宇和島藩は10万石ほどの藩でした。
決して大きいとは言えません。
しかし、幕末、藩主伊達宗城の力によって幕府にも影響を及ぼすほどの存在になります。
冷静に見ると、伊達宗城の行動は勇気に満ちており、その決断は驚くものばかりです。
今回は宇和島藩主伊達宗城の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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宇和島藩主伊達宗城とは
伊達宗城は福井の松平春嶽、薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂と並び、幕末の四賢侯と称されます。
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伊達宗城の祖先は戦国時代の雄、独眼竜伊達正宗です。
生まれは旗本ですが、宇和島藩主の養子になり、藩主となります。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
伊達宗城は藩主になると富国強兵を指針に改革を進めます。
藩の財政の立て直しも行いました。
蘭学、西洋式の兵学を有する高野長英を招き、一歩進んだ教育を実行していきます。
高野長英の次は長州藩の大村益次郎を招きます。
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伊達宗城は大村益次郎に蒸気船の造船を命じます。
大村はもとは医者であり、造船の経験はありません。
宇和島藩は薩摩藩に続いて蒸気船を造ったことになります。
薩摩は外国人に手伝ってもらいながら造りましたが、宇和島は藩内の、しかも専門家ではない者だけでやり遂げます。
伊達宗城は西洋式軍備に力を入れ、大砲や銃の使い方を習得させます。
伊達宗城は徳川幕府に影響を与える存在となる
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伊達宗城の改革は着実に実を結んでいき、幕府にも影響を及ぼすほどの力を持つまでになります。
同じく四賢侯の松平春嶽、島津斉彬、山内容堂らと老中に阿部正弘に意見し、取り入れられます。
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第13代将軍家定の時には、次期将軍を巡る将軍継嗣問題が起き、宗城らは一橋慶喜を推します。
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しかし、大老井伊直弼により退けられ、謹慎処分となります。
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その後桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると復帰し、四侯会議に参加して公武合体を推進します。
明治に入り早期に引退
伊達宗城は倒幕派の勢力が高まると宇和島に戻りますが、明治に入っても要職を歴任します。
清の全権李鴻章と日清修好条規を締結します。
また、ハワイ国王が来日した際に接待役を担当し、勲章を受ける活躍を見せます。
しかし明治4年には政界を引退します。
伊達宗城は75歳で亡くなりました。
最後に
伊達宗城は敏感に時勢を見て、勇気を持って行動したと感じます。
小藩ではあったものの、卓越した働きによって名君として歴史に名を残しました。
わかっていても判断できない、行動できないということは現代においても変わらずあります。
私も伊達宗城の勇気と行動力を見習い、少しでも前に進もうと決意します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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