大隈重信の生涯をたどると、志の高さ、意志の強さ、不屈の精神、愛される人徳など、本当に様々な魅力が伝わってきます。
そして簡単には理解しきれない、語り切れない奥深さも同時に感じます。

 

卓越した交渉力を持ち、二度も内閣総理大臣を務め、早稲田大学も創立し、他にも数々の文化活動に携わりました。

 

今回は幕末から明治を生き抜いた大隈重信の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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大隈重信とは

大隈重信は佐賀藩に生まれ、家柄は砲術奉行を務める上士でした。

 

弘道館に入って学びますが、教育方針に反対して退学となります。
その後長崎で蘭学や英語を学びます。

 

英語は来日していたフルベッキから学びました。 
この出会いが大隈の人生に大きく影響します。

 

フルベッキからアメリカの独立宣言のことや国の成り立ちを学び、大隈は大変刺激を受けます。
この時政治家を志したといいます。

 

大隈は藩主鍋島直正(なべしまなおまさ)に認められ、弘道館の教授に就きます。

 

その後尊王の志士として脱藩して上洛します。
ここでは大きな功績は残しませんでしたが、薩摩藩の小松帯刀に推薦されて明治政府に加わります。

 

この小松帯刀の行動の功績も大きいです。
【小松帯刀が示す大切なもの】西郷どん、大久保利通を支えた家老

 

日本を代表する政治家に

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外国事務局判事に就き、豊富な知識と持ち前のコミュニケーション能力で力を発揮します。
キリスト教禁止令のイギリス公使パークスとの交渉を成功させ、一気に認められる存在となりました。

 

その後参議、大蔵卿と要職を歴任して殖産興業を促進します。

 

伊藤博文との対立が印象として強いですが、もともとふたりは友人関係で、ともに日本の将来を語り合った仲でした。

 

しかし憲法制定の意見は真っ向から対立します。
ドイツを参考にしようとする伊藤に対して、大隈はイギリスをもとにするべきと主張しました。

 

最終的には岩倉具視が伊藤が主張するドイツをもとに制定することが決定されました。
岩倉具視とは紙幣にもなった幕末最も立身出世した男~幽棲旧宅は今

 

しかしここで大隈はあきらめません。
イギリス議会を参考にした立憲改進党を結成します。

 

その後伊藤博文は、井上馨の後任として外務大臣に就任するよう大隈に声をかけます。
大隈はそれを引き受けます。

 

後程詳しくご紹介しておりますが、そんな折大隈は爆弾で襲撃され右足を失います。

 

二度内閣総理大臣になる

大隈は板垣退助らと共に憲政党を結成し、第8代内閣総理大臣に就任します。
初の政党内閣であり、薩長閥以外の初の総理大臣でした。

 

新しい日本を国民に示したと言えます。
しかし長くは続かず、衝突が重なり総辞職となります。

 

大隈は一度政治を離れ、早稲田大学の運営や文化活動を行いますが、護憲運動が起こり復帰することになります。

 

政治を離れ16年、再度第17代内閣総理大臣に就任します。
外務大臣、内務大臣を兼務しながら、2年半ほど政権を握りました。
78歳で引退します。

 

大隈重信と福沢諭吉

ふたりは犬猿の仲と言われ、相容れない関係でした。
しかしある時、ふたりが顔を合わせるように酒の席が用意されました。

 

どうなることかと心配された宴席でしたが、ふたりはあっという間に仲良くなり、福沢の薦めで大学を創立することになります。

 

それが東京専門学校、のちの早稲田大学です。
大隈重信と早稲田大学~日本を代表する大学を創立した男とは

 

その後ふたりの友情は生涯続き、ふたりがやり取りした多くの手紙が残っております。

 

福沢が死んだ際、遺族は一切花を受け取らなかったようですが、大隈の花だけは唯一受け取ったと言われています。

 

私大の両雄とも言える大学の創立者ふたりの熱い関係に感動します。

 

右足がホルマリン漬け、義足に

伊藤内閣で外務大臣を務めている頃、大隈は幕末に結んだ不平等条約の改正に奔走していました。
いまだこの問題は解決されておらず、根深いものがありました。
そこで大隈は外国人判事を就任させるという奇策とも言える計画をします。

 

それに対して激しく反対する人物がいました。
筑前玄洋社の来島恒喜です。

 

来島は大隈が馬車での移動中、爆弾を投げつけ襲撃します。
大隈は右足に大けがを負い、切断することになります。

 

その後大隈の右足はホルマリン漬けにされ、自身は義足となります。

 

大隈重信の身長と銅像

大隈は当時としては非常に高い身長で、180cmありました。
190cmくらいあったと言われるほど、当時としては目立つ体格だったと言います。
歴代の総理大臣で一番高身長です。

 

大隈重信記念館内の銅像は実際の身長と同じく建てられています。

 

また、早稲田大学内には2つの銅像があり、1つは298cmもある大きな銅像です。

 

国会議事堂内にも大隈の銅像があり、伊藤博文、板垣退助とともに建っています。
政党内閣を組閣したことが今でも讃えられています

 

国民葬とお墓

大隈は胆石症で83歳で亡くなりました。

 

日本初の国民葬が行われました。
日比谷公園で行われ、30万人が大隈の死を偲んだと言います。

 

大隈のお墓は、東京都文京区の護国寺と佐賀市の龍泰寺にあります。
護国寺には三条実美や山県有朋のお墓もあります。

 

大隈重信の名言

大隈は多くの言葉を残していますが、いくつかご紹介させていただきます。

 

諸君は必ず失敗する。
成功があるかもしれませんけど、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。

 

学問は脳、仕事は腕、
身を動かすは足である。
しかし、卑しくも大成を期せんには、
先ずこれらすべてを統(す)ぶる
意志の大いなる力がいる
これは勇気である。

 

人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ。
ただ生きてるのではつまらない。

上記出典:http://www.earth-words.net/human/ookuma-shigenobu.html

 

最後に

大隈の言葉はどれも教育者としての言葉ですが、すべて大隈が実践してきたことばかりです。

 

数えきれないほどの人に教育し、多大な影響を及ぼしました。
30万人が参列した国民葬が物語っています。

 

そして大隈の意思は生き続け、今も多くの学生が学んでいます。

 

その偉大さは、大隈の意思や志の大きさがそのものであると感じ、その途方もないほどの大きさに震えるほど感動してしまいます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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