明治4年、まだ政府が整っていない中、岩倉具視を正使とした使節団が外遊にいきます。
その人数は107名と大規模な使節団でした。

 

この視察が実行されるには大変な決断や苦労があり、そして帰国後もまた大きな問題が待っていました。

 

明治維新を語る上でかかすことのできない大きな出来事がこの岩倉使節団です。

 

今回は岩倉使節団を通して学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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岩倉具視使節団とは

明治4年、岩倉具視を全権大使、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使とし、横浜港を出発して、アメリカ、ヨーロッパ、上海など12ヶ国をまわり、1年と9ヶ月後に帰国しました。

岩倉具視使節団

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


出発前、使節団には反対の声も少なくありませんでした。

 

視察は大隈重信がもともと提案していました。
これだけ大規模なものではなく、20~30人程度の計画でした。

 

しかし結果的には岩倉使節団となり、大隈重信は同行もしていません。
大隈の気持ちを察すると良い気持ちではなかったことが容易に想像できます。

 

また、この視察自体に反対する声もありました。
まずこのタイミングです。
整っていない、問題山積みだったこの時期だったからこそ視察が必要であったとも言えますが、消極的な声もありました。

 

次にメンバーです。
当時政府の中心人物であった岩倉、木戸、大久保などがごっそりいなくなることに不安視するのは当然のことです。

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しかし最終的には、岩倉はそういった政府の中心人物自らが外国を目にすることが重要であると考え、判断しました。

 

岩倉具視使節団の目的

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岩倉使節団の主な目的は幕末に結んだ不平等条約を、対等な内容に改正するための予備交渉でした。

 

条約の改正をするといっても、当時の日本政府にはその元知識がありませんでした。
そのため改正をしたいという打診をしながら、交渉の着地点を探るという狙いがありました。

 

また、近代化するための産業や、政治の仕方や軍備、公共事業や社会構造など、すべてにおいて知識が不足していたので、実際に視察しながら吸収する目的がありました。

 

視察中にウィーン万国博覧会も見て回り、西洋文明に触れたことも価値がありました。

 

今の日本では考えられませんが、数百年鎖国していた日本ですので、各国にご挨拶するということ自体にも意義がありました。

 

岩倉具視使節団のメンバー

使節46名、留学生43名、 随員18名の合計107名で出発しました。

 

副使、大使の随行、理事などには薩長土肥の政府関係者が多く、書記には元幕臣の者が多く選定されました。
福地源一郎、由利公正、佐々木高行、村田新八、田中光顕、山田顕義らです。

 

また、木戸や大久保などの子供なども随員として一緒に外遊した他、多くの留学生もおりました。
牧野伸顕、大久保利和、新島襄、金子堅太郎、中江兆民、津田梅子、山川捨松らです。

 

岩倉具視使節団の成果

当初の予定は10ヶ月での外遊でした。
しかし結果としては1年9ヶ月もの期間となります。
視察にかかった費用は現在の価格にすると100億円ほどかかったと言われています。

 

まずアメリカで交渉を試みた使節団でしたが、全権大使であることを証明する委任状がないと指摘されます。

 

そういった外交における交渉の基礎も知らなかったのが実情でした。

 

大久保と伊藤は一度帰国して委任状を取りに行き、なんと4ヶ月もの間交渉が足踏みしました。

 

結局アメリカとの交渉をあきらめ、一団はヨーロッパに移動します。

 

列強と言われる数々の国を視察して目に留まったのがドイツでした。
ドイツが新国家として独立して間もない頃です。

 

首相のビスマルクは一団を歓迎し、自分の経験を踏まえて様々なことを助言します。

 

ビスマルクははっきりと言ったといいます。
条約改正の交渉に成功しても、弱い国に対して約束は守られない。
優先すべきは日本が強くなることである。

 

それを聞いた使節は感銘し、この時以降日本はドイツを見習い議会や軍備を整え、そして富国強兵にひた走ることになります。

 

条約改正の交渉は進みませんでしたが、これだけトップに近いメンバーが自分の目と足で視察したことによって、日本は急速に発展しました。

 

留守政府との対立

政府の中心メンバーが長期間に渡って不在にすることを懸念して、岩倉、大久保らは、岩倉使節団が出発する前に、大きな改革は実行しないようにとの内容をまとめた12項目の条約が留守政府との間で結ばれました。

 

しかし、使節団が帰国するとその条約は守られておらず、多くの政策が施行されておりました。

 

もっとも深く、明確な対立となったのが征韓論です。
幕末から新政府樹立に大きく貢献した大久保利通と西郷隆盛が対立する要因となります。
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そしてその亀裂は修復されることなく、結果としては西南戦争が起きることにつながります。

 

大久保はドイツでのビスマルクの提言をずっと忘れず、産業促進を最優先事項として突き進みました。

 

最後に

岩倉使節団は、多くのものを得て、多くのものを失う結果となりました。

 

物事を進める上で行き過ぎたスピードを求めることは、今ある何かが壊れることも示されたように感じます。

 

視察の一番の成果としては、留学生も含めた大志を持った若者が多くを学び、刺激を受け、近代日本の礎となったことであると考えます。

 

私たちが生活する上で、仕事をする上で、日々目の前に重要なことが数多くあります。
しかし、勇気をもって少しの間その歩みを止めて、自分が飛躍するための知識や見聞を広めるための行動は必ず次に活きることが示されたように思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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