリンピック招致に成功させたという大偉業も成し遂げています。
そんな大人物である嘉納治五郎ですが、柔道を始めたきっかけは「強くなりたい」という想いでした。身長が小さかった嘉納は、腕力で負けていても相手を倒せる技に関心を寄せ、夢中になるのです。
そうです、スタート地点は私たちが時に何かを決意する気持ち、ああなりたい・こうなりたいという気持ちと一緒です。
そんな嘉納治五郎の生き方からは、必ず私たちが生きるためのヒントを学べるはずです。
どうぞ最後までお付き合い下さい。
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嘉納治五郎(かのうじごろう)とは
嘉納治五郎は1860年、現在の兵庫県神戸市に生まれました。1860年というと、桜田門外の変が起こった年です。大老の井伊直弼が暗殺された事件ですね。
嘉納家は村一番の名家であり、治五郎の父は非常に優秀な人物でした。勝海舟の支援者としても活躍したそうです。
戊辰戦争が終わった明治3年(1870年)、治五郎が10歳の時に父は明治政府に仕えることになり、東京に引っ越します。
治五郎は成績優秀で、明治10年(1877年)には官立東京開成学校(現在の東京大学)に進学しました。
柔道の出発は「強くなりたい」という気持ち
頭脳では周囲を圧倒させる嘉納治五郎でしたが、身長が160㎝ほどで体格も小さかった嘉納は腕力では劣りました。いくら文明開化と叫ばれる時代とはいえ、力が弱い者を下に見る風潮はあったのでしょう。嘉納はだいぶいじめられたそうです。
嘉納は悩みました。純粋に強くなりたかったのです。
腕力では勝てなくても、柔術を修得することで強くなれるということを知った嘉納は、柔術を学べる場所を探します。
探すといっても簡単に看板が出ているようなものではありませんでした。整体をしている人は柔術家であるということを聞いて、1件1件訪ね歩いたのです。嘉納の柔術への熱意の大きさが伝わってきます。
そうしてようやく天神真楊流柔術を教える福田八之助という師匠と出会い、嘉納は福田道場に入門します。
何度も何度も師匠に投げられ、理屈ではなく体で学ぶという指導でした。
そもそも柔術を学ぼうとする人が少ない時代です。
そんな中、嘉納は一心に練習に励み、注目されるほどの腕前になります。
明治12年(1879年)、渋沢栄一からの要請で、来日したユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領の前で演武するのです。
その後師匠の福田八之助が亡くなり、嘉納が師範の代わりとなって門下生に指導しました。嘉納の腕が道場でも随一であったことがわかります。
それで満足する嘉納ではなく、次に天神真楊流柔術の家元である磯正智の弟子となって学びます。嘉納は磯正智にも認められ、1つの流派を極めたことになります。
講道館の創設
出典:wikipedia
相変わらず武術の練習に励む嘉納ですが、21歳の頃に色々な流派の柔術を目の当たりにする機会を得ます。
流派によってそれぞれの良さがあることがわかった嘉納はさらに柔術を学び、練習に励みます。
また、嘉納は柔術の修行を通して、体の鍛錬はもちろん、精神的な面も鍛えられることを自ら体感します。このことが柔術の鍛錬の重要さを一層心得るようになり、後に教育する上で大きな指針となります。
明治15年(1882年)、22歳になった嘉納は「講道館」を創設するのです。
弟子を募り、今に伝わる柔道の基礎がここで研究・鍛錬されていったのです。
複数の流派の柔術を学んだ嘉納は、「崩して投げる」という技を追求しながら、弟子に指導していきます。12畳から始まった講道館ですが、どんどん弟子が増えていき、広い道場になっていきました。
明治22年には警視庁の武道大会で講道館の門下生が優勝したことで、警視庁で採用されることになります。そのことが広く柔道を知ら渡らせるきっかけとなりました。
また、明治31年には旧制中学の必須科目にもなり、武道・スポーツとして確固たる競技となるのです。
教育者でもある嘉納治五郎
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嘉納治五郎が講道館を創設する頃、嘉納は学習院の教員となります。
そして講道館だけではなく、あと2つの塾を開き、武道だけではなく、知育や徳育も教育したのです。
さらに弘文館という英語を教える学校も開くのです。将来的に国内だけではなく、世界で仕事をしていく時代が来ることを見据えてです。
この説明だけで嘉納治五郎という人物が、とてつもない教育者であることはわかりますよね。
その後も文部省の仕事をしながら、複数の学校の教育に携わるという激務をこなします。
中国の教育にも尽力
1896年(明治29年)、嘉納が36歳の頃、日本で初めて中国からの留学生を受け入れます。
中国各地から留学生を増やし、教育者になるための教育を行いました。
いわば、嘉納は国内だけではなく、中国の教育にも大きな貢献をしたということです。偉大すぎますね^^;
筑波大学の校長に就く
出典:wikipedia
1896年(明治29年)、高等師範学校(現在の筑波大学)の校長に命ぜられます。
高等師範学校は教育者を育てる学校です。その校長に就くわけですので、嘉納が極めて優秀な教育者であるということが認められたということです。嘉納はより良い教育者の輩出のために全身全霊で取り組みました。
筑波大学時代に出会ったのが日本初のオリンピック選手となる金栗四三です。金栗にとって嘉納は大恩人であり、一番信頼を寄せていました。
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オリンピックの参加に尽力
明治42年(1909年)、嘉納が49歳の頃、国際オリンピック委員会会長から、国際オリンピック委員(IOC)になることを駐日のフランス大使を通じて説得され、嘉納はアジアで初めてのIOC委員となります。
そして明治45年(1912年)、ストックホルムオリンピックに日本は初めて参加したのです。
この初参加も平坦な道ではありませんでした。
スポーツへの理解がないため、文科省も協力しませんでした。嘉納は大学を中心に協力者を募りました。そして予選会のための会場が整備され、選手も集まり予選会を開くことができたのです。
そうです、嘉納治五郎だからこそオリンピック参加は果たされたのです。嘉納の人望や信頼がなければ難しかったのではないでしょうか。
そうしてオリンピック選手として選定されたのが、金栗四三と三島弥彦です。
関連記事:三島弥彦の生涯~年表、妻や子孫は?驚きの身体能力とあっぱれの潔さ
嘉納は日本選手団長としてストックホルムオリンピックに参加しました。
これまでの嘉納の功績を聞いたIOCが嘉納に声をかけ、日本のオリンピック参加を呼びかけ、嘉納を慕う者や応援する者の力を得て予選会を開催し、飛行機がない時代に船と鉄道でスウェーデンまで渡航してたどり着いたのがストックホルムの地です。
そこで掲げられた日の丸、少数ながらも入場する選手、その姿を見た時の嘉納の感動はどれほどだったか、想像すると胸が熱くなります。
東京オリンピックの招致を成功させる
その後もIOC委員として精力的に活動し、日本は継続してオリンピックに参加します。
そうしているうちに、最初は関心が低かったスポーツ、オリンピックですが、徐々に選手のレベルが上がり、オリンピックでも日本人が活躍できるようになると、国民全体が応援するようになりました。
そうなると今度は日本でもオリンピックはできないか?
という気持ちになってきます。
東京オリンピック開催を要望する声が大きくなっていき、ついに嘉納に招致活動の白羽の矢が立ったのです。
しかし当時日本がオリンピックを招致するには大きな壁がありました。言うまでもなく戦争です。
満州事変が起こり、軍備拡大の動きがとられていた時期でした。
しかし、その情勢をくつがえすほどの力が嘉納にはありました。
この頃はIOC内でも嘉納は最年長になり、実績や信頼が非常に高くなっていました。
そんな嘉納の尽力のおかげで、昭和11年(1936年)に東京オリンピック開催が決まります。開催は昭和15年(1940年)と予定されました。
しかし、戦争は激化の一途です。こうなると国内でもオリンピックなどやっている場合ではないという声が大きくなります。
それでも嘉納は粘り強く各方面に説得します。
そして最終決定されるIOC総会に参加するのです。カイロでの開催でした。
やはり最後は嘉納の信頼の厚さがモノを言い、東京オリンピックが決定されます。
出典:wikipedia
嘉納治五郎の最後
IOC総会を終えた嘉納らは日本に向かいますが、その途中、船上で嘉納は息を引き取ります。77歳の生涯でした。
嘉納の尽力に一度は決まった東京オリンピックですが、その後の反対、戦争の激化により中止となりました。
最終的には残念な結果となりましたが、嘉納治五郎が託された使命、自らが成し遂げようと決意したことは実ったわけです。
嘉納は最後の最後まで務めを果たした人生と言えます。凄まじい情熱と使命感を感じます。
嘉納治五郎の名言・言葉
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嘉納治五郎はいくつもの名言・言葉を残しています。いくつかピックアップしてご紹介します。
自他共栄
嘉納の有名な理念の1つです。自分だけではなく、他人と共に栄えようと生きることの大切さを説いています。相手を尊重して思いやる、助け合う精神を示しています。
精力善用
この言葉も代表的な言葉です。精力とは心と身体を意味します。心身の力を良い方向に用いることの大切さを説いています。
人に勝つより、自分に勝ちなさい。
この考え方は嘉納治五郎だけが持っているわけではありませんが、嘉納もまた自分に厳しく、自己の成長を追い求める人生だったことがわかります。
時間を最も有効に利用した者に、最も立派な仕事ができる。
こちらも良く聞く教えですが、嘉納も時間の使い方にこだわって仕事に取り組んでいたことがわかります。嘉納は複数の学校を開いたり、いくつも役職を兼務しながら仕事をすることが多かったです。忙しいから、時間がないからできないということではなく、時間の使い方を工夫することで膨大な量の仕事をこなしていたのでしょう。現代のビジネスマンと同じですね。
柔道とは、心身の力を、最も有効に使用する道である。
その修行は、攻撃防御の練習により、精神身体を鍛錬し、
その道の真髄を、体得する事である。そして、是によって、
己を完成し、世を補益するのが、柔道修行究極の目的である。
講道館に掲げられている、嘉納が柔道をする目的を説いた言葉です。柔道は自分の成長のために、そして社会を良くするために修行するものであるということを伝えています。まさに嘉納治五郎自らが実践した生き方そのものです。
嘉納治五郎の妻・子孫
嘉納治五郎の妻は、外交官・漢学者である竹添信一郎の娘の須磨子です。父の竹添信一郎は外交官としても漢学者としても非常に優秀な人物でした。
嘉納は3男5女と子供にも恵まれました。
長男の竹添履信は画家として活躍しました。嘉納の妻の生家の苗字ですが、養子に出したようです。
次男の嘉納履正(りせい)は嘉納の意志を受け継ぎ、講道館の第3代館長となり、また全日本柔道連盟の初代会長を務めた人物です。
履正は世界柔道選手権大会を世に生み出しました。
そして1964年の東京オリンピックの際に、柔道を正式種目に追加させるという大きな功績を残すのです。
治五郎は目にできませんでしたが、自らが命をかけた柔道とオリンピック、それが東京で開催されるオリンピックで結びつくというのは言葉にできません。治五郎の魂が受け継がれていたように感じます。
履正の子供である嘉納行光も講道館の館長、全日本柔道連盟会長を務めた人物です。
治五郎の意志が脈々と受け継がれ、現代の柔道界・スポーツ界に影響を与えていることがわかりますね。
いだてんの嘉納治五郎役は役所広司さん
出典:oricon.co.jp
大河ドラマいだてんでは、役所広司さんが嘉納治五郎役を演じられます。
毎年のように日本アカデミー賞の主演男優賞を受賞されていましたよね。説明不要な日本を代表する俳優です。
大河ドラマでは1983年の徳川家康の織田信長役をはじめ、何度も出演しています。1994年の花の乱以来の出演ですので、久しぶりになります。
大人物嘉納治五郎を、大俳優役所広司がどう演じられるのか、本当に楽しみです。
最後に
嘉納治五郎、私はこの記事を書く前は名前と柔道の偉い先生というイメージしか持ち合わせていませんでした。
しかし、嘉納の生涯をたどり、そして功績をふれると、その偉業の大きさに驚愕しました。これほどの人物はそうそういないのではないでしょうか。
大河ドラマいだてん、そして2020年東京オリンピックで再注目される人物かと思いますが、もっともっと大きく評価されるべき人物かと感じます。(私の認識不足であれば大変申し訳ございません)
嘉納治五郎の生き方を調べれば調べるほど、簡単には説明しきれない凄さがあります。
恐縮ですし、勝手な想像も入ってしまいますが、あえて表現させていただきます。
凄まじい情熱を持ち、謙虚な姿勢を貫き、そして圧倒的な行動力で道なき道を切り開いた男、それが嘉納治五郎ではないか。
心から敬服いたします。
また、今日の自分の姿勢や行動を振り返り、少しでも嘉納治五郎の教えに近づけるように歩みたい、そう背筋を伸ばさずにはいられません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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