明治政府の要職を歴任し、二度の内閣総理大臣を務めた大隈重信。

 

大隈には政治家の他にもう一つの顔があります。
教育者です。

 

大隈が設立した早稲田大学は今や知らない人はいない学校に成長しました。

 

今回は早稲田大学に関するエピソードを交えて、大隈重信から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立

大隈重信は武士に生まれ、明治に入ってからは政治家として活躍します。
大隈の生涯についてはこちらでご紹介しておりますのでご覧ください。
大隈重信の魅力に驚愕!名言や身長、福沢諭吉との関係などすべて紹介

 

大隈は政治家として活躍する中で、これからの日本が発展する上では教育改革が必要であると考え、大学を創立することとします。

 

1882年、明治15年に「学の独立」を掲げ、自由主義精神の育成を目指した東京専門学校が設立されます。

 

大隈は同志社大学を創立した新島襄とも親交がありました。
また、多くの教育に関する本を出版するなど、日本の近代化に向けて教育に尽力しました。

 

この頃大隈は立憲改進党を結成したばかりでした。
同じ年に学校を設立していますので、同時に準備を進めていたことがわかります。

 

東京専門学校は1902年に早稲田大学と名前を変えます。

 

大隈重信邸

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大隈は学校創立2年後に、自宅を早稲田に移しました。
亡くなるまでそこに住むことになります。

 

大隈邸には多くの来客が訪れ、大隈は喜んで対応したといいます。

 

国内はもちろん、外国からも多数訪れました。
ハーバード大学総長、オックスフォード大学教授、シカゴ大学総長など、世界をリードする教育者を招いて教育学を深めました。

 

また、教育関係者だけではなく、政治界、財界、または学生など、様々な人が訪れました。

 

時には大隈が学び、時には大隈に教えを乞い、大隈邸はいつも賑わっていたそうです。
大隈の人徳がありありと伝わってくるようです。

 

こうして大隈は公私をともにして日本の発展に多大な尽力をしました。

 

日本初の始球式は大隈重信が

大リーグの選抜チームが来日し、早稲田大学野球部と試合をすることになりました。

 

大隈が投げることになり、投げたボールがストライクゾーンから大きく外れたそうです。
その際1番打者がこのままボールにするわけにはいかないと考え、空振りします。

 

このことをきっかけに、それ以降始球式では空振りをするようになったと言われています。

 

最後に

大隈が創立時に目指した、独立した精神、自由な精神というのはまさに早稲田大学の校風ともなっており、大隈の意思は継承され続けています。

 

政治家を志して実際に政治家になり、総理大臣にまで上りつめ、そして教育を志して大学を創立する。

 

その偉大さに感服します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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