当時の長州藩の中心であった松下村塾で学び、幕末から明治維新にかけて活躍した品川弥二郎。
品川について一番フォーカスされるのが選挙干渉ではないでしょうか。
品川弥二郎の人物像に迫り、選挙干渉を行って政治家を退くまでの生涯をたどってみたいと思います。
今回は品川弥二郎の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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誕生~幕末
品川弥二郎は1843年、長州藩の足軽の家柄に生まれました。
15歳の頃吉田松陰の松下村塾に入門して教えを受けます。
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松陰は品川弥二郎の人格を高く評価したと言います。
しかし翌年松陰は安政の大獄で処刑されました。
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その後尊王攘夷派として志士活動に奔走します。
高杉晋作や久坂玄瑞らとイギリス公使館の焼き討ちにも加わっています。
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禁門の変に参加して敗れますが、その後太田市之進、山田顕義らと御楯隊を結成し、幕府と戦います。
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戊辰戦争では参謀として活躍しました。軍歌の歌詞を創ったと言われています。
選挙交渉をして辞職
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明治3年、品川弥二郎は1870年にヨーロッパに渡り、ドイツに留学して軍事を学びました。
帰国後、農商務大輔や枢密顧問官を歴任します。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
明治24年、1891年に第一次松方内閣で内務大臣に就任しました。
第二回総選挙で警察を動員して強力な選挙干渉を行い、巨額な資金を使って買収工作を行った上、死者25名、300名以上の負傷者を出しました。
当然明るみに出て辞職しました。
これほどの選挙交渉を行いましたが、この選挙では敗れています。
品川弥二郎は産業組合や信用組合の普及にも貢献しました。
また、獨協学園(獨協大学)、京華学園の創立にも携わり、教育のためにも尽力します。
また、師である吉田松陰の意思を受け継ぎ、亡くなった志士を弔い、またその活躍を明らかにするために、「尊攘堂」を設立しました。
現在は京都大学内にあります。
品川弥二郎は明治33年、1900年に58歳で亡くなりました。
インフルエンザに肺炎を併発したことが死因でした。
品川弥二郎の銅像
東京の九段下に品川弥二郎の銅像が建っています。靖国神社の門の道路を挟んだ向かい側にあります。
隣には大山巌の銅像が、すぐ近くの靖国神社の中には大村益次郎の銅像が建っています。
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私が行った時は曇りでイマイチな写真しか撮れませんでした。
最後に
品川弥二郎の政治家としての最後は強引な行動をとり、辞職というかたちで終わりました。
しかしドイツでの留学で学んだ軍事や組合に関することを、実際に行動に移して尽力したことは見習わなければならない点であると感じます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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