「日本の鉄道の父」と呼ばれた井上勝。
その道のりは並大抵なことではなく、障壁だらけでしたが、井上の凄まじい学習意欲と情熱で、まさに道なき道を切り開いた生き方でありました。
今回は井上勝の生き方から学んで行きたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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井上勝(野村弥吉)の生涯(誕生~留学)
1843年、長州藩士として生まれます。
伊藤博文が1841年生まれですから、伊藤の2つ下です。
幼い頃は野村弥吉と呼びますが、明治に入り井上勝と改名しました。
藩校明倫館で学びました。
父が西洋への関心が強い人物で、その影響も受け西洋学を熱心に学びます。
黒船の来航により、江戸の沿岸警備を命ぜられ、江戸勤務となります。
そこで井上の生涯を語る上で欠かせない人物、伊藤博文と出会います。
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その後長崎、江戸で航海術や洋学を学びます。
井上の学習意欲は高く、箱根や横浜などでも学び、英語の習得にも励みます。
西洋への関心、また外国で学びたいという気持ちが強かったことがわかります。
イギリス留学
その後藩船の癸亥丸の船長に命ぜられるなど、井上が習得したことは藩にも認められることになりました。
そしてついにイギリス留学の切符を手にします。
周布政之助が計画したイギリス留学が藩主毛利敬親より許可がおりました。
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密航というかたちでの留学でした。
今に換算すると1人1億円ほどの留学費であったと言います。
当時長州藩に余裕があったわけではありません。
それでも5人の若者のために多額の旅費を用意し、また密航を許すというのも凄い話です。
井上はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで鉄道技術、鉱山技術を学びます。
途中資金が無くなり生活に苦しんだ時期もありましたが、働きながら学び、何とか卒業しました。
帰国~鉄道業界のボスに
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桂小五郎の要請により帰国し、明治政府で働くことになります。
鉄道頭、鉄道局長、鉄道庁長官と歴任していきます。
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伊藤博文、大隈重信らは鉄道建設に賛成しており、井上の後ろ盾となりました。
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鉄道建設の推進が明治2年に決定されました。
井上は鉄道建設に生涯を捧げることになります。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
イギリスから資金と技術者の派遣してもらう協力を得て、建設に取り掛かりました。
そして明治5年には日本で初めての鉄道、新橋~横浜間が開通します。
初めての運行には明治天皇も乗ったといい、明治天皇も鉄道建設、普及に協力的な姿勢でした。
この新橋~横浜間の鉄道の収益は高く、それもあって全国的に鉄道建設が進んでいきます。
井上は鉄道局長官に就任します。
盟友の伊藤が総理大臣になると、鉄道建設拡大を提言し、さらに邁進していきました。
ついに新橋~神戸間の東海道線を開通させます。
その頃の所要時間は20時間であったと言いますので、今と比較するとまだだいぶ遅いです。
しかし、それまでは徒歩で江戸と京を行き来するのが当たり前であった時代です。
この移動時間の短縮は、新しい国を造り、文明を発展させるのに多大な貢献をしました。
最期まで鉄道に捧げる
井上は国有化を望んでいましたが、渋沢栄一を始め民営化を推進する者が多く、その対立もあって明治26年に退官しました。
しかし、その後も鉄道への情熱が途絶えることはなく、合資会社を設立し、7900両もの車両を製造しました。
明治42年には帝国鉄道協会会長に就任するなど、名実ともに「鉄道の父」、「鉄道の第一人者」でありました。
その翌年イギリスに視察中倒れ、68歳で亡くなりました。
最期まで鉄道のために生き抜いたと言えます。
最後に
井上の生涯をたどると感じるのが、その学習、または技術の習得に対する貪欲さ、そして鉄道への情熱です。
自分の努力でイギリス留学の切符を手に入れ、そして見事に日本に貢献する技術を習得して帰国します。
帰国してからも経験したことのない事業ばかりです。周りも誰も知りません。
そんな中、反発も押し切って次々と成功させていきます。
まさに1つの事業に情熱をかけ続けた、男として本当に尊敬できる生き方です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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