幕末、「人斬り半次郎」の異名の薩摩藩最強の武士がいました。
中村半次郎(のちに桐野利秋)です。

 

そのあだ名からは冷徹な殺人鬼の印象を持ちますが、事実は違います。
また、殺人鬼どころか涙もろく、人情味に溢れる心優しい男でした。

 

その男は同郷の英雄西郷隆盛を慕い、西郷隆盛と生き、そして共にこの世を去ります

 

今回はそんな魅力あふれる中村半次郎の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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人斬り半次郎の真実

中村半次郎(桐野利秋)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

中村半次郎は薩摩藩の下級武士として生まれました。
下級武士といっても西郷隆盛の家などよりもはるかに貧しい家でした。

 

幼少期に父を亡くして家禄をとられ、兄も病死します。半次郎は家族を支えなければならないようになります。
武士とはいっても農家をしないといけない生活でした。他人の畑の手伝いをしながら、それでもその日暮らしという、まさに極貧の生活でした。

 

しかし、そのような生活でも中村半次郎は武士としての誇りや志を失わず、剣を磨き続けます
生活が貧しいので道場に通う余裕はなく、独学で修業します。

 

横木打ちで鍛えた腕は新選組が恐れるほど

横木打ちとは、他人と試合することでも、先生に指導するわけでもなく、ただ木に向かって一人で剣を振る練習のことです。
野球で言えば素振りのようなものでしょうか。

 

少年時代の中村半次郎は、この横木打ちをひたすら繰り返しました。
半次郎だけではなく、薩摩藩の武士はこの練習をします。

 

当時全国でもトップクラスの武力を持っていたのが薩摩藩です。
薬丸自顕流といった薩摩独自の剣術です。中村半次郎もこの剣を磨き続けました。
とりわけ貧しく、しかし練習熱心だった半次郎の腕は見る見るうちに高くなり、その腕は新選組局長近藤勇が認めるほどであったといいます。

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幕末の四大人斬りに数えられる中村半次郎

中村半次郎はその鍛えた剣術の腕でたくさん人斬りをしたかというとそうではありません
戦争以外で斬ったのは、薩摩藩の兵学師範であった赤松小三郎を斬りましたが、その1件のみでした。理由は幕府の密偵だと思って殺害したようで、半次郎が独断で斬りました。

 

中村半次郎は一度剣を抜くとただではすまない、すませられないという信条があり、また剣を抜くと気性が荒くなるという面もあったようです。刀を持った半次郎の顔は仲間でもまともに見られないと言われるほどの迫力があったそうです。

 

中村半次郎は「人斬り半次郎」と呼ばれ、後に幕末の四大人斬りに数えられます。
本当の人を斬ったのは一人でしたが、その気性や圧倒的な腕前があったために、「人斬り」の印象を強くしてしまったのかもしれません。

 

中村半次郎は明るい性格で多くの人から愛された人物

「人斬り」や「極貧」というと、非常に暗い性格なのかと思ってしまいますが、実際の中村半次郎は明るい性格で、無邪気でフレンドリーな人格でした。

 

そんな人柄も良い半次郎は、顔が広いという側面もありました
薩長は険悪な関係でしたが、半次郎は長州藩士とも仲が良く、薩長の連絡係としても活躍しました。

 

またお洒落な一面もあり、明治に入ってからはフランス製の服や香水を好んで使いました。
西南戦争の時も香水の匂いがしていたそうです。

 

西郷隆盛との出会いと中村半次郎(桐野利秋)の活躍

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武士としての努力を怠らなかった半次郎は、薩摩藩家老の小松帯刀に引き立てられ、活躍の場を広げていきます。
国父島津久光が上洛した時には同行するという大役も与えられました。

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その後西郷隆盛と出会い、西郷も半次郎の志と実直さに惹かれて可愛がりました
西郷の秘書役兼護衛役のようなかたちで常に一緒に行動するようになります。

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池田屋事件のあとは長州藩の動きをつかむよう命じられるなど、西郷も大久保利通も半次郎を大事にしました。

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江戸城の無血開城に向けた会談でも、村田新八と一緒に西郷に同行しています。
最重要とも言える仕事に同行させることからも、中村半次郎のことを西郷が厚く信頼していたことがわかります。

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西郷は、学問があれば自分などより半次郎の方が優秀な人物であると言っていますし、
勝海舟も半次郎を西郷の優秀な部下であったという旨の評価をしています。

 

中村半次郎は戊辰戦争では西郷の指揮のもと、数々の勝利をおさめる大活躍をします。
人斬りの異名を今に残すことになったのも、この時の活躍があったからかもしれません。

 

大総督府として会津若松城を攻めることを命ぜられると、見事勝利します。
その際、会津城の明け渡しに立ち会った半次郎が会津の武士のことを想って男泣きしたというエピソードも残っており、半次郎の情の深さ、優しさがわかります

 

そのことを聞いた藩主松平容保は、半次郎に対して宝刀を贈っています。
武士らしい、男と男のエピソードです。

 

坂本龍馬と中村半次郎の関係

坂本龍馬が神戸の海軍操練所の設立に奔走している頃、中村半次郎が塾への入門を希望していたという話もあります。

 

しかし1年ほどで塾が閉鎖されてしまったので叶いませんでした。
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寺田屋事件の後、薩摩藩邸で療養する坂本龍馬を毎日のように見舞いにきたというエピソードも残っております。

 

また、龍馬が暗殺された後には犯人捜しをするなど、中村半次郎は龍馬に対して親しみを持って接していたことがわかります。

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明治での出世と中村半次郎(桐野利秋)の最期

明治に入り、中村半次郎は桐野利秋(きりのとしあき)と名前を改めます

 

陸軍少将、陸軍裁判所の所長を務めるなど、新政府で出世することになります。

 

明治に入っても半次郎は西郷と行動を共にします
西郷が岩倉具視と大久保の説得に応じ、再度上京して政府に加わる際も共にしました。
明治政府と鹿児島のパイプ役のような存在になり、この時も西郷も大久保も半次郎のことを大いに重宝しました。

 

しかし、征韓論の議論が起こって西郷が鹿児島に戻ると、半次郎も辞表を出して鹿児島に戻ります。
鹿児島では西郷の私学校で教育を担当します。

 

西南戦争が起こると4番隊を率いて戦います。最期の戦いでした。
戦場で銃弾を受けて戦死します。38歳でした。

 

中村半次郎(桐野利秋)の子孫

中村半次郎には妻がおり、ヒサといいます。
ふたりの間に子は産まれませんでした。

 

後に半次郎の弟の子どもが養子に入り家督を相続しています。

 

西郷どんの中村半次郎役は中村瑠輝人と大野拓朗が好演

西郷から芋泥棒と呼ばれる半次郎役を中村瑠輝人さんが演じています。
子どもながらに木刀で大人3人を倒すなど強さを見せており、あの意思の強さを感じさせる目が印象的です。

大人になってからの中村半次郎は大野拓朗さんが演じています。

西郷どんの中村半次郎役は大野拓朗さん
出典:NHK

最後に

中村半次郎はまさに極貧という環境で育ちます。
育ったというより育つために幼少の頃から働きます。

 

そんな生きることで精一杯の状況で、志を持って、そして保って努力し続けます。

 

強いと言われる武士は道場に通い、師匠がいるのが通常です。
中村半次郎は精神力と努力で強くなり、新選組が認めるまでの強さを身に着けたというのは本当に感服します。

 

中村半次郎は自分自身が厳しい生活をして、努力してきたからこそ、本当に優しい人になれたのではないか、私はそう感じます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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