沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)。
坂本龍馬と共に土佐藩を脱藩し、海援隊の中心メンバーとして活躍した男です。
今回は沢村惣之丞の生涯をたどりながら、その生き方から学んでいきたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さい。
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土佐藩に生まれた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)
沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)は、1843年に土佐藩に生まれます。
地下浪人の家柄でした。
坂本龍馬が1936年生まれですので、7歳も年下なんですね。
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沢村延世、前河内愛之助、関雄之助などと呼ばれることもあります。
当時は変名を使うことがよくありましたね。
沢村は間崎哲馬に師事して学びました。
剣については日根野道場で磨きました。龍馬も通っていた道場ですね。
当時の土佐藩と言えば、武市半平太の土佐勤王王ですよね。
沢村惣之丞も例にもれず加盟し、攘夷活動をしていきます。
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1862年、のちに天誅組を結成する吉村虎太郎らと共に脱藩します。
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坂本龍馬と脱藩、海援隊で活躍
出典:wikipedia
沢村惣之丞は武市に活動報告をするために一時帰国しますが、その後坂本龍馬らと再度脱藩することになります。
その後坂本龍馬と共に勝海舟の弟子となり、神戸海軍塾に入門します。
沢村は龍馬の甥にあたる高松太郎と一緒に活動することが多かったようです。
神戸海軍塾が解散となった後も、沢村は龍馬と一緒に歩むことを決意し、亀山社中(その後の海援隊)に加入して中心メンバーとして活躍をします。
沢村が英語を勉強して習得すると、海援隊の外国人との応対を担当するなど、重要な役割を果たしました。
早くから脱藩して命がけで活動してきたわけです。
龍馬とは一緒に脱藩したわけですので、共に尊敬し合い、信頼し合った関係だったはずです。
龍馬が暗殺された際、沢村は大坂にいたそうですが、直ちに京都に駆けつけました。
当然沢村は怒り狂ったことでしょう。
悲しみも人一倍深かったのではないでしょうか。
当時佐幕論者として有名であった紀州藩の三浦休太郎を龍馬暗殺の首謀者としてみて、三浦を暗殺する計画が立てられ、沢村も参加しました。
三浦の暗殺計画は失敗に終わりましたが、海援隊メンバーの悔しさは耐え難いものであったことが容易に想像できますね。
最期は自決した沢村惣之丞
大政奉還後は旧幕府と新政府における衝突が激しく、政治体制も混乱していました。
海援隊は長崎を警備する仕事をしていました。
そんな中、警備中に誤って薩摩藩士を殺害してしまうというトラブルが起きたのです。
沢村としては、この緊迫した中で土佐と薩摩の関係が悪くなることを恐れたようです。
沢村は責任をとって割腹自殺をしたのです。
薩摩藩側も止めたにも関わらずです。
盟友である龍馬が果たした大仕事を、自分のせいで止めてしまう、逆戻りしてしまうことを避けたかったのではないでしょうか。
もし龍馬が生きていたら、、、
間違いなく自決することなど許さず、生きることを説得したはずです。
海援隊の近藤長次郎が自決したときも龍馬は激しく悲しみましたね。
龍馬はどんな時も生き抜き、自分が担う役割を全うするという生き方を尊重しました。
そこは人それぞれの死生観によりまね。
沢村惣之丞は自らの信じる道を貫きました。
それもまた偉大な生き様であったと感じます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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