明治4年、岩倉具視を全権大使として岩倉使節団がアメリカ、ヨーロッパへの外遊に出港しました。

 

その時、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文と肩を並べ、副使として任務にあたったのが山口尚芳です。

 

山口尚芳が明治政府で就いた職務は優に20を超える政治家であり官僚です。

 

今回は山口尚芳の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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山口尚芳(なおよし,ますか,ひさよし)とは

山口尚芳(なおよし,ますか,ひさよし)は佐賀藩武雄領に生まれました。

 

子供の頃からその優秀さを領主に認められ、長崎で蘭学を学びます。
大隈重信、副島種臣らと共に、長崎英語伝習所でグイド・フルベッキから英語も学びました。

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この長崎での語学の習得が今後の山口尚芳を左右します。
藩に戻ると翻訳方兼練兵掛の任に就きます。

 

その後山口尚芳は薩摩、長州藩士と交わり、志士活動を行います。
特に薩摩藩家老小松帯刀との親交が深かったといいます。
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この頃岩倉具視にも働きかけをしており、後の使節団の際の人選にも影響していると考えられます。

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大政奉還後の戊辰戦争でも活躍し、江戸城入城の際は小松らと先頭に立ちました。

 

岩倉使節団の副使に任命

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明治に入り、越後府判事、外国官判事など要職を歴任します。

 

そして明治4年、幕末に結んだ不平等条約改正のための予備交渉、および近代化に向けた西洋文化の視察を目的とした岩倉具視使節団が編成されます。

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山口は副使として、日本の近代化のためにアメリカ、ヨーロッパ諸国を視察しました。
その時副使だったのが木戸孝允大久保利通伊藤博文です。

岩倉使節団の時の山口尚芳

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

佐賀の乱では鎮圧側に

使節団が帰国すると、征韓論をはじめとして政府内が対立します。
山口は木戸孝允、大久保利通らと一緒の意見で、征韓論に反対しました。

 

同郷の江藤新平がリーダーとなって起こった佐賀の乱では鎮圧にまわりました。
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その後会計検査院の初代院長、元老院議官、貴族院議員など数々の職務に就きました。
56歳で亡くなります。

 

山口尚芳の子孫

山口には息子がおりました。山口俊太郎です。
使節団と共に留学して、帰国後日本の鉄道の普及に貢献しました。

 

最後に

山口尚芳の生涯をたどって驚くのが、任命される職務の数です。
優に20を超えます。

 

幕末の動乱、そして新国家を創る時期に、これだけ様々な職務に就くというのは、器用さや有能さはもちろん、どんな時でもぶれない自分自身を確立できていないと難しいのではないかと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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