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私が最初に吉田松陰を知ったのは、「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」という本を買って読んだときでした。
その頃私は仕事で悩んでおり、覚悟を持った姿勢や仕事ができていない自覚がありました。そして覚悟が自分の仕事に大きな影響を与えるだろうということを感じていました。
そんなときにたまたま見つけたのが「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」でした。
もちろん私もそこから多くを学びましたし、吉田松陰への生き方、考え方に驚きました。
今回は吉田松陰の生涯をご紹介させていただきます。
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吉田松陰とは
1830年、長州藩の萩に生まれます。4人兄弟。
非常に貧しい家のため、農家も行っていました。父(杉百合之助)は非常に教育熱心な方でした。
叔父の吉田大助の養子に入り、6歳で家督をつぎます。吉田家は藩の軍略の師範を務める家柄で、松陰は9歳の頃藩校明倫館の師範になります。
松陰に山鹿流兵学を教えたのが、もう一人の叔父の玉木文之進です。その玉木文之進が開いた私塾が松下村塾で、後に松陰が引き継ぐことになります。
玉木文之進にたたきこまれた松陰は大きく成長します。
11歳のときには「武教全書」と題した兵法を発表し、藩主毛利敬親に大変な好評を得ます。
松下松陰の名が長州に知れ渡った出来事でした。
その後も勉学に励み、19歳で明倫館の教授となり、21歳の時には九州、その後江戸と遊学することになります。
九州では熊本藩士宮部鼎蔵などと、江戸では佐久間象山に出会います。
遊学を続けるために一度脱藩となる松陰ですが、許されて江戸で佐久間象山に学ぶことになります。
佐久間象山については下記ページでご紹介しておりますのでご覧下さい。
関連記事:佐久間象山という幕末の天才-暗殺されたの?名言や子孫は?
その間ペリー来航があり、国防に対する危機感を強く感じます。そこで密航することを計画しましたが、成功せずに自首します。
松下村塾と吉田松陰の弟子たち
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死刑にはなりませんでしたが、荻に戻った松陰は牢屋に入れられます。
その後自宅謹慎となりますが、叔父の玉木から松下村塾を引き受け、教育にあたります。
この塾こそが、明治維新の始まりと言われる松下村塾です。
松下村塾は武士だけではなく、町人や農民など身分に関係なく入門することができました。
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)の4人を松下村塾四天王と呼ばれます。
弟子には明治に入り、総理大臣をはじめ、大臣などの要職で活躍した方々が多くいます。
伊藤博文、山縣有朋、寺島忠三郎、前原一誠、品川弥二郎、野村靖、山田顕義など聞いたことがある名前がずらりと並んでいます。
松陰は学ぶだけではなく、行動を重んじました。その教えを大切に、行動した長州藩士の志によって明治維新は成し遂げられたと言えます。
師の松陰もそうですが、四天王の4人は全員が明治の時代を迎える前に死んでいます。
高杉は病死ですが、松陰の教え通り学び、そして行動にうつした結果死んでいきます。
松陰が塾で教えた期間は約2年半ほどですが、その考えや志は深く弟子たちに引き継がれていきます。
自らも行動を重んじる松陰は、老中である間部詮勝の暗殺を計画します。そのことが藩からも危険視され、江戸に送還されることになります。
松陰は自供し、斬首刑となります。満29歳の生涯でした。
吉田松陰の墓所
吉田松陰は東京都世田谷の松陰神社に眠っています。
その場所は大夫山と呼ばれ、長州藩主毛利大膳大夫の別邸があった場所です。
高杉晋作、伊藤博文ら松下村塾の弟子たちによって、松陰の死後4年後にこの場所に建てられます。
また、山口県萩の松陰生家の団子岩に遺髪墓があり、遺髪が納められています。
久坂玄瑞、高杉晋作ら17名の弟子らの名前が刻まれています。
まとめ
大政奉還も明治維新も吉田松陰が行ったことではありません。
しかし、松陰の弟子や松陰の考えに影響された多くの人たちが考え、そして実行したことで成し得たのが明治維新です。
たった29年、松下村塾で教えたのはたった2年半の間にここまで多くの人たちに影響を与えた人はそうはいません。まさに時代に影響を与えたのが吉田松陰です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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