幕末の日本に岩倉具視がいなければどうなっていたでしょうか。
それが想像できないほどに岩倉具視は様々な場面で登場してきます。
岩倉具視がいなければ間違いなく歴史は大きく変わっていたはずです。

 

そんな岩倉具視は幕末で一番出世した人物と言えるかもしれません。

 

岩倉具視の生涯をたどると見えてくるのが、何があっても決してあきらめない強い精神です。
岩倉具視のあきらめずに情熱を燃やし続ける姿は、必ず今の時代に生きる私たちにも学ぶべき点があるはずです。

 

今回は岩倉具視の生涯に迫り、その生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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岩倉具視とは

岩倉具視は下級公家に生まれます。
岩倉の優秀さに驚き、岩倉具慶の養子に入ることになります。

 

岩倉家も決して上級とは言えない格式でしたので生活は大変だったようですが、岩倉の出世はここから始まります。

 

黒船来航以降、開国か攘夷かという今後の日本に大きな影響を及ぼす問題が山積みでした。

 

岩倉は公家も変わらなければならないと決心し、当時の関白に近づきこう提言します。

 

これまでのように幕府に任せきりではなく、公家も積極的に政治に関わるべきである。
教育の充実を図り公家もしっかり勉強しなければならない。
もっと積極的に人材登用していかなければならない。

 

公家はある意味武家よりも身分によって生活がはっきり決まり、教育も固定されたものでしたので、岩倉の行動は相当目立つものであったはずです。

 

時代が岩倉を求めていたと言うべきか、岩倉は引き上げられて孝明天皇の側近になります。

岩倉具視出典:wikipedia

廷臣八十八卿列参事件で岩倉具視の力を示す

そんな折、日米修好通商条約締結の承認の得るため、老中の堀田正睦が朝廷に訪れます。

 

それに対して、関白の九条尚忠が認めようとします。
そこで岩倉が中心となり、88人の公家が猛反対し、結果天皇は認めずに日米修好通商条約締結を反対します。

 

これを廷臣八十八卿列参事件と呼ばれ、内外に岩倉具視の力が示された出来事でした。

 

日米修好通商条約は井伊直弼が勝手に締結したという印象を持っている方が多いですが、それには経緯がありました。実は条約を結んだのは井伊直弼ではなく、松平忠固という老中を務める人物です。

 

だからと言って井伊に責任がないわけではありませんが、いずれにしてもアメリカと日本の当時の国力の差を考えると、条約締結は致し方ないという側面もあるのは確かです。
詳しくは下記ページをご覧下さい。
井伊直弼とは?【安政の大獄の真相に迫る】子孫は彦根で愛される市長

 

井伊直弼が暗殺され、幕府の威厳が著しく失墜していることは明白な情勢でした。

 

公武合体派とされて蟄居にされる岩倉具視

幕府は政権を維持するために公武合体を推し進めます。

 

そこで幕府は孝明天皇の妹である和宮を、徳川家茂の正室にさせようとします。
【篤姫と和宮の関係と絆】幕末最大の偉業を成し得た2人の気高い女性

 

岩倉は情勢を読み、一旦幕府の要求を受け入れ、そこから朝廷主導の政治にしていくよう考えます。
天皇を説得して和宮は幕府に輿入れします。幕府が朝廷にお願いをしてくるということは、幕府の力が弱まっていることを意味している、まさに朝廷の力を示す時であることを、岩倉は朝廷内で説得しました。

 

その時に幕府に出した条件は外国を打ち払うことでした。つまり、攘夷を実行することを条件に輿入れを受け入れます。

 

いくら混沌とした時代であったといっても、公家が幕府に嫁ぐというのは前代未聞です。
岩倉具視に対する天皇の信頼の高さが伝わってきます。

 

しかし、その行為が公武合体とみられ、岩倉は尊王攘夷派の公家から追放されてしまいます。
幕府が揺れていたように、当時公家も揺れていました。

 

隠居生活が出世の決め手になった岩倉具視

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蟄居を命じられた岩倉具視の隠居生活は5年に渡りました。

 

しかし、岩倉はこの状況でもただでは終わりませんでした。
政治への情熱は冷めずに、隠居しながらも水面下で政治活動を行います。

 

この時の岩倉の行動が自身の政治家としての今後を決定づけます。
大きな転換があり、公武合体派から倒幕派にと切り替わるのです。

 

西郷隆盛や大久保利通ら薩摩藩の志士や、土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎らと会い、こまめに情報を収集しながら倒幕に向けて動き出します。

関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで

 

そんな折に孝明天皇が崩御し、時勢は一層倒幕に向けて走り出します。
岩倉具視も徐々に表舞台に戻ってきます。

 

隠居させられるという孝明天皇との関係と、倒幕に向けた動きが活発になってきたことで、岩倉は孝明天皇暗殺の疑いをかけられました。
その真相ははっきりしていないと言われています。

 

討幕の密勅と王政復古の大号令

德川慶喜が大政奉還を行ったものの、いまだ政権は幕府に残ったままでした。
関連記事:徳川慶喜【大政奉還の真実】二条城での大英断はなぜ行われたのか?

 

そこで岩倉は倒幕の密勅のために動き、薩摩藩の大久保利通と、長州藩の広沢真臣に討幕の密勅を渡します。
関連記事:大久保利通の偉大さ!子孫まで凄い!麻生太郎も?妻はどんな人?

関連記事:広沢真臣は稀有なビジネススキルで維新の十傑に【木戸孝允の盟友】

 

その後王政復古の大号令を発して幕府を崩壊させます。

 

岩倉具視の策士ぶりを伝える有名なエピソードがあります。
戊辰戦争を優位に進めるために、錦の御旗を作ったと言います。

 

錦の御旗を掲げることで相手の戦意がなくなり、勝利を確実にすることができると考えたのです。
事実、旧幕府に対する影響は大きく、次々に勝利していきます。

 

その後新政府樹立のための準備が急速に進められることになります。

 

また、岩倉は公家の改革にも着手します。
公家本人はもちろん、それ以外にも手伝いや管理する者などを入れると相当な人数になるため、人員削減を行いました。

 

明治政府の副総裁に

岩倉は明治政府では副総裁につき、明治天皇をサポートします。
こうして岩倉具視は事実上のトップに立ちました。

 

条約改正の予備交渉と西洋文化の視察のための使節団のリーダーにもなりました。
幕末に結んだ条約はあまりに日本が不利な条件だっため、何とかその条件を訂正する必要がありました。


また、同時に政府ができたとはいえ、新たに制度化しなければならない事項が山のようにありました。
日本がこの難問を解決するためには、諸外国を視察して一から学ぶ必要がありました。

関連記事:岩倉具視使節団が残した本当の価値と教訓が偉大!目的やメンバーは?

岩倉具視使節団出典:wikipedia

帰国後も岩倉は貴族院制度の確立や憲法制定など、新国家の基礎を創るために奔走します。

 

制度を創るにしても、基礎がない日本は外国の法律を参考にするしかありませんでした。
どこの国を参考にするかでも意見は割れました。

 

伊藤博文が推薦するドイツか、大隈重信が推薦するイギリスかで意見が対立しますが、岩倉は最終的にドイツを選択しました。

 

そうして制定されるのが大日本帝国憲法です。

 

関連記事:【初代内閣総理大臣】伊藤博文とはどんな人?年表でみる人物像と功績

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岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧跡
出典:wikipedia

岩倉が5年間の隠居生活をしたのが京都の岩倉村でした。
村の名前はたまたまだそうです。

 

命を狙われることもあったようで、岩倉は丸坊主にして隠れながら生活したといいます。

 

その旧宅は現在国登録有形文化財となっており、観光できるようになっています。

 

家が博打場?岩倉具視の性格やエピソード

錦の御旗を作ったり、使節団の外遊を断行するなどの行動を見て感じるのが、その度胸に驚きます。

 

生活が貧しかった若い頃、お金を稼ぐために自宅を博打場にしていたようで、そこには強面の人たちが出入りしていました。
当然トラブルもあったはずですので、そこで鍛えられたのかもしれません。

 

岩倉使節団の際の、副使らと撮影した写真には岩倉だけ髪が江戸時代のままです。
また、京都御所の整備を命じたのも岩倉でした。

 

新国家を創るという使命の中でも、これまで大切にしてきた誇りや歴史を重んじる性格であったことも伝わってきます。

 

明治になってからも、苦労した時代の象徴である旧宅を訪れることがあったといいますので、足を止めて本当に何が大切かを見失わないようにしていたのかもしれません

 

岩倉具視暗殺未遂(赤坂喰違の変)

明治7年、岩倉は赤坂喰違坂(あかさかくいちがいざか)で襲撃されました。

 

西郷隆盛らが政府から去って間もない時期です。
関連記事:西郷隆盛(吉之助)の生涯!妻や子供、子孫は?偉大な名言と壮絶な最後

 

岩倉は何とか逃げきり助かっています。
犯人は元土佐藩士ら9名でした。

 

日本初の国葬

岩倉具視は明治16年、食道がんで亡くなります。
明治天皇が見舞いに訪れた翌日に亡くなりました。

 

岩倉の葬式は日本で初めての国葬(品川区の海晏寺)が行われました。

 

岩倉具視には10人の子供がおり、現在も活躍する子孫を数多く残しています。
関連記事:岩倉具視の子孫には加山雄三が!他にも有名人が続々!さすがの家系図

 

岩倉具視はお金になる(500円札)

岩倉具視の紙幣500縁薩

明治26年500円札ができますが、そこには岩倉具視の肖像画が印刷されています。
岩倉具視はお金になりました。

 

岩倉が印刷された紙幣は1982年まで発行されていました。

 

西郷どん(せごどん)では笑福亭鶴瓶さんが

2018年の大河ドラマ西郷どんでは、岩倉具視役を笑福亭鶴瓶さんが演じられます。

 

岩倉具視は幕末から明治にかけて欠かせない人物だけあって、10本以上の大河ドラマに登場しています。

 

翔ぶが如くでは小林稔侍さん、篤姫では片岡鶴太郎さん、八重の桜では小堺一機さんが演じてこられました。

 

最後に

幕末、新しい時代のために命をかけて奔走した多くの志士がそうであったように、岩倉具視も低い身分に生まれました。

 

多くの優秀な下級武士が活躍しましたが、公家側の働きがないと成し得なかったことばかりです。

 

どんな時もあきらめずに、理想の政治、理想の国を追い求め続けた岩倉具視の存在は偉大です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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