幕末の長州藩には有名な志士が多く登場します。

 

そんな中、今の表現で言うとビジネススキルが卓越しており、派手さはないながら維新の十傑にも選ばれた男がいます。

 

長州藩士広沢真臣。
広沢の死は明治天皇も惜しんだと言われます。

 

今回は長州の広沢真臣の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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広沢真臣(ひろさわさねおみ)とは

広沢真臣は長州藩に生まれます。
桂小五郎(木戸孝允)や前原一誠と同い年です。

広沢真臣

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


藩校明倫館で学び、藩の軍制改革に携わります。

黒船来航の際は江戸におり、藩主毛利敬親の護衛をしていました。

 

尊王攘夷が叫ばれる中、広沢も攘夷活動に走ります。

 

長州の調整役として活躍

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攘夷活動というと、暗殺や戦いを起こす印象がありますが、全員が過激なわけではありません。

 

過激派が多い長州藩の中で、広沢は卓越したコミュニケーション能力、調整能力を発揮します。

 

四国連合艦隊の後の交渉では高杉晋作をフォローしました。
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第2次長州征伐の際の講和交渉では、幕臣の勝海舟と安芸宮島で会っています。

 

この頃の長州藩は多くの志士が倒れ、これまで陣頭指揮を執っていたリーダー格がいなくなり、藩全体がかなり疲弊していました。

 

そういった局面では意見をまとめられないことはもちろん、主張するだけの能力では解決しません。

 

確固とした意見を持ちながらも、相手のことも考えながら調整していく能力が必要です。

 

まさに広沢はそういった力を有しており、ギリギリの状態であった長州を救う活躍を見せました。

 

その後も木戸らと共に、倒幕に向けて奔走します。
岩倉具視から大久保利通と一緒に討幕の密勅を受ける任務を担ったのも広沢でした。
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明治に入ってからは参議など要職を歴任して、木戸と並ぶ長州の顔役となります。

 

広沢真臣の暗殺事件

明治4年、広沢は東京の自宅で刺客に襲われ38歳で亡くなりました。

 

15ヶ所も刺されたと言われていますので、犯人の殺意は相当なものであったことがわかります。

 

当時横井小楠、大村益次郎と、明治政府の要人が続けて暗殺されていました。
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明治天皇は早期解決を厳命しましたが、犯人はわかっていません。

 

広沢の功績が認められ、遺族は後に華族に名を連ねます。

 

広沢真臣日記

広沢が綴った日記は幕末から明治にかけての記録として非常に重要なものとして認められています。

 

最後に

日記が示すように正確性があり、状況を見ながら調整し、時には顔役となる。

 

現代に生きていれば非常に優秀なビジネスマンになることが想像できます。
いつの時代も、どの場所にいても重宝される人物です。

 

その基礎となるのが、周囲の信頼であると感じます。
常に周囲への配慮を忘れず、約束を守っていくことで得られるものです。

 

私も少しでも近づけるように努力したいと決意します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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