岸清一(きしせいいち)。
嘉納治五郎の後を継ぎ、第2代大日本体育協会の会長を務めた人物です。
あまり有名ではないかもしれませんが、実はもの凄い方です^^;
1番有名なのは「岸記念体育会館」ではないでしょうか。
代々木にあってわりと目立つので、見たことがある人も多いと思います。
あの体育会館は岸清一の寄付によって建てられ、日本スポーツの拠点として大きな役割を果たしました。
さらに、本業は弁護士の偉い先生で、大日本弁護士会の会長を務められた方です。
司法界の権威であり、日本スポーツを支えた偉人と言えます。
今回は岸清一の生涯をたどりながら、その生き方から学んでいきたいと思います。
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岸清一(きしせいいち)の生涯
岸清一は松江藩の下級武士の家柄に生まれました。現在の島根県松江市です。
まだ明治になる前、慶応3年(1867年)の生まれです。
小学生の同級生には、第25代・第28代内閣総理大臣を務めた若槻禮次郎がいます。
2人は同級生でもあり、親戚でもあったそうです。
岸は東京帝国大学の法科大学英法科に入学します。
学生時代はボート競技に励みました。
この時、イギリスから来ていた英語教師、フレデリック・ウィリアム・ストレンジと出会います。
岸にとってこの出会いは大きく、スポーツとは?さらにスポーツマンシップとは?という考え方を学びました。
日本法曹界の権威として活躍
出典:wikipedia
卒業すると、都内に岸法律事務所を開業し、弁護士・法学博士となります。
大正4年(1915年)から昭和8年(1933年)まで、大日本弁護士会の会長を務め、日本の法曹界の権威と呼ばれる活躍をします。
当時絶大な力を持つ三菱グループや、東京市の顧問弁護士を務めており、他の弁護士とは比較にならないほどの民事訴訟を担当しました。
昭和7年(1932年)には貴族院議員も務めます。
日本スポーツの根底を支えた功労者
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岸清一は昭和43年の大日本体育協会の設立時から参加しており、大正5年(1916年)には副会長に就任します。
大日本体育協会の初代会長は嘉納治五郎です。
関連記事:【柔道の父】嘉納治五郎の偉大さ!名言や子孫は?熱い生き様と死に様
大正10年(1921年)には第2代会長に就き、さらにその後国際オリンピック委員会、IOC委員となって、スポーツ界をけん引しました。
スポーツが人づくりや経済にも貢献するということが認知されていない時代であったため、当時のスポーツ界は資金に大変苦労したそうです。
岸は大企業や政治にも通じており、岸の熱意あるスポーツ振興によって、次第に国や企業、社会全体に「スポーツとお金」が結びつき、広まっていきました。
岸の存在がなければ、日本の近代スポーツの存在は危ぶまれ、大きく遅れていたかもしれませんね。
さらに、岸の死後100万円(約23億円に相当)が寄付され、岸記念体育会館が設立されました。
岸清一は昭和8年(1933年)に66歳で亡くなります。
幻の1940東京オリンピックの開催が決定したのは1936年ですので、招致の成功を見届けることはできませんでした。
生まれ故郷である松江市の島根県庁には、岸清一の銅像が建立されています。
また、1964年に銅像の除幕式には、IOC会長アベリー・ブランデージ氏が参列し、こう口にしました。
『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』
岸清一の偉大さがわかるエピソードですね。
いだてんの岸清一役は岩松了さん(いわまつりょう)
大河ドラマいだてんの岸清一役は岩松了さん(いわまつりょう)が演じられます。
岩松さんは、俳優だけではなく、映画監督や脚本家、演出家としても活躍されています。
1998年の「東京日和」では、日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞されました。
岩松さんの威厳のある雰囲気が、岸清一の印象に重なりますね。
いだてんでの登場が楽しみです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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