幕末の動乱の中心であった長州藩に生まれ、志士活動に奔走し、明治に入ってからは何度も大臣を務めた政治家です。

 

一方、実業界、経済界にも大きく貢献し、その功績は今もなお影響を及ぼしています。

 

しかし、その評価は分かれるところであり、悪い評価をする方も少なくありません。

 

私は井上馨の生涯をたどると、力強さを感じます。
また、その非常に高い能力に驚きます。

 

今回は井上馨の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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井上馨(聞多)とは~幕末時代

井上馨は長州藩に生まれます。
藩主毛利敬親より聞多(もんた)という名前を授けられました。
情報に敏感であることからつけられたそうです。

 

井上馨

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


藩校明倫館に入って学び、その後江戸に遊学して海軍など学びながら見聞を広めます。

 

長州藩がそうであったように、井上も過激な尊王攘夷派でした。

 

高杉晋作、伊藤博文らと共にイギリス公使館の焼き討ちにも参加しています。
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伊藤博文、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共にイギリスに留学し、帰国後は開国を提言するようになります。

 

第一次長州征伐の際に襲撃にあい、命の危機に遭遇しました。
50針も縫う怪我で、一度は一緒にいた兄に介錯を頼んだというほどです。

 

その頃多くの長州藩士が戦死し、長州藩は危機に直面します。

 

坂本龍馬の仲介で船と銃をグラバー商会から購入する際は井上が担当し、その後の薩長同盟に貢献します。留学時に習得した英語が活かされました。

 

第二次長州征伐後の 幕府との講和交渉では広沢真臣と共に勝海舟と会談しました。
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伊藤博文の盟友として

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明治に入ると木戸孝允に引き上げられて明治政府に加わります。
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大蔵大輔の任に就き、財政面を担います。
しかし、予算面で衝突し、司法卿江藤新平から不正(尾去沢銅山事件)を追及され、辞任します。
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この後も井上は賄賂などの不正は頻繁に取りだたされ、その点が井上の評価が悪い要因になりました。

 

第一次伊藤博文内閣では外務大臣に就任し、条約改正に着手します。

 

欧化政策と銘打って、鹿鳴館(ろくめいかん)と帝国ホテルを建設しました。
外交の拠点とするための建設でしたが、実態としては有力者の社交場となり、強い批判を受けます。

 

辞任に追い込まれて一度政界を離れますが、黒田清隆内閣では農商務大臣として復帰します。

 

第二次伊藤内閣では内務大臣、 第三次伊藤内閣では大蔵大臣を歴任しました。

井上馨

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


井上は79歳で亡くなりますが、当時としては長生きしました。

そのため晩年は政界、財界に非常に強い影響力を持ったと言います。

 

東京港区の長谷寺、山口の洞春寺にお墓があります。

 

実業界にも貢献

井上は実業界にも大きく貢献します。
財界との関係が深く、三井財閥の最高顧問を務めました。

 

三井物産の前身の先収会社、日本郵船、第一国立銀行(みずほ銀行前身)などの設立に関わりました。

 

また大蔵省時代には渋沢栄一を右腕としました。
後年渋沢は井上が一手に批判を受けていただけるので仕事がしやすかったと言っています。

 

井上馨の妻と子孫

井上の妻は井上武子といい、お互い二度目の結婚でありました。
大隈重信邸で出会ったと言います。
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一家でイギリスで暮らした際、武子は西洋文化やその振る舞いを習得しました。
武子は鹿鳴館ができると社交界で活躍しました。

 

ふたりの間に子供はできませんでした。

 

最後に

井上は批判されても仕方がない事件が多かったことは確かです。

 

しかし、資金調達能力が高く、外交能力に長け、次にどういう時代になるかを見極める先見の明があったことも事実です。

 

それらの能力を持って力強く生き抜き、薩長同盟に貢献し、当時の諸外国との国交を進め、そして今なお社会に貢献している企業や施設を設立させた功績は紛れもない事実です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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